ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

幕末の女性

2009-08-01 14:34:04 | 野根山街道物語
 名前を清岡静。
 幕末、元治元年(1864年)野根山街道岩佐の関所で安芸郡の志士23人を集めて、武市瑞山以下の解放をもとめて屯集した首領・清岡道之助の妻です。

 男達は自らの意思を持って、命を懸けて時代を生きていたときも、女達はひたすら家を守り、子を育てて次の世に系譜を繋いできたのです。
 夫が勤皇運動に熱中しており、さらに前年北川郷大庄屋中岡慎太郎が脱藩して、中央で運動に邁進していることは聞いていたことでしょう。さらに土佐勤皇党の武市以下が捕縛されてから頻繁に郎党と集って相談していることも当然知っていたのでしょう。

 身支度を整え、出てゆく夫に「この子供(邦之助)は、どうしたらよございますか」と問うと、道之助は血相を変えて「こちへおこせ」と立ち上がったのです。そのとき庭にいた下男助平が座に上がり主人の腕を押さえたのです。夫の意思を確認した妻静は子供を抱きしめて奥へ走ったと伝えられています。やがて、一人でその座に帰り頭を下げて「私が悪うございました。」とあやまり、出てゆく夫の姿が見えなくなるまで、家の門口で立ち尽くしていたそうな。

 2人が次に会うのは岡地の獄舎に入れられた時とされています。
 「どうも処刑されるらしい。覚悟せよ。証拠書類は全部焼き捨てるがよかろう。」
 「かねてから、覚悟はしています。余罪の及ばぬよう既にすべてのものは処分してあります。」
 2人の会話は短いものであったでしょう。気丈な彼女も夫の心情を思い、ひたすら子を抱き続けるしかなかったそうな。

 更なる道之助と妻の伝説は処刑された夫の首を抱き、髪を整えて杓子の柄で胴体と継ぎ合わせて埋葬したとの逸話です。道之助の首は首謀者として高知で3日間さらされていたのです。この時眉毛一つ動かさなかったといわれています。命がけの活動をする夫とその後始末をする妻の姿です。

 残された静さんは邦之助を立派に育て上げるのです。邦之助は学問に打ち込んで、慶応義塾に入ります。後年慶応義塾の創業者福沢諭吉の三女しゅん(俊)と結婚。キャリア官僚となり、中央財界で活躍することになります。さらにその子静の孫になる瑛一は慶応大学教授となり、ハワイ大学と慶応義塾大学との交流に貢献したとの資料があります。

 いま田野町福田寺にある二三士の墓は彼女が私財を投じて修築したもので、その命日には祭祀を怠らなかったそうですよ。

 偉い人です。

 彼女は大正2年11月21日 72年の生涯を終えたそうですよ。
 

 

 

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6 コメント

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Unknown (miyata)
2009-08-01 20:25:35
ふくろう親父さん、こんばんは。
この清岡道之助は大変優秀な人だったようですね。安岡先生という郷土史家がいてたしか教育委員長もしていたと思うのだけど(記憶が曖昧でたしかではないのですが)この先生からそういう話を中学生の頃聞いたことがありました。二十三士の清岡道之助という名前はそのとき記憶の片隅に刻まれました。
福田寺というお寺も懐かしいですね。私の母の遺骨をしばらく預かってもらっていたお寺でした。だけど、清岡道之助旧邸とか岡御殿とか行ったことがありません。今度機会があれば訪れてみたいなあと思っています。
今日のお話しも面白くて◎です。
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ありがとうございます。 (ふくろう親父。)
2009-08-02 00:32:05
 安岡大六先生の著作は今でもよく拝読します。おっしゃるように道之助はBIGネームです。
 今回清岡卓行氏のことにつき探しておりましたら、山田一郎先生の「「うみやまの書」に詩人の項があり、道之助の一族かも、といった記述がありましたので、急遽かいてしまいました。

 小笠原はついでです。
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Unknown (miyata)
2009-08-02 13:27:14
清岡卓行自身が、短いエッセイで自分が清岡一族であることを書いていました。なにかの記念祭の時に呼ばれて初めて父が生まれた田野に訪れたという内容で、その時初めて知った次第です。それから、自叙伝のようなエッセイで母親が奈半利出身であったことも書いています。しかし、旧姓はわかりません。
清岡のエッセイによると、母の影響の大きさを自身でも認めていて多くのページを割いていました。戦後大連から引き上げて同居し東京で亡くなっているのだが、その母の背景がとても気になるのです。友人に聞くと自分の親戚関係から田野の清岡に嫁に行ったのがいるという話も聞いたけれども確証は取れてないままです。
で、話は違うが小笠原ってそちらの議員さんはその末裔なんかいな。
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違うようですよ。 (ふくろう親父。)
2009-08-04 12:20:13
 議員さん曰く「違うろう。」

だそうです。

清岡卓行さんの件は意見が??。

研究者はいないようです。
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Unknown (miyata)
2009-08-04 12:59:06
>議員さん曰く「違うろう。」
そうですか(笑)

清岡一族との関係について書いたほんとうに短いエッセイが今見つかりませんが、以下に両親のことを書いた書いたものを引用します。

「父は高知県安芸郡田野町出身で、1881年生まれ、母は奈半利川を隔てて田野町と隣りあう同郡奈半利村の出身で、1887年生まれであった。
 父は満鉄の土木技師で、その前に関東州庁にに勤めており、それまでに旅順の龍河にかかる鉄橋、大連の上下水道などの工事に従事していたが、南山麓に住むようになったころは、満鉄の大連埠頭の工務課長であった。やがてそこで築港事務所長となり、第四埠頭の前記工事を担当することになる。几帳面な性格で、数学的に緻密な仕事が好きであった。碁が強かったが、若いときにはヴァイオリンも習ったという。
 母は感情が激しく、子供達への情愛が深く、古い日本のものも、新しい西洋のものも好きであった。若いころペンネームで一度だけ小説を書いたこともあったという。」

随想集 偶然のめぐみ 日本経済新聞社出版 2007年6月15日発刊
私の履歴書「日本経済新聞」1999年2月1日~28日初出

清岡卓行は詩人であり、後年大学で教鞭を執ったこともあるけれども、いわゆる文壇からは生涯距離を一定置いていて安岡章太郎のように文壇のボスになることもなかったし、高知のことを書いたというより小説では大連であり、詩ではシュールレアリスムの系統に属していたので地元研究者の興味を喚起しないのかもしれませんね。でも私は逆に土佐という風土、維新の原動力に繋がる意識の古層のようなものを感じます。アの芸族に繋がるとまではいいませんが(笑)。
奈半利出身で、小説も書いて、西洋のものも好きだったという母は後天的な生活でそういうスタイルを身につけたのか、嫁いだころからそうだったのか。であれば、奈半利でも少し上の階層に属する一族の出身だったのかなあとか、そもそも奈半利の当時の生活というものがどのような地域文化であったのか皆目わからず、興味がそそられます。
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清岡さんは・・。 (ふくろう親父。)
2009-08-04 15:12:53
 卓行さんについては、近日中に何かわかるでしょう。
 解ればお知らせしましょう。

 ご期待ください。
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