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英国ではほとんどの偉大な詩人たちは母国語で詩作を始める前に、ラテン語による作詩の勉強をしました。それは、多くの英語詩の作法はそれを古代ギリシャ・ラテン語詩から移入し、詩という芸術についての原理原則やノウハウを習得するには、源流たるラテン語の方が英語よりも原則に忠実に構成する事が出来るからです。
詩とは高度に知性的な操作を伴う言語による表現芸術であるので、詩を書く為にはとにかく沢山詩を読み、勉強しなければならない事は自明の理です。
現代の(自称も含む)詩人は勉強しているでしょうか?
和漢の古典に精通し、西洋の古典、現代の詩作を読み、その上で自国語の詩を書いているでしょうか?
自国の詩学を打ち立て、その将来を展望し、詩学に法った作詩を行なっているでしょうか?
私は現代詩手帖や詩と思想に並ぶ作品群にも時々目を通しますが、いずれ劣らぬ駄作のオンパレードで、およそ詩に見える物などひとつもありません。
当然です。日本語、それも現代口語には、詩作に耐えるだけの体力がなく、日本語には誰もが認めるだけの詩学も成立しておらず、わずかに一部の詩人個人が提唱するローカルな詩学が散見されるにすぎないからです。しかも、その数少ないローカル詩学は読み手まで普及していません。つまり、多くの読み手は理解出来ない詩を読まされる事になっています。
この事を当の自称詩人にぶつけてみても無視されるか嘲笑されるか誤魔化しの言い訳を聞かされるかのどれかで、一人としてまともな答えを返してくれた人はいません。彼らは自分が普段やっている安直な言葉並べ以上の事に興味はなく、日本語がどうなろうと、日本語の詩文化がどうなろうと構わないのです。当然こんな人たちの作品や詩作に対する向き合い方、態度から得られるものもありません。
かく云う私はというと、現代口語による詩作はとうに捨てていて、日本語では散文しか作らない事を決めました。なお、私にとっては散文は詩ではないので、散文詩という選択はあり得ません。つまり、散文しか書かない=詩は一切書かない、を意味します。詩を作るときは、漢詩か英語詩に専ら力を注いでいます。将来はラテン語とドイツ語の詩作も行なっていきます。
日本語で本物の詩が作れる様になるまでには、あと数百年はかかるでしょう。