小学校に入学したときに、違う幼稚園から来た子も何人かいた。
♪1年生になったら~
の歌の通り、1学年ちょうど100人だった。
幼少期から相変わらずの夜型生活だったせいか、しばしば居眠りをしていたようだ。私自身で覚えているのはたった1回だが……。
真っ暗闇の中に突然担任の先生の叱責が飛んだ。
「○○○○君、眠いんか!!眠いんやったら家に帰って寝なさい!!」
本当にランドセルに勉強道具を詰めて帰宅しようとしていたように思う。
幼稚園に行くときもときどき、歩いたまま寝てたらしい。
家庭訪問の際に担任の先生が母に相談なさったようだ。
植物や岩石に対する興味や関心は消えることなく持続していた。でも、理科の中でも(当時は「生活科」とは言わなかった)物理や力学的なことはあんまり好きじゃなかった。
1年生でアサガオを、2年生でヒマワリを、3年生でヘチマを、4年生でサツマイモを栽培するのは楽しかった。
当時住んでいた集合住宅の下の空き地を不法占拠?して我が家の庭に改造していたのも覚えている。そこにはアサガオ、ヒマワリ、グラジオラス、カンナ、アイリス、ハボタン、クロマツ、アカマツ、フクジュソウ、ヘチマ、キンセンカ、マリーゴールド、ホウセンカ、オシロイバナ、ツバキ、サザンカ……そんなのを栽培していたかな。
野草を摘みにも行った。春頃にはセリとかヨモギ、ツクシ、母の実家の近くの山にはワラビやゼンマイ……。
母の実家は瀬戸内に面した小さな町にある。神戸の生まれだが、空襲の被害を避けるために一家で疎開して、その先にそのまま落ち着いた。
そこは漁港に近いだけあって、海の幸には恵まれており、焼き穴子やシャコ、サヨリ、カキ、その美味さは格別だった。
ときどき小さなサワガニが部屋に上がりこんできたりした。
アサリの多い海岸でよく潮干狩りをした。
貝汁を作ると、どんなに砂を吐かせても最後に沈殿するんだよな、砂が。
で、たまにアサリの中に小さなサワガニが入っていたりする。
空気の清浄さは大阪とは比較にならない。全天でおおよそ30しか見えない星が、母の実家では……あたかも星と星の間を漆黒が埋めている、というほど圧巻だった。
先に、イヌが苦手と書いたが、実は猫も当時は不得手だった。
そこではいつも猫がいたのだが、私はなかなか馴染めなかった。
当時はその家の台所は母屋から離れており、ひとりで行くのには若干の勇気が必要だった。
勇気といえば、トイレも水洗ではなかったので、若干恐くて、特にうんこをするときは、和風便座をまたがなければいけない恐怖があった。そんなわけで、母の実家に帰省したときは大抵うんこを我慢する悪癖が着いた。
そんな私の様子を見るに見かねてか、祖母はひとつの助言をくれた。いわゆる「いかり豆」フライドビーンズとも言うが、要はソラマメの素揚げに塩を振ったもの。それを持ってきて、「これ食べるとうんこが良く出るんで。」私は張り切って食べた。事件は当日深夜に起こった。
その日の夜、海水浴に行って大波にさらわれる夢で目が覚めた。
ん?なんか掛け布団が冷たいぞ……。
あ~~~っ!!おねしょしてるじゃん(><)
え??何だ??なんか……尻尾みたいな変な感触がお尻に……。
が~~~~ん!!!うんこだよ(TT)……。大きいのが2本も……。
……その珍事件以来、我が家では「いかり豆」の呼称が「うんこ豆」に変わった。しかしそれで恥をかいたのは妹だった。
遠足に行く前に、友達とおやつを買いに行って、「いかり豆」を見たときに思わず言ってしまったらしい……。そのときに初めて正しい呼び方を知ったんだって。俺って罪な奴だなあ(笑)。
低学年のときは、勉強が好きだったか嫌いだったか……入学直後から嫌いだったように思う。その理由は今でもわからない。強いて言うなら好きだったのは理科の植物と岩石、図工くらいかな。
勉強が嫌いなくせに、なぜか得意だったので、いつもテストなどで悪い点を取る子の気持ちがわからなかった。というよりも、どうしたらそんな点数が取れるのか、それ自体が謎だった。
ただ、今に通じているといえば、……基本をあまり重視せずに、どちらかと言えば人より先に行きたがる習性があったようだ。
理科の磁石の時間に、学校の砂場で磁石を動かして、砂鉄を集める、という実験があった。だがそのときに、「砂場の砂は川の砂で海の砂ではないから砂鉄は少ないよ」なんてことを言ってしまった。
そのときの担任の先生の困惑された表情は良く覚えている。
磁力線を見る観察の時間は、磁石をビニール袋に入れて砂鉄を撒いた方が後始末が簡単と思っていたが、「そんなことをしなさいとは言ってない。」と袋が取り外された。
板書をノートに写すときに、担任の先生は、スペースがないために一旦板書を消してから新たな内容を書き出されたのだが、そのときに、私の消しゴムが先生の黒板拭きに連動してノートの内容を消してしまった。
何やってんだ?俺。
運動神経は鈍かったので体育は嫌いだった。水泳は苦手だった。いつも春先の耳鼻科や眼科健診でアレルギーで引っかかっていたため、夏が終わる頃までかかっても完治せず、プールの許可が下りなかった。そのために5年生になるまでずっとカナヅチのまんまだった。
図工は得意だったかな。絵の時間ではいつも模範としてみんなの前に提示されていた。
相変わらず先生の指示に従わない児童だったんだな。なんだか注意力散漫で、早合点しがち、ちょっとふざけたような面があったんだろうな。
だから団体行動とかが嫌いで苦手で仕方なかった。人のペースに合わせるということが苦手だったのかもしれない。だから、というわけではないが、遠足とか社会見学、運動会、これらは欠席しがちだった。
小2のときに妹が保育園の年少組に入園した。母が働きに出たためだ。
ときどきは夕方迎えに行った。
最初のお迎えのときは、該当クラスの教室を覗いてみてもそこにいなかったので、そのまま帰宅。「いなかったよ。」おいおい、いないはずはないだろ。結論から言えば、お迎えが遅いめの園児だけ別室に集められていたのだった。まあ、なんと視野の狭い小学生だったんだろう。
翌日は、汚名挽回?名誉回復?とばかりに、元気一杯行ったものの、通常なら往復で徒歩20分で済むはずが1時間近く帰宅せず……母は心配して迎えにきたのだが、実は私がその隣の教室に着いたまさにそのときに、「オバQ(カラー版)」が始まってしまって……私はつまり園児と一緒にそれを視たくなってしまい、最後まで視てしまった。迎えに行ったというより、テレビ見に行ったようなもんだな。
さすがにそれ以降はアホなこともせずにお迎えを全うできた。
中学年になり、クラス替えがあった。本来行くべきクラスに入らずに、お呼びでないクラスに間違って入ってしまい、そのまま2年間過ごすことになった。正直この2年間のことはあんまり覚えていない。担任の先生が変わったことにより、色々なクラス運営の方法も変わり、また、各教科の指導方法も当然違うために若干戸惑いもあった。
給食の時間が嫌いだったのは、入学直後に始まった。
幼稚園時代は普通に飲めたのに、なぜか給食の牛乳を飲むともどしてしまうようになった。理由はわからない。が、それをきっかけとして、給食中にもどすというのが流行ってしまい、ますます給食の時間が嫌になり、ミルクなしはいつものことだが、おかずもあんまり取らないようにしていた。今も比較的小柄なのは当時の偏食によるものかもしれない。
生まれて初めて社会のテストで55点というひどい点数を取ってしまったが、なぜか復習しようともしなかったし、予習もしようともしなかった。
この頃から、植物や岩石よりも絵画に対する興味の方が勝ってくる。
ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、クレー、ダリ、エルンスト、シャガール、ピカソ……。
それと関連してか「画家になる!!」なんてことを公言していたようだ。
洋画をただ楽しんでいても、中には当然裸婦の絵もあり、それらを含めて見入っている様子に級友たちは何か誤解をしたようで「むっつりスケベ」なんて思ってたらしい。
高学年になり、今度は間違ったクラスには行かないぞ、と注意していただけあって、クラス替えのときの聞き間違いはなかった。
その2年間受け持って下さった先生は、私にとっては初めての男性の担任、しかも校長・教頭といった「管理職」と同年代のご年配の方だった。
厳しい、けれども優しい。
そんな指導方針に甚く感動し、将来は教職を目指すことを決意したのもこのときだった。
また、給食の時間にミルクを含めてきちんと全種類を摂取するようになったのもこの頃だった。
また、この頃からいわゆる「目立ちたい」というおかしな欲求が出てきた。授業中は、本当はわかっているくせにわざと間違えたり、奇妙キテレツな答をわざと言ってウケを狙ってみたり……。でもそれは、担任の先生の適切なご指導により早期にその芽を摘まれた。
やがて別の形で具体化されてしまうのだが……。