
むかし、マンガのネタ練ってるときに、「凡庸さが度が過ぎる」だって、異常値なほど凡庸ならかえって際立つのではないか?と勘付けたことがあったのに、某ラジオで番組枠内で「安部礼司」なる「Average」語源由来とわかるキャラの登場でご破算にした記憶があります。
映画フレンチ・コネクションにおいて、ジーン・ハックマンもロイ・シャイダーも、およそ「主人公然」としてなさを、まったくものともしないで、映画世界の中で縦横無尽に、倫理観も乗り越えた大暴れっぷりでこええ!こええよ!普通に見える人らがやけに怖いよ!と逆算みたいなショックを受けたんです。
▼父親の話を聞かれ、言葉を詰まらせる場面をインタビュー番組で見たことがある。13歳のとき、父親が家出した。涙声で、そういうつらい経験があるからいい役者になれる、自分の感情に向き合えるから、と語っていたのが印象に残る
▼タフガイのイメージが強いが、繊細な方だったのだろう。『フレンチ・コネクション』では暴力シーンを嫌い、降板も考えたという普通の人は、自分の普通さが武器になるだなんてきっと思わない。思えても来ないし、思おうとする駆け出し方もしない。
ごくごく稀に「普通さ」ゆえにその「再現性」がかなうばかりに重宝される存在になる人がいる。諜報員や映画の役者などは「いかに紛れて気づかれにくいか」が売り物。
秀逸な、上物のお芝居を観劇する際には「とびきり華のある人」もさながら、「どこまでも脇役なのに、地獄みたいに確固と『普通』に終始しすぎてて、鬼気迫るほどに普通!」という図抜けた存在が見つけられたりする。
その脇役なしには、この芝居全体が地盤沈下してたろうな、と知れるほど、徹底的に自分の役回りや目立たなさを信条としたプロがいたりする。そういう脇役はもうどこでも重宝されるし、なんなら主人公より役者生命は長寿命だ。なぜなら「代えがたい」ほど稀有な存在だから。
八十田勇一さんや田中邦衛さんみたいに、文鎮のごときうまい役者さん。
書道で言うなら、筆される下地たる「紙そのものを抑え込んでる」プロレス技みたいに実は筆以上に強固で重要な存在が、作品全体の魅了の肝だったりする。
主人公より引き出しが多く、柔軟。すごいと想う。
記事はジーン・ハックマンだが、私はロイ・シャイダーの佇まいというか、妙な影の薄さのうちにあぐらかいてる感じが、この記事のコンセプトに通底して感じてます。
(いつも血だらけで負けてる感じがすごく好き❤勝ってないんですよね、この方)
いいものは、目立たぬまま凛としてる存在の大きな介添がある。
偶然みたいになんでもないですよって振る舞って、徹底的にそういう人らの功績という抜群の存在感がある。
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