元治元年の安芸郡志士による野根山屯集事件の際、藩の軍監として討伐隊を率いて、鎮圧斬罪をした小笠原唯八(タダハチ)の写真です。
彼も維新の大波に呑まれ揺られていたのです。
明治44年7月22日に史談会の席上での板垣退助の談話があります。
容堂の側物頭で小笠原唯八というものがいるが、私も知己として相許した仲であったが、私や小笠原が役人であったという理由で吉田東洋の側の人間であったとされるが、そうではない。
武市派の50人ほどが容堂に謁見を願い出た時も「生首を持参して主君を脅迫したり、意見が入れられないと脱藩する旨を藩主に対して迫るとは、不埒千万。といった。実に快男子であった。
野根山屯集の際にも、武市半平太の赦免を哀訴するというので、武器を携えて野根山に立てこもったので、これは不埒だということだった。兵をひきいて取り押さえ、藩主の命令で23人の首を奈半利川原で切ってしまった。それが理由で小笠原は未だに賞されることが出来ない。
さらに、江藤新平と共に江戸の南・北町奉行の役をしていたとき、自分は板垣と生死を共にと誓っているのに、板垣は戦場に出ている。こんな仕事はいやだとして、町奉行はやめて、改めて官軍の軍監になったのである。こんな意気盛んな人物であった。
小笠原も23士も共に靖国神社に祀られている。
板垣退助は小笠原唯八を絶賛しているように見えるのです。
明治新政府の大総督御用掛に就任し、さらに政府軍監となり上野戦争や東北諸藩との戦いにおいて活躍するが、1868年(慶応4年)会津戦争で弟と共に戦死しているのです。
会津城攻めにおいて部下の士気を高めるためによさこい節を歌ったといわれています。40歳でした。
後の研究でも、小笠原唯八の野根山出張日記の23士処刑当日の筆跡は大きく乱れて、当事者としての苦悶がしのばれていた。そうな。
佐幕派とか勤皇派といったことではなく、体制の中で翻弄された一人の官吏の姿が見て取れるような気がします。 法を守るべき役職であっただけなのです。
哀しいかな、そうした時代だったのです。
彼も維新の大波に呑まれ揺られていたのです。
明治44年7月22日に史談会の席上での板垣退助の談話があります。
容堂の側物頭で小笠原唯八というものがいるが、私も知己として相許した仲であったが、私や小笠原が役人であったという理由で吉田東洋の側の人間であったとされるが、そうではない。
武市派の50人ほどが容堂に謁見を願い出た時も「生首を持参して主君を脅迫したり、意見が入れられないと脱藩する旨を藩主に対して迫るとは、不埒千万。といった。実に快男子であった。
野根山屯集の際にも、武市半平太の赦免を哀訴するというので、武器を携えて野根山に立てこもったので、これは不埒だということだった。兵をひきいて取り押さえ、藩主の命令で23人の首を奈半利川原で切ってしまった。それが理由で小笠原は未だに賞されることが出来ない。
さらに、江藤新平と共に江戸の南・北町奉行の役をしていたとき、自分は板垣と生死を共にと誓っているのに、板垣は戦場に出ている。こんな仕事はいやだとして、町奉行はやめて、改めて官軍の軍監になったのである。こんな意気盛んな人物であった。
小笠原も23士も共に靖国神社に祀られている。
板垣退助は小笠原唯八を絶賛しているように見えるのです。
明治新政府の大総督御用掛に就任し、さらに政府軍監となり上野戦争や東北諸藩との戦いにおいて活躍するが、1868年(慶応4年)会津戦争で弟と共に戦死しているのです。
会津城攻めにおいて部下の士気を高めるためによさこい節を歌ったといわれています。40歳でした。
後の研究でも、小笠原唯八の野根山出張日記の23士処刑当日の筆跡は大きく乱れて、当事者としての苦悶がしのばれていた。そうな。
佐幕派とか勤皇派といったことではなく、体制の中で翻弄された一人の官吏の姿が見て取れるような気がします。 法を守るべき役職であっただけなのです。
哀しいかな、そうした時代だったのです。