今週もまだ長崎浜串教会の中田師の説教ブログ丸ごと

2014-06-21 20:14:57 | Weblog

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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/06/22(No.715)
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キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
キリストの思いを分け合う者として生きよう
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黙想会に行ってまいります。皆さんの平日のミサができなくなるのでご不便をお
かけしますが、前にも話した通り、迫害の時代に信徒だけで260年間信仰を守り
通した、長崎のキリシタンの日々を思いながら、信心業を通して信仰を維持し続
けていただきたいと思います。

わたしが黙想会に行くと、ホッとする生き物がいるはずです。船隠しの沖と言い
ましょうか、神ノ浦の沖と言いましょうか、そこで悠然と泳いでいる真鯛は、一
週間ほどは確実に生き延びることができるからです。ただし一週間だけですけど。

梅雨に入ってから、数えるのも面倒になるくらいの真鯛を釣りました。何人かは、
お裾分けにあずかっているはずです。釣れたのはほとんど真鯛でした。どうして
ほかの魚は釣れないのかなと思っていたのですが、先週はその原因の一端に思い
当たりました。

それは、仕掛けを巻き上げる速さに原因があるのではと思っています。そこで、
海底から10mは、これでもかというくらいの遅い巻き上げをしてみました。する
と、今まで食いついてこなかった魚があれこれ釣れました。あの釣りは言わばパ
ン食い競争の進化したもので、ぶら下がっているパンは一定の速さで移動してい
ます。足の遅い魚はいつまでたってもパンに食い付けませんが、真鯛は足が速い
ので、毎回食いついてくるのだと思いました。他の説明があれば、あとで聞かせ
てください。

魚のおすそ分けにあずかった人は、食卓の一部を、わたしの釣った魚で分け合っ
てくれた人々です。一つの食べ物を、多くの人で分け合うということは、多くの
人が、同じ一つの食べ物で、同じ喜びを味わうということになります。

食べ方はいろいろだったかもしれません。わたしは塩コショウをして、蒸し器で
蒸して、ポン酢で食べました。皆が皆そうだったわけではないでしょうが、一つ
の食べ物が、多くの人に渡っていくと、喜びも大きくなる気がします。

今日はキリストの聖体の祭日です。イエスは、ご自分を食べ物として用意して、
多くの人がその食卓にあずかれるようにしてくださいました。イエスがご自分を
食べ物としてお与えになるとき、たとえば日曜日には、何億人もの人が一つの食
べ物を食べ、喜びを分け合うのです。

わたしたちは、食べ物によって人間の体がある一定の方向に形作られることを知
っています。肉を食べると言っても、鶏肉を中心に食べる人、豚肉を食べる人、
牛肉を食べる人、それぞれが形作られていく方向は違ってくると思います。また
は、野菜を中心に食べる人、お米を多く食べる人、それぞれの体がある一定の方
向に仕向けられていくわけです。

ではミサに参加して、聖体をいただく人々は、どのような姿に形作られていくの
でしょうか。ご聖体は、小麦粉で作られたパンの小さなかけらです。ですから普
通の食べ物のように、拝領したことで筋肉を作るとか繊維質を摂取するとかそう
いうことではありません。けれども、キリストの御体と御血は、すべての人にと
って同じ一つの食べ物ですから、きっとすべての人がある一定の方向に形作られ
ていくのではないでしょうか。それは、どのような姿でしょうか。

2つの考え方を示したいと思います。1つは、永遠の命を得、復活へと招かれてい
くということです。ご聖体をいただくことで、わたしたちの中には永遠の命が常
に保たれ、この状態が保たれているので復活へと招かれることになります。わた
したちは時間と場所の制約の中でしか生きられませんが、その有限の体に、永遠
の命が保たれるのです。それは、「キリストの体がそこにある」ということなの
だと思います。

もう少し踏み込んで言うと、聖体を拝領するとは、キリストの体の一部を持つと
言えるかもしれません。さまざまな人がいます。職業も、置かれている環境も、
健康状態もさまざまです。こうした人が同じ一つの聖体をいただき、キリストの
体の一部を持っているのです。理解できる人、どうしても理解できない人、受け
入れることができる人、どうしても受け入れられない人、さまざまな人がいます
が、同じキリストの聖体によって養われたキリストの体の一部なのです。

もう1つの考え方は、キリストの聖体を受けたなら、「キリストのように考え、
キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」人に
向かっていくのではないでしょうか。

しかしながらこの考え方は、先の考え方よりも理解するのが難しいかもしれませ
ん。「わたしはキリストのように考えているけれども、あの人はそうではない」
このように考えてしまうからです。わたしと正反対に行動する人、考える人が、
どうしてキリストのように考え、キリストのように行動している人だと言えるで
しょうか。

正反対の考えや行動の人ですが、わたしたちは皆、イエスによってこの食卓に招
かれました。そして間違いなく、この祭壇から、一つのパンをいただいています。
それは、イエスが一人ひとりに、ご自分の御体と御血を分けているのと同じです。

イエスが食べ物となって、違う考えの人同士が一つの同じ喜びを味わえるように
してくださったのです。イエスが可能にしてくださったことを、わたしのほうか
ら「わたしとあの人とが同じ喜びを分け合うなど、そんなことができるはずがな
い」とどうして言えるでしょうか。

そこで今週は、お互い一つのことを思い巡らすことにしましょう。わたしたちは
一つの祭壇から、同じ一つのパンを分け合っていますが、意見を出し合うと食い
違うことがあります。対立することさえあります。どのようにしたら、同じ一つ
のパンを分け合った者同士、協力できるでしょうか。そのことを考える週にして
ください。

キリストの聖体を受けて、およそ一週間聖体を拝領できないかも知れません。聖
体を受けて永遠の命を与えられ、復活に招かれました。さらにキリストの思いを
分け合う者同士、一致して神の国のために働くことができますように、ミサの中
で恵みを願いましょう。
関係の無い方には申し訳ないのですが、今月は話の森ホームページのほうには説教ブログが載らないので丸ごと転載しておきます。

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‥次の説教は‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会はいつも喜びを神に感謝する期間となっている。わたしたちは司祭とし
て、しばしば多くの教会で黙想会の準備をしている。黙想会に参加する人が、何
かを得て帰るのをこの目で見ている。
▼その中でも、回心してもう一度教会とのかかわり方を見直す人がいることは本
当に喜ばしい。これまで、何年も教会から遠ざかり、無関係に生きてきたという
人が、何かのきっかけを得て、もっと神の恵みに近い場所で生活することを選ぶ
ようになる。それを見ることができるのは司祭冥利に尽きると言ってよい。
▼ただ、その光景を見るのは司祭が小教区などの黙想会にいるときの話だ。これ
から司祭同士で、黙想会をすることになる。そこには、教会から何年も遠ざかり、
これからはもっと恵みに近づいて歩んでいきますという姿は見られるのだろうか。
▼ちょっと、表現が適切ではないかもしれない。けれども、司祭同士で黙想会の
中で自分を省みるとき、そこには回心があり、放蕩息子の例えが当てはまっても
よさそうな気がする。実際に、そういう恵みが与えられる人がいるかもしれない。
▼黙想会は、さまざまな人にとって、恵みの時だ。ミサの中でキリストの聖体を
いただくのが恵みの頂点だと思うが、ある意味、黙想会は違った形でキリストの
聖体をいただく期間かもしれない。

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今週の1枚
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第322回目。7月3日、聖トマの霊名のお祝い。巡回教会からプレゼント。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/140622.jpg

善き牧者の十字架と福音の喜び

2014-06-21 15:44:24 | Weblog
吉祥寺教会で北島神父様の宣教地でのお話をうかがい、とても面白くもまたさまざまな考えさせられることに心が揺れ動き、帰りにそのまま四ッ谷に出て、聖イグナチオ教会の案内所で、北島神父様の宣教地アルゼンチン出身のフランシスコ教皇様に因んで、教皇様が昔から好まれ、今も胸にさげておいでの善き牧者のデザインの十字架を買ってしまった。

映画「大いなる沈黙へ」のチケットを買うつもりで案内所に入ったのに十字架を見たとたん、先程うかがったばかりの北島神父様のお話と重なってほしいと思ったのだ。ありがたいことにお値段はごく安かったし、これならお財布の中身を気にせずに買える。

この善き牧者の十字架、北島神父様からうかがった実際の教皇様のお姿にぴったり重なるようだ。日本では想像も出来ないアルゼンチンの現実の中から誕生した教皇様だからこその今の教会への働きかけなのだなあ、と日本しか知らない自分にもちょっぴりわかったような気がする。このカトリック教会というところには、色々問題も多いけど、そこから本当に素晴らしい方々の働きも実際に生まれているのをあらためて教えられた一日だった。北島神父様ご自身がまたなんともすごい方なのだ。

ついでに聖三木図書館によって、売り切れで手に入らなかったフランシスコ教皇様の、福音の喜びを借りてきた。たぶんここならあると思ったら、やっぱりあったので即借りることができたのもありがたい。

我ながらこういう本を読んでみようという気になったのは本当にめずらしいことなのだ。それくらい今日のお話しはインパクトがあったということかもしれない。

※ 北島神父様の話の追加


今日の吉祥寺教会、北島神父様の講演で聴いた、アルゼンチンでの神父様のところの賄いさんとまだアルゼンチンの枢機卿様だったころのフランシスコ教皇様との出会いの話、高級車ではない、ごく普通の乗り合いバスで悩みを抱えて座っていた賄さんに心配して声を掛けてくれたどう見てもどこにでもいるような普通のおじいさん。教会に着いて前のほうに座るように進められた賄さんが断って後ろに座ってみていると、司祭の入堂がはじまって入ってきた行列の一番後ろの美々しく厳かな祭服を着た高位聖職者の顔をみたら、さっきのおじいさんだったというはなし。何だかいかにもフランシスコ教皇様らしい出来事だと思った。