中学校に入る頃になって、ようやく異性に対する関心が出てきたりした。
クラスメイトに1人可愛い子がいて、というよりも当時の私の好みのタイプの人がいて、まあ、当然片想いなわけだけれど、好きだった。
その子は2年生になったときのクラス替えで別のクラスになり、その年の2学期を待たずに転校して行った。
2年生になって、新しい校舎に移って、1つ上の先輩とも同じ校舎、従って同じ下足室(昇降口、とも言うのかな)を使うようになり、以前の片想いの方と違うものの好みのタイプの先輩がいた。
結局何にも話さないまま終わった。
3年生になると、今度は同じ学年の、2年のときのクラスメイトのことが気になりだした。結局これもまた言い出すこともなく終わるのだが。
中3の頃、いわゆる「第2の誕生」なるものを経験した。いわゆる性的なことに対する興味や関心が一層拡大していったのは、射精というものを初めて経験してからだったかな。
しかしこの「射精したい」という気持ちは……その後数年間苦しめられるものになる。
人間に性欲なんてものはなくなってしまえ!!とすら当時は思った。色々なことが手につかないじゃないか、どっか行ってくれ!!なんて思っていた。ときどき、冗談抜きで、切ってしまおうか、とすら思った。
恋愛と性的欲求とを直ぐに結びつけてしか考えられなくなって、つまり当時は著しく混乱して、つねにイライラしていた。
そんな状況の中で、恋は勉強の邪魔、性欲も勉強の邪魔、と頑なに考えていた私は、勉強以外で何か情熱を注げるものに没頭することでそれを忘れようとした。それがギターであり、部活の卓球であった。
帰宅してから宿題だけはやっていたけれども、それ以外の勉強らしい勉強はあまりせずに、まあ百科事典でも眺めていればそれらしく見えるな、なんて思っていたから、これは高学年のころからの格好の逃げ場だった。比較的早い時間帯はたっぷりギターの練習ができた。夢中になって練習をしていた。
その頃は、確かアコースティックなサウンドが流行っていた時期だったかな、多分。ザ・ベストテンというテレビ番組で、西城秀樹のY・M・C・Aがずっと上位を占めていた時期もあるが、アリスとかさだまさし、松山千春、中島みゆき、南こうせつ、といった顔ぶれが頻繁に上位ランク入りしていた。また、彼らはテレビになかなか出たがらないのも特徴だった。
そんな中で楽譜とタブ譜をたよりに沢山の曲目を練習した。1つできるとまた1つ、そうやって次々にマスターしていった。
あんまり勉強とかしないものだから、成績は当然下がっていった。特に数学は弱くなっていった。英語だけは3年間を通じて得意なままだったが、数学にいたっては殆ど理解できてはいなかったと思う。
思えばその芽は小6の頃にあったのかも知れない。分数を含んだ複雑な乗法と除法で、ひっくり返して掛ける、なんだ??意味わからんし!!……だった。
まだ中1のときはさほどひどくはなかったが、2年のときに連立方程式と一次関数が出てきて、さらにグラフと方程式の関係になるとサッパリお手上げ状態、この頃ようやく初めてテストで良い点が取れない子の気持ちがなんとなくではあるけれども理解できてきたと思う。数学は常に40点台、平均以下だった。
あたかも連動するかのように、理科第1分野(物理・化学)が分からなくなっていった。電気とか電流、電気分解とか、その辺り。それが今度は技術の成績にも影響してきた。エンジンとかの同じような分野もあるから。
小学校のときから絵が好きだったからか、美術の成績は低下しなかったものの、保健体育はやはり不得意のままだった。
成績が下がっても、呑気だったのだろう、もっと予習とか復習とかしようとも思わなかったし、別に点数悪くたってなんとかなるわい、と思っていた。テストで良い点を取ることの意味が全く分からない状態だったし、比熱の公式なんぞ覚えても、あるいは因数分解なんかできても実社会のどこで役立つんや??なんて反発心すら持っていた。
しかしその一方で、校則だけはきちんと守るというのをポリシーにしていた。見た目で内申書の評価が下がってももったいないしな、と思っていた。猫かぶりしていたのかな。
中2のときに、9月上旬の水泳大会の希望種目にジャンケンで負け続けて、最もハードな50m自由形に出ることになった。当時はまだノーブレスで15mをクロールで進むのがやっとだった。
幸いなことに夏休みをはさんで練習する時間があった。学校の自由水泳の時間に、最低限何回か通うのが体育の宿題だったが、それを大幅に上回り10数回つまり通える条件のあるときは全部通って、なんとか息継ぎができて50mを泳げるようになった。
おそらくこのころだろう、不得意を少しづつでも克服する楽しさに目覚めたのは。
テレビ番組で大きく私のこれまでに影響したものといえば、「3年B組金八先生」Ⅱ、これは直江喜一や沖田浩之の出演したシリーズだ。
「俺は腐ったミカンなんかじゃねえ!!」と聞けば思い出す方も多いだろう。
今でもあの回のシーン……荒谷2中の放送室で校長を軟禁し、加藤と松浦の粘り強くかつ心を打つ説得についに全校生徒に対してお詫びをする校長、ようやく闘いを終えて出て来てみんなの「カトウ」コール、しかしその行く手を待っていたのはなんと警察だった。慌てて逃げ惑う「主犯格」の加藤、松浦、荒谷2中の番長……、しかしその甲斐むなしく彼ら2人の手には手錠がはめられる。スローモーションで流れる映像のBGMは中島みゆきの「世情」……警察に連行されていく加藤優と松浦悟、泣き喚きながら追いすがる加藤の母……。
そして警察署での校長と金八、PTA会長らの署員に対する説得、そこで校長は最後の切り札を出す。それはこの件を担当した署員の中学時代の小さな悪しき行いを校長が見て見ぬ振りをしたことを持ってきたのだ。
このドラマに感化され、教職に就くことを強く決意したのだった。中2のときだな。(これは後に実際に就いてみて大きな挫折を味わうことになる。)
で、教職に就くためには大学に行かなくちゃ免許が取れない、そのためにはある程度の進学実績のある高校の方がいいだろう、となるともっと良い点数をとらなければいけないな、と気付いた。中3の夏休みかな。
遅すぎるって!!
もう内申点は半分が終わっていた。テスト4回のうち2回が終わっていたからだ。
それから必死に挽回しようと猛烈に頑張ったのだが、なぜか努力すればするほど点数というか順位はどんどん下がっていき、大きな1つの挫折を味わうことになった。
新設して2年目の中学校だったが、1期生は公立高校に全員合格したので2期生もその実績を崩したくなかったのだろう、私たちの学年でもかなり安全圏を担任の先生からは薦められ、結局薦められたところより1つ上の学校を受験した。また、行く気は全く無かったが併願で私立高校も受けた。
確か高校受験が最大の関心事だった時期に、丁度数学で円の単元があり、クラスメイトの1人が授業中に円周率をドンドン書き出して(おいおい、授業に集中しろよ)、それはゆうに1,000桁を越えた。
その日から私のクラスでは円周率の暗記競争のようなゲームが始まった。
おいおい、本当に、そんなことしてていいのかよ???
最初は私を含む数人しかそのお馬鹿なゲームの輪には参加していなかったが、やがてどんどんその数は膨らみ、しまいにはそれを冷ややかに見ていた女性陣にも飛び火し、またクラスをまたいで流行るにいたり、学年ではちょっとしたブームになってしまった。勿論最後まで冷静な生徒は冷静だったが、なにせ人生初の受験という非常に精神的負荷のかかる時期である。心のバランスを崩すもの多数だったのだろう。
今でも円という図形に美を見出し、調和を見出し、平和を感じ、IDもHNも円周率から引いてきているのは当時のこの「暗記競争」というものがあったからではないかと思っている。暗記、というのは大嫌いだったが、なぜかこのゲームだけは好き好んで参加した。
嫌いだった暗記でも、唯一感謝しているものがある。中3になってすぐのころの公民の授業で、日本国憲法の前文を暗記せよというミッションが下った。当時は「暗記」というだけでアレルギーを感じていたのだが、これはその後の人生の中でかなり大きな精神的支柱になっている。