占術 - メンタルヘルスケア研修
今回は具体的な占術の方法や理論の話ではありません。まして、占術とメンタルヘルスを比較する、なんて話でもありません。数千年の歴史を持つ占術と、最近始まったばかりの新しい学であるメンタルヘルスとでは、完成度も実績も最初から比較にならないからです。なお、本稿では精神的な健康状態も理論も実践も含めて「メンタルヘルス」とします。
もう随分前の事になりますが、客先の「メンタルヘルスケア」の研修に参加したことがあります。当時はまだメンタルヘルスという言葉自体が知られていなくて、カウンセリングの事かな、とかスランプの脱出法かな、とか思ったものでした。
この研修自体はほんのさわりの部分を紹介しただけに過ぎず、事後のアンケートに感想として「非常に教科書的で実践に役に立つとは思えない」と記した事を覚えています。実際、それからほどなくして、その頃かなり精神的に追い詰められていたリーダークラスの人がリタイヤ、会社も辞めたという噂を聞き、あの研修は何だったんだ、と思いました。それでますます「実践的でない」という印象を強くしてしまいました。
その後、資格試験なんかも出来て、書籍も見かける様になりましたが、中身を確かめた訳ではありませんので、最近の「メンタルヘルス」とはどういうもので、テキストも何を教えようとしているのかは具体的には存じませんが、占術の癒し効果のエッセイを書いたついでに、「癒しきれなかった」ツール、としてのメンタルヘルスの事を思い出したので、これについて綴ってみたいと思います。
私自身は、占術家として活動した時に、職場の悩みを抱える人と話をした事はあります。幸いその人は立ち直って寿退職するまでその後数年間、勤めあげました。他にも自殺志願者や自己嫌悪に陥った人などの相談者と一緒に問題解決をしてきた経験から見て、この時のメンタルヘルス講義はたいへん物足りなさを感じる内容でした。あくまでもさわりの部分の紹介として捉えるしかないのですが。。。
メンタルヘルスとは?
先ず最初にお断りを。これはあくまでも昔自分が受けた研修において「私はこう理解した」というものなので、ちゃんとした定義が知りたい人は他所に行っていただきたいと思います。また、本当のメンタルヘルスケアは、ここに挙げた様な問題はとうの昔にクリアしているかもしれない事を、合わせてここにお断りしておきます。
さて、メンタルヘルスの目標は、要は、精神的な健康を維持してしっかりたのしく働きましょう、という事です。我々ソフトウエア業界にあてはめると、ソフトウエア技術者というのは、職場においてとかく孤独な戦いに追い込まれやすく、プロジェクトが佳境になると、行方不明になったり(本当にあるんです)病気と称してリタイヤしなりする者続出、なんて事も珍しくありません。簡単に言うと、メンタルヘルスとは、そうなる前に皆で支え合って、乗り越えていきましょう、という事です。その為にはどうするか。大変そうな人に声掛けをする。責めない。そして、大変そうな人の見分け方。声掛けの仕方。技術的にはそういった事を皆で覚えて声をかけあっていきましょう、という方向に話が進みます。
ちょっと待ってください。それ、本当に有効ですか?
理論と実践の狭間で
現場にいるのは生きた人間なので、それぞれの性格やポリシー、矜持があって、一様に同じやり方で見分け、接する事が出来るものではありません。これは、見分ける側にとってもいえる事で、楽観的な人は「大丈夫だろう」と思うし、悲観的な人は「あの人大丈夫かな」と思います。つまり、こういう事は人によってばらつきがありすぎ、品質の確保が難しいのです。
声掛けに至っては、それでむしろプライドを傷つけられ、ますます落ち込む人もあり、安直に出来る事ではありません。講義内容ではそういった事を考慮していませんでした。これが疑問に思った第一。
現場でプレッシャーの重圧に苦しむのは、大抵の場合、重すぎる負荷、立たない見通し、迫る納期の狭間にあって、精神的にどうこう、という問題ではなく、この要因を取り除くしか解決方法はありません。これはメンタルヘルスではなくプロジェクト管理の問題です。これが第二。
本当に大変な時になると、プロジェクトの全員がプレッシャーとストレスで溺れそうな状態になるので、とても人の事までかまっていられる余裕はありません。つまり、メンタルヘルスの体系がいくら良い方法を提供していても、本当に必要なときには、実行出来る人が現場にはいません。これが第三。
以上の様な理由で、現場でこれを有効に機能させるには、その前に片付けなければならない問題が色々とあるな、と感じたのですが、前述の様に、その後、実際にリタイヤする者が出て、この研修も無駄であった事がはっきりしたのでした。
だからといって、メンタルヘルスというもの自体が無駄なものかどうかは、今の私には判断出来ません。人の心に関わる問題に取り組むのですから、改良の余地--主として理論よりも実践において--もまだまだ沢山あると思います。
その後も精神的問題でリタイヤする人は、自分が見える範囲だけでも後を断ちません。
現場で生き残っているのは、このような知識や技術がある無しに関わらず、男女を問わず精神的に頑丈な人ばかりです。
最終的な感想ですが、メンタルヘルスの学が生き残り、発展していく為には決定的に欠けているものが最低でもひとつある、と思います。数千年生き残ってきた占術にはそれがあります。それに気付き、補っていくか、代わりになるものを用意するか、しなければ、用語のみを残して、働く現場からは支持されないまま消え去るしかないでしょう。何かって? それをここで明かすのは私の役目ではありません。この先の歴史がすべてを語ってくれます。
詩と技巧 5
前回は漢詩で使う「詩語」というものについて考察しました。 借り物の詩語では自分の詩を賦すとはいえないのではないか。 それでも詩語を使うのはなぜか。 なぜ自分の言葉より詩語が優れているのかについて論じました。 詩語はたった一人の個人の独断ではなく、過去の名詩名句から厳選された珠玉の表現のエッセンスを集めた物であり、そこに自らの詩情を見出して綴っていく事は、即ち自ら詩を賦すと言って良い、という結論でした。
道具としての言葉
第一回に少し戻るような内容になりますが、芸術としての詩を考えた場合、他の芸術のように作品を作る為に素材と道具が必要なはずです。 詩の場合、素材は詩の内容、主題となるものです。 道具は即ち言葉、言語です。 言葉を使って何をどう表現するかは各言語によって適不適があり、それをどう使いこなすかは詩人の技量と才能とセンスに依るところが甚だ大です。
人を感動させ得る表現方法、というのがあるとして、ではそういう表現を見たら、人は必ず感動するのか、といいますと、そこは人情の機微といいますか、必ずしもそうではないですね。 やたら技巧が鼻について敬遠される詩もあります。 また、いかにもお涙頂戴的な安易な表現という事で却って不快感を与えたりもします。 そこには詩人の人間性や品格まで合わせてトータルな判断があります。 従って、誰でもこれこれの表現を真似さえすれば感動的な詩が書ける、と結論づける事は出来ません。 そこから自分なりの何かを感じ取って、自分の言葉であらわす工夫を重ねた先に、真にその言葉を自分の血肉と化した表現が待っているのです。
ところで、前回ちょっと触れたように、言葉は詩の書き手だけのものではありません。詩語も定型も、読み手の側にも共通した基盤があるとき、詩の味わいは一層深くなります。俳句の季語のように、一語で様々な詩情を表現し得るような場合もあります。 こうなると、くどくど表現する必要はなく、一語を据えるだけで詩全体が引き締まり、強烈な印象を放つようになります。 読む側も共通の素養を持てばこそ成り立つ世界です。
この世界は非常に骨太で深淵ですが、反面、詩人が書く時も書いた物を読む時もすべて作法通りで創造力はその範疇でのみ発揮されます。 例えば、漢詩では「猿」は哀しみの象徴として描かれるので、遠くから猿声が響く、とあればその声は必ず哀しげに響く訳です。 伝統的な定型詩にはこの手の仕掛けが沢山あるはずですが、そういうもので詩情を固定化するのもされるのも嫌だという動きが現代詩につながっていく訳です。
定型のしがらみを捨て去り、個人のポテンシャルを作品に最大限にぶつけるのが現代詩です。読み手と書き手の間で共有する情報が無い訳ですから分かり難いのは当然ですよね。 でも、それは逆に云うと、読み手も詩人の意向を無視して勝手に解釈すれば良い訳で、そこに徹した時にお互いに自由な表現(作者が思い通りに表現する自由、作者の意向に縛られず表現を味わう自由)世界を満喫出来る、という訳です。 ですから現代詩を読むとき、詩人の意図や思いを察する必要はありません。 もちろんそういうものに思いを馳せながら読むのは自由ですが。
ところで言葉が道具であれば、絵を描く人が繰り返しデッサンをするように、詩にもそうした反復練習のようなものがあるのでしょうか。 音楽演奏や絵画では練習の成果は明白で、客観的に出来栄えから確かめる事ができますが、詩の技量はどのように確かめれば良いのでしょうか。
色々と異論は存在するでしょうが、方法はあります。 詩の練習の手始めは素読です。 昔の人は、素読を繰り返す事で、読む、書く両方の技量が自然に備わっていったのではないかと思われます。 詩を賦すのも学問のうちですから、論語や大学だけでなく、詩経や唐詩選なんかも読まれたことでしょう。 他にも往来物や尽くし物など実用知識や雑学の書も豊富にあったはずです。 私の子どもの頃の教育では古典の素読なんて全く行いませんでした。 詩の味わいも知らずに育ち、読むのも書くのも面倒なものとして刷り込まれて×十年。 紆余曲折しましたが、結局昔の人の流儀に戻ってきた、という感じがします。
素読百編詩自成
なんちゃって。
私にはもうひとつ昔の人の知恵に助けられている事があります。 それは筆写。 名文をとにかく理屈抜きで書き写す。 書きまくる。 やってると「なるほど」と思う事が多く、その表現の一部または全部をどこかで使ってみたくなります。 こうして真似っこから次第に自分の表現が定着していくのです。