値上げ

2014-06-28 23:11:54 | Weblog
これまで鯖缶と言えばスーパーの特売品の代表格だったはず、ちょっと高い鮭缶はそうそうは使いきれないけれど、鯖の水煮缶を戸棚にいくつか転がしてあれば何も無い時や、月末のお金の無い時、これに野菜を加えればいろいろな料理に変身させられる有難い食材だったのだが、今日、久しぶりに水煮缶をかったところ、100円ローソンでこれまでは108円だったものが一挙に138円に値上がりしていた。

鯖缶よ、お前に何が起こったのだ?

味噌煮缶は以前と同じ108円だから、水煮缶には値上がり要素があるのか?急に日本中でそんなに鯖缶に需要が増えるとは、妙な話だなあ。理解に苦しむね。

鯖缶は味と安さが魅力なわけで値上がりしすぎればどうせなら鮭缶を使う。生臭味は鯖缶とは比較にならないほど少ない缶詰だ。だいたい魚缶はそのままより、さらに調理加工用に使うのだから高くなるのならどうせなら鮭のほうが味も上等なものになる。

他の缶詰で調理素材に使えそうなものを発掘して試してみなくては。生の物と違って備蓄できるところが重要な要素でこればかりを食べるわけではないし、消費者としてはこんな値上げには対抗せねばならぬと思う。ところがだ、ここにも問題がある。

痛風の原因のプリン体が多いとは聞くけれど、それでも煮干しの更なる利用方法とか、安い蛋白源の美味しい料理法を考えていったほうがよいかとかも思うが、当方、親譲りの遺伝的な痛風予備軍なのだ。食材も色々考えて使わないとならないのだが、高級なものでも安物でも結果は同じというのはなんともわびしい限りだ。


今月だけは長崎大司教区浜串教会の中田神父様の説教ブログ丸ごと転載

2014-06-28 20:23:52 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/06/29(No.716)
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聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
使徒の生き方を鏡として生きよう
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聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日を迎えました。日曜日と、この日が重なるのは数年
に1度しかなくて、わたしが司祭になってからの22年の間には今回で4回目です。

ちなみに次に回ってくるのは2025年なので、確実にこの場には立っていないと思
います。両使徒の祭日にあたって、2008年の説教を参考にしながら「使徒の生き
方を鏡として生きる」とまとめたいと思います。

黙想会に参加してきました。説教師は、フランシスコ会の桑田神父さまでした。
近づきやすい雰囲気を持った神父さまで、共同の食事の時に近くの席に座って談
笑しました。ふだんの黙想会でしたら、説教師の神父さまと雑談するなんてとん
でもないことです。

小教区に戻ったので、これからゆっくり説教に耳を傾けるつもりですが、今パッ
と思い出せる内容を紹介しますと、黙想会を機に、わたしたちがどれほど神さま
に愛されているかを考えなければならないのだと思い出させてくださいました。

考えるヒントとして、桑田神父さまはこの人生を終えて神さまの前に立たされる
と、2つの巻物を見ることになるというたとえを話してくれました。巻物の1つは、
「自分が果たせた善い行いを綴った巻物」です。そこには、自分が全く記憶して
いない善行まで綴られています。

もう1つの巻物は、「犯した過ちを綴った巻物」です。善行ですら、記憶にない
ことが綴られていたのだから、過ちはそれはもう思い出せない過ちが数限りなく
綴られているに違いないと推測できます。そして恐る恐る、犯した過ちが綴られ
た巻物を開いてみると、イエスの十字架上の贖いによって、巻物には何も書かれ
ていなかったというのです。

これは、どんなに感謝しても感謝しきれないことです。わたしたちはこんなに愛
されているのだと、黙想会のようなゆっくりとした時間の中で考えることは必要
なことだと思いました。

ではここから両使徒について学びを得ることにしましょう。まず福音朗読から聖
ペトロについて考えてみましょう。ペトロに期待されている1つの特徴は、「イ
エスの呼びかけに答える」「イエスの問いかけに答える」ということだと思いま
す。今週の福音朗読では、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと
言うのか」(16・15)という問いかけに対して、シモン・ペトロが、「あなたは
メシア、生ける神の子です」(16・16)と答えています。

ほかにも、イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)
と話しかけた時に、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩い
てそちらに行かせてください」(14・28)と答えています。ペトロは、イエスに
答えるという使命を受けた使徒でした。

ペトロはイエスの問いかけ、呼びかけに答えたわけですが、それはそのまま、イ
エスに最後までついて行ったということでもあります。ただ返事をしたというこ
とではなくて、ペトロは困難を感じた時も、イエスに信頼を寄せて、最後までつ
いて行ったのです。そのことが、最後にはペトロの殉教につながっていきます。
言い伝えによると、ペトロはローマで殉教したのですが、イエスと同じはりつけ
の形は自分にはもったいないことだということで、逆さにはりつけになったとさ
れています。

そこでペトロの姿から1つの模範を学びましょう。それはイエスの呼びかけ、問
いかけに、わたしたちも答えるということです。何も優秀な答えをイエスが求め
ているわけではありません。呼びかけに、「はい」とか「引き受けてみます」と
答えることが大切です。ペトロは常に、答えは不十分かも知れないけれども、問
われれば自分の言葉で返事をしたのです。1人ひとり、「わたしはイエスに問わ
れたら答えてみます」という気持ちをペトロに倣って育てていきたいと思います。

次に、聖パウロについて、第2朗読を通して考えてみることにしましょう。第2
朗読は「テモテへの手紙」ですが、選ばれている箇所からは殉教の時が近づいて
いることが分かります。「世を去る時が近づきました」(4・6)とあるからです。
死を目前にしての手紙なのですが、落ち着いた、静かな心でその時を待っている
ことが伝わってきます。

人生の最期の時を、落ち着いた静かな心でいられるというのは、並大抵のことで
はありません。そこまでたどり着くためには、それなりの自信が必要でしょう。
パウロはこれまでの歩みに自信があるので、静かな心でいられたのだと思います。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜き
ました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(4・7-8)。

パウロは「義の栄冠を受ける」と言っていますが、「義の栄冠」とは何なのでし
ょうか。殉教の後にあるものですから、それは「永遠の生命」ということになり
ます。パウロは、なすべきことは果たしたし、「永遠の生命」が得られるので、
心静かに過ごせるのです。

わたしたちは「永遠の生命が得られるので、心静かにいられる」ときっぱり言え
るでしょうか。本当に、永遠の生命への希望だけで不安なく過ごせるでしょうか。
わたしたちが迷いなくこの生き方を貫くには、日頃から永遠の生命が何にも代え
がたい価値があると理解している、常々そう思っているのでなければパウロの心
境にたどりつけないでしょう。

実生活は、さまざまなものに価値を見て、「永遠の生命」だけを見つめて生きて
いるとは言えないと状態です。ですから、残念ながら、パウロのような心静かな
状態で人生の最期を迎えるのは難しいのではないでしょうか。最後まで心残りに
思うことがいろいろ浮かび、あーしておけばよかった、こうしておくべきだった
と悔やむのではないでしょうか。

聖パウロの生き方は、「永遠の生命」をしっかり見据えた生き方でした。パウロ
から、わたしたちも同じ生き方を写し取りましょう。「わたしが持っているのは、
棄てることができない教えです」ときっぱり答え、永遠の生命を見据えて生きて
いく。そのような信仰を目指して歩んでいきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会で、「説教師は皆さんを変えることはできません。皆さんを変えること
ができるのは皆さん自身です。」こう言い切る説教師に初めて会ったかもしれな
い。確かにその通りで、わたしたちが変わっていくためには、外からの力ではな
く、中から、自分自身が納得して自分を変えなければ、変わらないのだと思う。
▼もっとも印象に残ったのは、次の問いかけである。「聖フランシスコはたえず
次の問いをしていました。『主よ、あなたはどなたですか。主よ、わたしは何者
でしょうか。』皆さんも同じ問いを自分に投げかけてください。」わたしの中に、
生涯問い続けるテーマが植えられたと思った。「主よ、あなたはどなたですか。
主よ、わたしは何者でしょうか。」
▼なんだったら、このテーマ1つで黙想会を組み立ててもよいくらいの大きな問
いだと思った。この問いには、きっと一人ひとり別々の答えが見つかると思う。
その答えは、どれが正解というものではなくて、その人にとっての正解が見つか
ればそれでよいものなのだと思う。そして一人ひとりが見つけた答えに、自分の
生き方が逸れないようにすればよい。
▼わたしたちが見つけた答えは、きっと譲れないものだと思う。「主よ、あなた
は○○です。主よ、わたしはあなたの○○です。」その譲れないものを生き方の
中で表現していくために、黙想会というまとまった思索の時間はとても意義があ
る。わたしたちがたどり着いた答えをなかなか生活の中で表現できなくなってき
たら、それは一旦歩みを止めて、黙想する時である。

‥‥‥†‥‥‥


私だって叫びの壷がほしい!!

2014-06-28 12:09:05 | Weblog
深い穴を掘って、王様の耳はロバの耳と叫んでやりたい。だが、だが、だが、だがだ、無駄に自制心が働いて書いたブログは削除してしまうし、でもやっぱり腹は立つし、まったく持って実にいまいましい。

こうなったら今日はまったく違うことに目を向けるしかない。とりあえず、期日前投票だけはして、ちょっとでかけることにする。痛み止めの薬が効いているから重いものを持たないようにすれば大丈夫だろう。後はまた帰ってきてから。


帰ってきたのではなく映画館の待ち合いでこれを書いている。なんとまだ1時間も待つことになった。もう上映も終わりに近い映画だからやっているところも少ないし、たいてい限られた時間だから一番近場に来てよかった。ここに来る前、地元の区民センターで区長選挙の投票に行ってみると予想以上に期日前投票に人が来ていてビックリした。杉並区ってそんなに民意が高かったのかしら。でもよいことだと思う。

しかし、今日は腹をたてたついでに言いたい。誰かさんたちは私が何もわからないとでも思っているのかね、何も知らないから黙っているとでも。冗談ではない、仕方がないから生きているうちは庇ってあげることにしたから黙っているだけだ。その後はもう黙らないからいずれは見ておれと思っているのさ。

うっかりしてあちらより先に死んでしまっては悔しいから長生きするように心して生きるつもりだ。あちらは長寿の系統だが我が家はどうもその辺は危ないのがちょっと問題だな、父方も母方も短命なのは情けない。でも気持ちは負けるものかと思っているぞ。でなければ正義はどこにあるというのだ!

真実が闇に埋もれてしまうのは許せない、必ずいつかは表にださずにおくものかと思っている。思い続けている。

以上、これを読んでも皆様気にしたり心配したりしないでくださいね。ちょっと時が経つとなんてこともないいつもにもどっちゃうのですから。