私感・雑感

平和、平穏。

安全、安心。

でもそれらを脅かすものは許さない。

生い立ちなど……

2007年12月20日 | 日記
私は今も生きている。これからも……いつまでかは分からないけれど、生きていることだろう。

これまでの半生、約41年間だけれども、ここ10年くらいは色々と昔のことを想い出すことも多くなってきた。齢を取った証拠だよ、などと外野からの声も聞こえるのだが、実は決してそういうわけではない。

社会生活に、というよりも社会人生活に難があり、勤めた先もなかなか長続きしなかったり、対人関係も上手く築けなかったり、ここ数年……10年近くか、はひどかったので、それまでの生き方を洗い直し、見直し、自分自身を見つめ直してみたこともあったからだろう。

でもまた、ここ最近私の気持ちの中に大きな変化が起こり、このままでは駄目だ、もっともっと上を向いて、前を向いて生きていけるはず、と考えるにいたった。

人として、人間として生きることに与えられた時間は人によって違う。

でもそれは、永遠に、限りなく続く……時間という座標軸、その流れの中ではほんの一瞬に過ぎない。でもそれはその人生を生きたまさに当人にとってはそれが100%の時間なのだ。
一瞬なんかじゃない。
それに、たった1度きりだ。やり直しは利かない。
ならば精一杯生きよう、そんな思いを強くするにいたった。

あるいはそれは、これまでの記憶を再生することから始まるのかも知れない、とも思った。

一番古い記憶、これも人によって何歳頃のものかは異なる。
胎児のときのことを覚えている人もいるだろうし、小学校に入るころからの人もいるだろう。

私が何にも頼らずに思い出せる最古の記憶は、3歳になったばかりのことだ。
妹の誕生、という出来事だった。
母の入院先まで、今は亡き父の背中におんぶされて連れて行ってもらった。当時はまだあまり今ほど自然破壊が進んでおらず、蛍の飛び交う光が美しかったのも覚えている。また、ジージー虫が鳴く声も耳に残っている。

妹の産まれた前日からかな、母方の叔父が、今は遠方に住んでいるが、当時は近所に住んでいたので、何かと世話をしに来てくれた。また、今は亡き祖母も遠路はるばる駆けつけて来てくれていた。

おそらくそんな非日常的な光景に興奮したのか緊張したのか、おしっこしたいくせにちっともトイレに行こうとしないでずっと我慢していて、しかも部屋中をグルグル走り回っていたらしい。
何やってんだ、近所迷惑だぞ、おい。
それでもどうにもこうにも、膀胱の限界を超えたようで……トイレに行こうとしたものの間に合わず、その一歩手前でズボンを下ろして食器棚の側面めがけて立ちションした。
だったらもっと早くに行っとけよ、だな。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんだ。
今も夜型人間みたいなもんだけれど、幼少期からどうも宵っ張りの朝寝坊だったらしい。
多くの子どもが文字を覚える順番は、まずひらがなが読めることからスタートするものだろうが、私の場合は「終」という漢字を真っ先に読み出したらしい。深夜のテレビ番組で「女三四郎」という連ドラがあって、いつもそのエンディングまで視ていたそうだ。勿論子ども向けのアニメや特撮なんかも沢山視ていたけどね。

画像BBSに、大阪万博の展覧会に行ったと書いたが、大阪万博のその当時3歳。まだ自立歩行のできない妹を父や母が乳母車に乗せたり抱きかかえたりして何回か通った。関東に住む親戚が入れ替わり立ち替わり泊まりに来た。オレンジ色の建物に入るのに相当な行列ができていた覚えがある。

妹ができてすぐは、テレビも白黒だったが直ぐにカラーテレビに買い換えたかな。白黒のが壊れたためか何故なのか、理由は知らない。

兄になった私は一丁前に兄貴ぶってみたい一心で、ちょいと妹をおんぶしてあげよう、と思った。
そんな大人の真似、よせばいいのに。
よっこらしょ!!っとおぶった瞬間、非力な4歳児の私はおんぶなんかできるわけもなく、妹の体はそのまま宙を舞った。私の上を前方にくるりと半回転、丁度柔道の投げ技が「一本!」決まった瞬間みたいだった。

で……あまりのショックのためだろう、その直後のことを私は覚えていないが、妹は壁に頭を下にした姿勢ででケロッとしていて、投げた当事者の私の方が座ったまま大声で泣き喚いていたそうだ。実に不思議な光景だ。

泣き喚いていた、といえばもう1つ覚えているのは、父が出張か何かで遠方に行くときに「飛行機で会社に行こうかな」と言った直後、「嫌だぁ、死んじゃうよ~~~!!」って言ったと思う(笑)。余程大きな飛行機事故でもあったのか、はたまたハイジャック事件の報道を勘違いして受け止めたのかはわからないけれど。
その当時のトラウマか、今でも飛行機にすすんで乗りたいとは思わない。したがって海外旅行にも行こうと思わない。国内でも陸路と海路の移動しかしたことがない。

幼少期のトラウマ、といえば……実は私は犬が苦手なのだ。
噛まれた覚えはない。
当時狂犬病、というものがマスコミで大きく報道されていて、アニメでも話題になった。
確か「マッハGOGO!!」だったと思うが、狂犬病のイヌに噛まれてもしもヒトが発症すれば、恐水症という途中経過を経て、100%死亡する、と描写されていて、それ以降私の頭の中には「イヌ=噛む=狂犬病=死」というブリッジが出来上がった。つまりイヌという生物を避けるのは自己保存の本能のようになってしまったのだ。
今はほんの少しは改善されているけれども、でも大きいのとか、放し飼いとかを見ると、そっちからは足が自然と遠のくな。

私が通った、その当時の幼稚園は、今のように年少・年中・年長の3年も通うのではなく、就学前1年間だった。
入園する前に、「知らない子と遊ぶのは嫌だ!!」と泣き叫んでいたような記憶がある。もっと早い時期の人見知りはあまりなかったらしいが、どうも4歳ごろ以降から少し人見知りするような傾向は確かにあったと思う。

担任の先生が産休に入って交替されたのは覚えている。
いつも砂場でダムを作って遊んでいたかな……。あとは大きな洗濯糊のようなものに色のついた粉を混ぜて絵を描いた覚えがある。
あ、そうだ、1つだけほめられた思い出は、……2月の節分の時期に、鬼の面を作ったときのこと。別にいい子にしようとかそんな意識はなかったんだけれども、なぜか担任の先生から「○○○くんもやっと先生のいうこと聞いてくれるようになったね!」ってさ。おいおい、つまり1年近く先生の指示に従わない園児だったってことだよな。あんまり覚えていないけれども、困ったチャンだったんだね、きっと。

その頃興味を持っていたものに、植物がある。幼稚園の園庭に、いぼいぼの不思議なウリのようなものがなっていて、その名前を確か園長先生に尋ねると、「レイシコウ」と教えて下さった。帰宅後に植物図鑑で調べてみたくなった私は、「レイシコウ、レイシコウ……。」とつぶやき続けながら帰宅した。
家には子ども用の百科事典や図鑑、あるいは大人用の百科事典もあり、意味が分からないながらも見て楽しむのも好きだった。今は忘れている草や樹木の名前でも当時はよく知っていたんじゃないかな、多分。

どちらかというと、少し独特な子どもだったな、俺。
でやっぱり「三つ子の魂……」、今でも色んな所で必ず「ちょっと変わった方ですね。」って言われる。

小学校入学以降はまた次の機会に。