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人・その多層構造ゆえ

2025-03-07 08:05:37 | 日記
作家曽野綾子さんの父親は商社勤めだった。酒もバクチもやらず、金や女性関係でだらしないこともなく、表向き人当たりはよかったが、家庭で暴力を振るった
▼家へ帰ると人が変わったように不愉快な顔をし、人の非をいつまでもなじる。曽野さんは機嫌を損ねぬことばかり考えていたという。人間の二面性、多面性を理解するようになったと自伝『この世に恋して』で明かしている
多かれ少なかれ、人には表裏があるものだから、自分が許されるくらいには人にも許すのが人ですけれど、「差し支えるほど」の落差を、一番身近に見舞うとき、よそにはある容赦がないことが普通です。

苛烈が極まるのです。鬱屈が短故に吐き出される卑怯が起こります。
「外から見えにくいところでそうしてる」なる殺伐と貫徹が、終わりの見えなさも伴ってとても嫌な存在に化します。

▼貧困や内戦の現場に足を運び、アフリカ・ルワンダの集団虐殺跡で祈った際「我らが人に許すごとく、我らの罪を許したまえ」と唱える所で絶句したという。罪を許したまえと簡単に言っていいのか。人間を凝視することは時に苦痛も伴う
▼こう語っていた。「人間は善いこともするけれど、悪も犯すし、残虐も働くんです。それでいて、時々は立派に人情的なんです」。決して絶望しなかった。
許容しがたいものを、せざるを得なくなった経験をした人同士は、その目配せのうちにも相手に通じ合うものを察せます。言外に「それはわかってる」とちゃんと「その先へ」にする用心へとフェーズが変わってる。

人の2面性や内在する別人格みたいなもの。
いいときより悪いときのほうが露見のケースで語られがちです。
素直一辺倒もそれなりに実害を被りもしますが、対処の仕様がまだマシです。

世間に照らし出される「みせかけ」と「本性」のせめぎあい。
正誤を語っても詮無きことで、「その人はただそうである」と留めおくしかない。周囲の方が距離の見計らいで采配し直すんです。

量で言うと、嬉しいケースより、よわったな、の方が多めですよね。



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