城が続きます。
先週、裾野市の葛山城に紅葉狩りに行ってきました。
大手口入ってすぐに楓が植栽された素敵な道があるんですけど
まだ早かったです
まだ早かったです
やっぱり11月に入ってからでしょうか。
何度か来てるのにまたもや失敗です。
色づいてる木もけっこうあってそれなりに楽しい城散策
葛山城は
鎌倉時代から戦国時代まで駿河郡で勢力を誇った葛山氏の本拠地です。
葛山氏は北条氏以前に小田原を支配した大森氏の一族。
大河ドラマ「光る君へ」をご覧の方にはお馴染みかもしれない藤原伊周の流れを汲んでると言われています。
新九郎、奔る!16巻より
今川の家臣なので最初は新九郎には協力的。
新九郎は葛山氏の娘を側室に迎えたり、葛山氏は新九郎の子(氏広)を養子に迎えたり、
もらったりあげたりで良好な姻戚関係。
当然これから作品での登場回数も増えることでしょう。
葛山氏墓所
墓所前の説明板
(現在墓所に立ち入れないので昔の写真探してきました)
葛山氏は河東一乱が続く過程で北条氏から離反、武田信玄が駿河に侵攻にすると今川を見限って武田氏に従います。
信玄は六男の信貞を葛山氏元の婿養子とし葛山の跡目を継がせます。当時どこの領主もやっていた婚姻による他家の乗っ取り、領地拡大です。
ここまではいいのですが、
信玄は武田の葛山支配を確固たるものにするため、氏元に謀叛ありとして、氏元以下5名の葛山一族を諏訪湖で処刑してしまいます。
武田や徳川の戦記では斬刑や磔と書かれてますが実際は諏訪湖で水死させられたそうです。むごいですね。
この時処刑された中には氏元の3人の息子も含まれ、年齢は上から24、18、13歳でした。
葛山当主となった信貞は天目山の戦いで兄勝頼が敗れた後甲斐善光寺で討死します。
これにより駿河葛山氏は完全に滅んでしまいました。
という悲劇的な最後を迎えた葛山氏。
しかし家臣や領民たちによって城跡、館跡含む葛山の土地は大切に守られ現在に至ります。
現地案内図
葛山にはこういうのたくさんあってとてもわかりやすい。親切!
中世の城郭(13〜16世紀)はだいたい詰めの城と領主が暮らす館がセットになってます。
詰めの城は山中にあるので遺構が残りやすいですが、館は田畑や宅地に開発されその姿を留めていないケースがほとんど。
ですが葛山城は詰めの城と館跡がしっかりと残っている極めてレアな城郭史跡です。
キセキ的に残ってるんです。
葛山館跡
北側の土塁
中世の館はだいたい100メートル四方の方形。
100メートルは昔の単位で一町、
面積10000㎡も一町と数えます。
これだけ良好に残る館跡は他に
福井県一乗谷の朝倉屋敷くらいしか思い浮かばないです。
あちらは残ったというよりは埋没していたんですけど。
あとは、少し違うけど八王子城とか。
館跡は平成4年に発掘調査されており、11〜16世紀までの陶磁片や柱跡、庭園跡などが確認されています。
ちなみに詰めの城のほうは一度も発掘調査はされてないそうです。
門跡の土塁
詰めの城(葛山城)と仙年寺と館跡の位置
館跡詳細
(1)葛山氏館 の隣に(2)半田氏屋敷(4)荻田氏屋敷(5)岡村氏屋敷
家臣の屋敷が並び複郭式の城郭を成しています。
普通は領主の館が単郭あるだけなので、これだけでも相当珍しいです。
道路から見る葛山氏館(奥の植え込み)と半田氏屋敷(赤い石塀)
半田氏の子孫の方が住まわれてるので撮影は塀だけ。
中世から規模の変わらない敷地に住居されてるってすごいことです。
大門跡に集められてる石造物
仙年寺への参道
背後の愛宕山に葛山城があります。
寺の前に堀を埋めた堀田という地名が残っており、かつては仙年寺に館があったと言われています。
とても綺麗な仙年寺
昨年の大雨の影響で寺裏から城への階段が通行止めになっており、
寺の駐車場右手の細道から大手門入り口まで行かなくてはなりません。
(私は寺の急階段が嫌なのでいつも大手門からです)
大手門までは徒歩7〜8分。
屋敷の名残や城跡の雰囲気を感じる自然豊かな道なので楽しいです。
というか
絶対歩いたほうがいいです。
正直、詰めの城はどうでもいいかな🙇 と感じてしまうほど
葛山は館跡や集落の存在に価値のあるところだと思ってます。
途中にある馬頭観音
好きな史跡なので長くなってしまいました。
でもぜんぜん足りないわ。
また紅葉狩りチャレンジしないといけないし。
✳︎ 参考文献✳︎
静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成
裾野市史研究
裾野市史
葛山居館跡遺構確認調査概報
新九郎、奔る!