ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

自分に向き合った人。1.

2010-06-05 19:05:42 | 高知県東部人物列伝
 高知県東部地域、こんな田舎にいても、その時々の時代の波は打ち寄せてくるのですが、もっとも派手な、というか地域が時代に翻弄されていた時期に生きていた男の話です。

 名前を、濱口義立(よしなり)といいます。天保3年(1832)生まれですから、清岡道之助より1歳年長ですし、岩崎弥太郎より2年先輩になります。ですから、著名な幕末の志士達と同年代の方なのです。

 もともと田野町の濱口家は、彼で7代目だったのだそうですが、郷士とはいえ「白札」格ですから、かの武市家と同格なのです。役向きは奈半利川筋普請役。なかなかの重要な職務なのです。昭和初期までの奈半利川は、3年に一度は氾濫を繰り返していたような暴れ川だったのですから、重役です。

 さらに、父源次郎は一刀流の達人であったようですが、彼も居合術に秀でていたそうですから、文武両道であったのです。
 その彼が60歳を越えてから、家督を弟に渡して、北海道に入植するのです。
 場所は、北海道紋別郡湧別村原野(地番なし)なのです。

 今、彼に注目しているのは、還暦をすぎたご隠居さんが厳寒の北海道へ向かおうと、駆り立てられた理由です。
 あくまで想像の世界です。仮定が多くて思い悩んだのですが思い切って書くことにします。
 多分彼は、仲間に対し「死に遅れた。」と思っていたのです。自分の五体をかけて、全存在をかけて、時代と向き合おうとしたのだと思っています。
 そして、自分なりのけじめをつけようとしたのだと考えているのです。

 しかし、まじめな方です。家の財産のことは弟に託し、自分の家系のことは、娘に養子を迎えて独立をさせてから、動き始めるのです。

 濱口家は幕末には、約100石の収入があったそうですから、上士のなかにはいっても中堅クラスです。郷士としては最高ランクなのですから、捨て去る理由はなにもない筈なのです。

 濱口家に迎えられた養子は、後の雄幸です。高知県で最初に内閣総理大臣になった人物なのです。彼が帝国大学を卒業し、大蔵省に入省してから動き始めるのです。それも妻も連れて、2月に極寒の北海道に向かったのです。

 21世紀の現在、そんなことをする人はいないと思います。
 ただ彼は死にたかったのか、多分死に急いだわけでもなかったと思うのです。
 後に彼の娘婿、内閣総理大臣濱口雄幸は、東京駅で暴漢に襲われます。そして「男子の本懐。」と名言を吐くのですが、殺されようが、何をされようとやることはやる。」だったのです。
 
 私は思います。濱口義立はずっと考えていたのです。死に様をです。
 恐れを抱くことなく、前に向かうのです。北海道は、彼にとってそうした場所だったのではないか、そう思っています。

 野根山で屯集した23人を、奈半利川原で斬ってしまった小笠原唯八も戦に向かい、会津戦争の最中、大砲に当たって死んだとされています。
 彼もその日の朝、言ったそうです。
 「今日こそ俺は死ぬる日だ。」狂人みたいに喜んでいたのだそうです。
 今と違って死が身近にあったのです。

 しかし、一体濱口義立は、なんで??。昔の侍の考えることは??。
 それは、次回に。

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