株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その30.裸一貫の起業

2012-07-25 07:59:33 | 制作会社社長の憂い漫遊記
1994年8月、オフィスキネティックは解散した。
大渡 繁夫、牧 逸郎、中川 幸俊、大沢 佳子、そして私の5人は
それぞれの道を歩むことになった。
解散の理由は、これ以上フリー集団を組んでいてもなんら発展はない。
もう一度、原点に返る、というものだが、大渡と牧が下した決断で
私も中川も一瞬「えっ?」という感じだった。
ただこの解散がなければ、今の私はないし、
会社も存在していなかったのかもしれない。

大沢は牧さんを慕って「弟子にしてください」と言って
キネティックにやってきたが、弟子入門は10年間で彼女一人だった。
というのもキネティック解散前後はPR映像業界が衰退一途の最中で
最早フリーが食える時代でなくなりつつあった。
まずフリー監督が、続いてフリーカメラマンが、転職もしくは引退し、
キネティックを作った当時、私は新進気鋭の若手監督だったが
解散の頃はすでに40歳を目前にしていたが、まだ若手監督で通っていた。
つまり先輩はやめるは、後輩は入ってこないはの時代に突入していたのだ。
牧さんは「多田君に任せた。会社にして若手を育ててくれ」と言ったが
その時は十分フリーとして食えていたし
「またフリーに戻るか…」くらいに考えていた。
まだ気持ちの整理がつかぬまま、漫然と年が明けた。


(キネティックを解散し、ふたたび一人になって名刺を作成)

年明けは取引先の㈱クボタの年初大会があり、お取引が始まって以来毎年
映像を上映せねばならず、年末年始に編集・録音をして完成させ、
1月16日夜から17日朝まで夜通しかけて完成台本を書いていた。
完成したのは17日の朝5時。
8時に家を出て、京都・宝が池にある国際会議場に11時につく予定でいた。
まだ出発までには3時間あり、寝てしまうとヤバいので、不謹慎にも
1本目の缶ビールにありついた。カミサンが目覚めて
「朝からビール?今日は仕事ちゃうの?」と呆れかえられたが、
5時30分、2本めの缶ビールを冷蔵庫から出しリビングに胡坐をかいて座った。
テレビをつけたかったが子供が目を覚ますと可哀そうだと思い、
水槽に飼っていた川魚を見ながら缶ビールに口を付けた時だった。
地響きが西の方から聞こえてきたかと思うと、
私は麻原彰晃みたく、胡坐をかいたまま宙に浮いた。
その横をキャスター付きの水槽が横切ったが、倒れることなく
リビングの南端から北端に移動した。
1月17日、5時46分、私の住む神戸の街が激震に見舞われた。

それから半年、私の記憶に残るのは電気もなく、水道もなく、ガスもなく、
正月についた餅を石油ストーブで焼いて子供たちと食べた記憶だけだ。
しかし空腹感は1週間ほどで、その後は支援物資が届き、
風呂に入られないこと以外は、飢えて死ぬという事はなかった。
夜が明けると、支援物資をもらいに近くの小学校に行き、
日が暮れると寝た。町は真っ暗だったから何もすることがない。
皮肉にも、結婚式で使った50年ほどの刻みのある巨大なキャンドルが
唯一の明りだった。

両親と弟夫婦の家は全壊し、私の住む賃貸マンションも半壊した。
半壊した2DKのマンションに10人が集まったが、
余震はひどく、服を着たまま靴を履いて数日寝た。
両親は帰巣本能が働き、全壊の実家に帰ると言いだした。
親父は大工なので、しばらくは車で寝起きし、
掘っ立て小屋を建ててでも戻る気でいる。
別れの朝、私は無謀な計画の親父と喧嘩したが
おふくろは「どうせ死ぬんなら、お父ちゃんの好きなようにさせてやって」と
まるで死での別れのような一言を残して、車で帰って行った。
やがて弟夫婦も尼崎にある嫁の実家に移り、私も小さな子供2人とカミサンを
連れて一時、武庫之荘にある嫁の実家に避難することにした。
とはいえ神戸には両親を残したままである。
いまでは到底考えられないが、ポリタンクにガソリンを満タンにして
それを足元と後ろの荷台に計2個くくりつけて、
武庫之荘から瓦礫の街を走り、実家まで届けた。
私は東灘にある自宅と家族の住む武庫之荘をバイクで行き来する日々を送った。

3カ月ほど経つと、JRが住吉駅から大阪まで開通した。
それ以西は、まだ不通だった。
JR住吉発、大阪行きはどの時間帯も超満員で、
戦後食料を求めリュックを担いだ人々が省線(JR)に乗って買出しに行く
ニュース映画を見た事があるが、開通間際のこの電車もリュック姿の
人々で超満員だった。みな被災者ではあるが生きる活気が車内を包んでいた。
いつまでもこうしていてもしかたない。
西宮市と尼崎市の境目である武庫川を超えると、見た目には震災の影響が
ほとんどないように見えた。少なくとも市バスが走り、
居酒屋の提灯もついていた。淀川を越えると大阪だ。
私はきらめくネオンを見て、復活を誓った。
フリーとしてではなく、会社を起こすしかないと決意した。

出来るだけ神戸に近い所で事務所を借りようと探したが
被災者に事務所を貸す篤志家はいなかった。
「神戸が自宅で被災した」というだけで踏み倒しを危惧したのだろうか
「No!」と言われた。ようやく周旋屋の紹介で契約書まで交わした物件は
突然「大家さんがダメだと言うので…」と断られた。
これには憤慨し、周旋屋に猛抗議した結果
大阪市北区大淀中の新築マンションを紹介された。
大家さんは銭湯を経営していたが、等価交換で銭湯を明け渡し、
近くに7階建てのワンルームマンションを建てたのだった。
私はご挨拶に銭湯を訪れたが、オヤジさんが気の良い方で
「よかったら入って行ってよ。もうすぐここもなくなるし…」
と言われたので、元来銭湯好きの私はパンツを脱いだ。
とそこへオヤジさんがやってきて
「カミサンを紹介するよ」とカミサンを連れてきた。
私はフリチンで奥さんにご挨拶した。しっかり…見られた。。。。。


(個人事務所プランニングオフィス多田の名刺
 幼稚園、小学校、中学校、大学の同級生で
 グラフィックデザイナーの濱中 幸彦君にデザインしてもらった)

こうして、まさに裸一貫で
1995年4月、震災からわずか3カ月後、
個人事務所プランニングオフィス多田がスタートした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿