ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

2011雛祭り

2011-02-16 08:20:48 | 観光資源提案
 今年も雛祭りの季節です。

 明るくて好いですね。

 

   2011年 2月26日~3月6日



  今年の奈半利町のメイン会場は森家住宅です。「土佐の交通王」と呼ばれた野村茂久馬が設計した家としてよく知られている家です。二階座敷の大広間に雛人形を展示しますのでご期待ください。

 もちろん安芸市から室戸市吉良川町まで、あちこちで楽しめますよ。



 

 自然の中でもピンクの花が咲き誇っています。




 

刺激的な白。

2011-02-14 20:49:22 | 木の記憶
 今日の午前中のことです。
 馬路から魚梁瀬に向かう道で雪になりました。

 南国土佐の中でも暖かい場所として知られる中芸なのですが、雪でした。
 寒さを忘れて、この刺激的な白い雪を、美しい雪を楽しんでいました。
 よこなぐりの雪でしたね。
 



 魚梁瀬森林鉄道の遺跡の一つ。犬吠橋です。
 赤いトラス構造と雪のコントラストが美しかったです。

 この犬吠橋。大正13年に建設された鋼製橋梁で、現在は県道の一部として利用されているのです。

 

 

 雪が降ると、普段と全く違う景観を見せてくれます。
 今日は好い日でした。

 雪は降る。あなたはこない。
 雪は降る。・・・。

 アダモの歌そのままでしたね。

順調!順調!

2011-02-13 23:16:51 | 花の谷
 順調です。
 着実に工事作業は続いています。面白いものでずっと天気までいいのです。

 この分では、夏前には終えることが出来るでしょう。



 これから石を積む場所を確認してみました。
 頭の中では、もう出来上がりの状況が描けています。

 

 昨日は、この場所が終わったらどうするか、もう既に考え始めていました。

 最近良く思います。
 「こんな面い作業はないなあ。」
 

交流

2011-02-11 12:54:57 | 四国の道を考える会
 高知県室戸市の最御崎寺で開催された「四国の道を考える会」。続いて徳島県の宍喰町で開催されることになったのです。今でもお付き合いがあるK氏が大会委員長を勤めてくれました。大先輩なのですが、元気に地域活動を続けておられます。

 「四国の道を考える会」の運動が、10年以上も継続され広域活動として今も継続されている原因のひとつに、この相互開催システムがあるように思います。これからも高知県側と徳島県側が交互に連携を取りながら開催を続けていくのです。


 宍喰大会の開催場所は宍喰小学校体育館
 日時は平成12年(2000年)3月25日14時でした。



 この大会。今から考えても企画のしっかりした大会でした。時間をかけて準備をしてくれました。徳島県の南部地域の将来像をかなり具体的に観光を中心に提案をしておりました。安芸市のY氏が高知県側のパネラーとしてがんばって発言をしていた記憶があります。

 この大会における私の役割は、総合司会でした。
 前日に会場入りをしてホテルに入ると、まあ広い部屋を準備してくれていたのを覚えています。
 大会が始まってからのことです。徳島県のH県議会議員が若者を連れて司会席にきたのです。「こんど衆議員選挙に立候補するGさんです。挨拶をさせてくださいませんか。」
 この若者。いまはテレビにも良く出てくる代議士さんとなっています。
 論客としても名を馳せている方です。懐かしいですね。

 この時の私の姿といえば、笠と白装束で、お遍路さんの格好でしたね。実行委員会から是非にといわれて着ていたのですが、北川村から参加していた建設課の課長氏が目を見張っていたのを覚えています。可笑しかったですねえ。

 あのときの装束、死に装束が、それ以降の私の活動を決めてしまったようです。
 「死ぬまでやりなさい。」なのです。

 パンフレットを見ると第4回となっています。これは私にとっての事前活動も入っている回数設定ですね。これはこれで好いと思います。誰彼なく道路整備促進に向けて活動をしているのですから、それぞれに評価するべきです。

 私が考える第一回大会と第二回大会の間には1年4ヶ月間程時間がたっています。それは前年の平成11年9月(1999)に安芸市の有志が企画をして、安芸市から高知市内まで、歩いくれたのです。歩くことでメッセージを伝える。面白い試みでした。
 「四国の道を考える会」は、組織としては曖昧模糊としている様に考える方がいます。

それはそれで仕方がないと思いますが、まあ目的は道路整備に向けて活動すること、地域活性化に向けた提案をし元気な地域にすることだけなのです。組織を含めた手段等は自由なのです。

 次は北川大会の話です。

客車に乗って

2011-02-09 00:43:46 | 木の記憶
 今年80歳になる女性の記憶です。

 彼女は安田町に生まれて、高等小学校を卒業するや、出来たばかりの食料公団に就職したのです。15~16歳の頃ですから出来る仕事も限られていたのでしょう。3ヶ月に一度魚梁瀬森林鉄道安田川線で、事務連絡のために馬路村農協に行っていたのだそうです。4年ほどの勤務の間、20回弱それに乗ったことになるのだそうです。

 彼女は成人すると田舎を出て、別の会社に就職し、そして結婚。最近になって中芸に帰ってきた彼女にとって、現在の地域はどのように写っているのだろうか。彼女が幼い頃の記憶の断片を紡いで見たいと思ったのです。

 森林鉄道は木材搬出運搬のために建設されたものですが、地域住民にとっては山間部との唯一の交通手段であったのですから、それにまつわる話を最初にしてもらいました。

 朝、安田不動の駅から出発して、馬路村までの旅は15~16歳の女の子の印象はどんなだったろうか。また、よく馬路の旅館でそれも線路のすぐ傍にあった旅館で宿泊をしたのだそうです。馬路農協で事務をとっていた女性の実家だったそうです。事務連絡で安田町から馬路村に出かけて一泊する必要があったのです。今では考えられないことです。
 その馬路農協の女性が海岸地域に来たときには、彼女の家に泊まったことがあったそうですから、宿泊施設等の需要など、当時の安田町においては多くはなかったのでしょう。



 客車に乗っていたことから乗り物としては怖いものではなかったようですが、窓から外を見ると橋の上などから川の流れを見ると少し恐ろしく思えたようです。また利用者が多く結構賑やかだったそうな。

 65年ほど前の記憶で、あれから一度も行っていない馬路村に懐かしさやら、好奇心をかき立てられている様で、なんだかほほえましく思えます。今度馬路村に連れて行って上げましょう。

 馬路村ってどんなところだったのか聞いてみると、線路が交差して一杯あったのだそうです。
 海岸部においては森林鉄道は、ほとんどの場所が単線で一日に2~3度往復するだけだったのです。馬路村の中では複線化がすすみ、さらに交差して、忙しく車両が動いていたのでしょう。地域住民の生活空間と森林鉄道が密接にかかわりあっていたのです。
 
 彼女にとって馬路村は線路がたくさんあるところといった記憶なのです。
 昭和20年代も前半の活気のある馬路村の姿が垣間見えます。

奈半利散歩 1

2011-02-08 15:42:45 | 日記
 昨夕、久方ぶりに散歩をしてきました。最近運動不足なのです。

 我が家を出て、野根山街道に入り、東へ。
 夕方の少し肌寒いぐらいの時間でした。カメラだけを持って一人歩きです。

 



 え~~。何だこれは。ポセイドンの槍みたいな形が目を引きました。小さな祠がありました。
 歩いていた時間はホンの70分程度だったのですが、2人にしか出会わなかったです。
 
 人がいないのか。出かけた時間が悪いのか良くわからないのですが、少し寂しかったですね。



 森林鉄道の軌道敷跡を北に向かって歩いていると、菜の花が咲いていました。
 もう春が来たみたいに、あたりを明るくしていました。

 時々は歩いてみたいものです。
季節の変わり目を実感するのは、散歩するのが一番です。

カテゴリーを追加します。

2011-02-07 08:51:53 | 木の記憶
 森林鉄道のガイドをしていることは紹介しましたが、森林鉄道について語れる人、まつわる記憶をお持ちの方々が徐々に高齢になっていることから、意識的にそうした記憶を聞き出して、資料として残すことにしました。

 カテゴリー「木の記憶」の追加です。

 

 
 
 みんなの記憶をつなげて、いつか、まとめてみたいと思っています。
 個人の語る記憶は個人のものですが、情報として誰かが処理するとみんなの為の地域の昔話として残せますから、価値ある作業となるでしょう。

 最近先輩達と話をしていないような気がしておりますし、「木の記憶」と題したのも広義で考えると、高知県の東部地域の事柄はほとんどが範疇に入ると思ったからです。

 とりあえずは、魚梁瀬森林鉄道関連の話を集めてみたいと思っています。
 昭和30年代に廃線となった魚梁瀬森林鉄道を利活用していた方々の平均年齢が上昇しているからです。

 これもまた楽しい作業になるでしょう。
 

これから。

2011-02-06 10:17:49 | 花の谷


 出来てしまったのです。初めての石垣作業だったのですが、出来てしまいました。
 暗中模索の作業でした。経験のないことをやるのは楽しい時間でした。
 次は何処でやるか。仲間とも相談をしたのです。




 花の谷(安芸郡北川村)で石垣を築いたのですが、これからの作業をこの場所から上流に向かって50Mほどやってみることにしました。多分キャンプを予定している7月ごろには完成するでしょう。

 また当分の間、気分転換のための土曜日の午後の作業をすることが出来ます。
 奈半利町の町中で石塀を毎日のように見ているのですが、いつか練塀を築いてみたいですねえ。

 おかしいのですが、なんとなく少し上達しているような気がしています。
 まだ手前勝手流で、半年ほどチョコチョコとやっているだけなのですが、何となく解ったような気になっております。
 頭の中で石垣の構造を思い描いているのです。

 楽しい作業です。
 いい時間です。頭の体操でボケ防止になると好いのです。

 それに作業を終えて。風呂に入り一杯のビールのうまいこと。この上もなしです。

うまかった。

2011-02-06 10:13:38 | 好きなもの
 この干物。うまかったですねえ。
 鮎です。

 噛んでいると、あ~~っという感じです。
 鮎といえば塩焼きですが、これもいけます。

 酒の肴としてはAランクです。

 食物には相性ってあると思うのですが、鮎干物は独特な”味”があって、かつ酒の味の邪魔をしないからいいのです。

 一昨日北川村でゲットしました。食べ終わってから「あ!写真を撮ってない。」

 というわけで、一本だけの写真になってしまいました。
 いつもながら、私は友人に恵まれています。

 「ありがとう。おいしかったです。」
 昨夜イタダキマシタ。

第1回大会の開催。

2011-02-02 10:32:50 | 四国の道を考える会
 四国の道を考える会を開催する際、私にとっての先進事例の2例を紹介しましたが、あらためて思うことは、結構時間がかかっていましたね。色々なことがたくさんあり過ぎました。
 忙しかったですねえ。

 さて第一回目の四国の道を考える会の運営企画書が手元に残っていました。
 実行委員会を組織するまで、準備の為の会合も何度かやりましたし、私自身室戸の県会議員さんの自宅に宿泊して作業をしたことさえあったほどです。



 かなり気合の入った企画書です。これを全部やったのかと考えると、最初から全力投球でしたね。



 内容はというと、テーマを「世界へ結ぶ田舎道」としています。

 どんなに小さな田舎道でも、その道は世界に通じている。
 世界に羽ばたける道であり、世界から訪ねてきたくなる道でありたい。
 そんな道を語ってみたい。
 
 こうした言葉が続いています。
 基調講演のあとシンポを、そして分科会まで、それも4分科会を準備したのですから、頑張りました。1泊2日の第1回大会に相応しい内容です。

 この大会の私の役割りはというと副委員長。名簿をみるとこの時点ですでにずっとこの大会を運営、応援してくれた方々が名前を連ねています。東洋町のN氏、安芸市のY氏等です。

 さらにもう一つの心配事が広報だったのですが、東寺さんの宿坊の上階、本堂の瓦屋根が見える部屋にラジオのスタジオを臨時に作って、放送を午後ライブでやりながら、夕方からの大会準備をしていました。RKCの番組をラジオジャックしてしまったのです。

 田村和郎氏の軽快な話し振りは未だに記憶に残っています。3時間という長丁場をあっという間に仕切ってしまいました。私はずっとそばで見ていて、時々口を挟んで、飽きることはなかったですね。
 番組としては大会に参加するパネラーだとか関係者が次々と発言をつなげてくれました。とくに東京大学のT教授の付加体についての話は、真に興味深かったですね。いまのジオパーク運動に繋がる話でした。

 資金調達については難しかったのですが、記憶に残っているイベントでしたね。
 当時は室戸や中芸、安芸、徳島県の南部まで自由民主党の若手の議員さんたちが多数いらっしゃいましたので、みんな元気でした。 今はみんなばらばらになった印象です。

 平成10年10月23日~24日のことでした。今年は平成23年ですから随分と昔の話になってしまいました。