株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その31.三つ子の魂、百まで

2012-07-26 07:08:59 | 制作会社社長の憂い漫遊記
1995年4月、個人事務所プランニングオフィス多田をスタートさせ
翌年9月には有限会社にした。というのも悲願の新入社員を採用したからだ。

それまでフリーとしてみてきたプロダクションは、
言葉は悪いが社員を「使い捨て」で、朝から夜中まで休日なしでこき使い、
保険すらないという会社も多かった。
「修行している身で保険とはなんぞや」とは旧態依然。
会社にする限り、一般の会社並みの労働環境にしたかったし、
私自身も子供が出来き、震災後の復興もままならない状況で
天職とはいえ仕事オンリーではなく、家族もみたかった。
「モノより思い出」という名コピーがあるが
子供との時間をなるべく作りたかった。


(有限会社になっても基本デザインは変わらない名刺)

そんなこともあり、会社の姿勢としては
「映像にこだわらず、お客さまの思いを達成するために、
様々なツールを駆使し、その思いを実現すること」とし、
労働環境は、9~17時半勤務、土日祝休み、正月盆休あり、交通費全額支給。
保険は社会保険、雇用保険、労働保険を完備した。
給与の体系は確立していなかったが、基本給=手取りとし、
税金や保険料が上がっても手取りの給与は変わらないように配慮した。
これは私が会社勤めをしている時に、給与は年々上がっているのに
手取りが下がるという理不尽に応えたものである。

さらに外注スタッフ用にも万一に備え、保険料は会社が支払い
受取人は本人とする傷害保険にも加入した。
くしくも16年間の損害保険加入で
河西 秀樹カメラマンが田んぼに飛び降りて足の腱を痛めたのと、
同じく河西カメラマンが釣りに行った時に階段につまずき捻挫治療した、
計2回傷害保険のお世話になっただけである…なんだかなぁ。


(私と仕事をするとつられてよく食うようになり太ってしまい
 動きが悪くなったと嘆く河西カメラマン)

栄えある第1号社員は、1996年4月に採用した
梅花女子大卒ピカピカの藤井 弥生だ。
4月入社だが、まだ会社として体制が整わず、彼女は個人事務所に入社した。
正直いえば男性社員が欲しかったが、一生面倒をみる自信がなかった。
また、半分くらいは「会社にせず、このまま個人事務所のままでもいいか」
と、雇っていながら卑劣な思いがよぎったのも事実である。
現場には優秀なフリー助監督もいたし、
「藤井が本当にできるならいいが、
万一どうしようもない人材だったらどうしよう…」という不安もあった。
その迷いが会社にする決断をするまでの3カ月ということになる。
そんな不安をよそに、藤井は頭が切れ、初めての事でもテキパキこなした。
学生時代はラクロスをする体育会系女子だっただけあり
例え化粧が落ちようとも汗を流すことを苦にせずロケ現場で七転八倒した。


(第1号社員の藤井 弥生とロケ先で)

そして第2号社員として、翌年、専門学校卒ピカピカの岡 由希子を採用した。
男性社員が欲しいのに、まだ決心がつかなかった。
しかし岡もまた泥まみれになっても汗まみれになっても
現場では根を吐かなかった。


(2号さんではない!第2号社員の岡 由希子)

しかし、3人トリオはそう長く続かなかった。
藤井が結婚することになったからだ。専業主婦になるため藤井は退社。
喜ばしい事だが、会社にとっては大きな損害だ。


(藤井 弥生の結婚式には主賓として出席した)

寿退社。やはり会社のためには男性社員が必要だと覚悟して
第3号社員として中央大学新卒の森田 康貴を採用した。
しかし、森田は岡の退社で採用した第4号社員・梶山 高子と社内結婚し、
大きな損害を会社に与えた。いわゆる「業務上横領罪」である。
梶山は入社して2年ほどでの退社だったので、
ようやく現場で使えるようになった矢先の不幸?で痛かった。


(ナレーター事務所オオバスのパーティーで
 左から私、第2号社員の岡 由希子、第3号社員の森田 康貴、
 ナレーターの中村もんどう氏)

実は女子社員と飲むと必ず
「結婚して子供が出来たら最低でも3年は専業主婦になるべきだ」
と説いていた。
少なくとも子供が3歳になるまでは託児所などに預けるべきではない。
私のフリー時代の名作にヤマト映像企画㈱制作(藤野 武弘プロデューサー)の
「洛南高校の奇跡を生んだ三浦俊良の体当たり教育」ビデオがある。
(その25.出販ビデオで活路を開く を参照)
その時に取り上げた三浦 俊良氏は元洛南高校・洛南高校付属中学校校長で
東寺の僧侶でもある。師は主に道徳教育でどうしようもないゴンタレ高校を
進学校へと立て直した。
師はそのビデオの中で「三つ子の魂、百まで」論を展開している。
幼いころの性格は、年をとっても変わらないという意味の諺(ことわざ)だが、
師はビデオで「3歳までトコトン可愛がって、寂しい思いをさせてはならない。
逆に3歳を過ぎたら独り立ちできるように促す。
もっといえば3歳過ぎてネコ可愛がりするようならロクな子供には育たない」

と持論を展開している。
このテーマで作られた映画に『八日目の蝉(成島 出監督)』がある。
私は師の教えを自分の子供で試してみることにした。
長女、次女ともに出産の3カ月を休業した。
フリーだったのでその間ギャラは入らない。
よってプロデューサーの皆さんに事情を話し、
休業前半年はメチャメチャ仕事を詰め込んだ。

次女は年子だった事もあり3カ月休業したが、
結局、長女の面倒をみる事になってしまった。
したがって長女の育児には相当時間を費やしたことになる。
その当時は、ベビーカーを曳く男性は皆無であったし、
公園デビューでは女性に交じって私だけが男性であった。
百貨店の男性トイレにもオシメを交換するベッドはなかった。
2歳前の長女を連れて2人で四国旅行に行った時には、
ホテルで誘拐犯や自殺犯に間違えられることも度々あった。
「私は子供の面倒を普段見ているので休みの時はお願い」という
カミサンを家に残して、まだオシメのとれない2人の子供を連れて、
買い物や遊園地、銭湯に行ったりした。
小学生になっても近所の子供を集めてはキャンプやハイキングにも出かけた。

長女が大学生になり引越しの荷造りの中に、
2歳の時に二人で四国旅行に出かけた折、高松の栗林公園で
修学旅行の女子高生に撮ってもらった2ショット写真が
額縁に入っているのを発見した時は驚いた。長女の記憶にはないが
2ショット写真は彼女の手元にいつもある。
引越後、一緒に居酒屋へ飲みに行った時、
「私は多分、ファザコンだと思う。基準はお父さんだから…」
と言われて、まんざらでもなかった。


(お腹の中の長女
 出産の3カ月は休業し、彼女との時を最優先にした
 次女も同様に育てた事は言うまでもない)

『三つ子の魂論』を否定する意見も多いが、
私は体験者として『三つ子の魂論』を肯定する。
両親どちらか一方が働かなくても生活が成り立つのであれば、
少なくとも3歳までは両親のどちらかが子供に付いているべきだと断言する。
そんなことから、20年経った今でも社員には『三つ子の魂論』を説いている。
だからいずれ寿退社する女性を、少数精鋭主義の当社で採用するのは
私にとって非常に手厳しい判断が迫られる。
「女性蔑視だ」と言われてもしかたないが、
森田の梶山奪取業務上横領事件が懲り、
現在、我が社は男所帯になっている。


(第5号社員の梶山 高子と忘年会でカラオケに
 男性社員とのツーショット写真はないが
 歴代女性社員とのツーショット写真は必ずある
 ※ちなみに撮影はこのあと梶山と結婚することになる森田 康高)

社員も新卒の学生を採用し、1からみっちりシゴイテいく。
仮に中途採用であっても業界人は取らないようにしている。
成人した大人に『三つ子の魂論』は、論外かもしれないが…
時間がかかってもサラから教え込む方が会社にとっては良いように思う。
こうして1995年4月、個人事務所プランニングオフィス多田をスタートさせて
14年目の2009年、株式会社プランシードに社名変更し、
業務上横領をした森田 康貴はお咎めもなく堂々と取締役に就任し、
新体制がスタートしている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿