株式会社プランシードのブログ

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その32.大日本印刷映像センターのキレ者

2012-07-27 08:23:14 | 制作会社社長の憂い漫遊記
私はフリーになりたての頃、私の映像界での身元保証人?である
ソニーPCL大阪支社の副所長・安達 弘太郎さんに
フィルム系老舗の制作会社を数社紹介いただき、
フィルム撮影・編集によるPRを何本か体験した。
当時はフィルムに代わって、ビデオが台頭しており、
しばらくするとフィルム制作会社は撤退を余儀なくされたので
安達さんのおかげで貴重な体験ができた。

フィルム制作会社のプロデューサーはみな高齢で、重厚感は漂っていたが
新生のビデオプロダクションのように、
若さで何でもあり!イケイケドンドン!ではなかった。
企画ものも少なく、老舗という会社名(伝統)で仕事を取り、
値引きもほとんどなかった。
だから私もビデオプロダクションで仕事するよりも
ギャラは多くいただけたのだが…。


(フィルム系の老舗プロダクションから私に渡された名刺)

新生のビデオプロダクションに交じって登場してきたのは印刷屋さんである。
印刷とビデオ制作をセットでいただこうというのが狙いであったが、
親会社が印刷屋さんなので運転資金もあり
なによりも営業は印刷部門の営業が兼務していたので、営業力は大きく
セット販売とはいえ、町場のビデオプロダクションに比べ制作費は取っていた。
多くの印刷会社系のビデオ制作会社は、カメラ機材や編集室を社内に持ち、
プロデューサーを相当数配置していた。
いち早くスタートしていた凸版印刷に対抗して登場してきたのが大日本印刷だ。

私が表題にしたのは、この大日本印刷の映像部門、通称DAC(ダック)の
伊東 淳(じゅん)プロデューサーだ。
キレ者といっても「すぐに切れるヤバいオヤジ」ではない。
「仕事ができる」「辣腕」という意味だ。
私はプロデューサーなので「伊東さん」とさん付け呼び、
伊東さんは私が大学の先輩に当たると勝手に勘違いし
私を「多田さん」と呼んでいたが、数年経って私が後輩である事がわかっても
律義な伊東さんは「多田さん」といまだに、さん付けで呼んでいる。


(左から河西カメラマン、伊藤プロデューサー、私)

その頃、町場のビデオプロデューサーに中には、
「言うだけで予算なし!」か、
「予算がないので何も言わない!」という輩が乱立し、
しかも経験不足の『なんちゃってプロデューサー』が多くなっていた。
そんな中で伊東プロデューサーはお金と人の管理だけでなく、作品についても
様々な提案をするプロデューサーだった。しかも資金を持っているので
言うだけでなく、お金も出してくれたので監督としては非常にやり易かった。
以降衰退の一途をたどるビデオプロダクションの中で
私が出会った最後のプロデューサーといってもよい。


そんな私たちが作った名作のひとつが2002年製作の
住建産業・創立50周年記念DVD
「挑む~50年の歩み、そして未来へ~」である。
住建産業は、中本 利夫会長が
フローリングと呼ばれる床材製造からスタートし、
広島に拠点を置く世界の木質建材トップカンパニーにまで育て上げた。
2002年、50周年を迎え、
社名を㈱住建産業から㈱ウッドワンとするのを機に
印刷のトップカンパニーである大日本印刷が、
社内の周年史チームと映像チームの2つを出し、
50周年記念史とDVDをセットで製作することになった。
映像チームは伊東 淳プロデューサーを長に、監督・脚本は私、
カメラは当時私とコンビで、立て続けに秀作を飛ばしていた河西 秀樹、
編集は社内に編集室はあったものの外部発注とし
私が元気な事務所の新鋭・益田を指名した。
録音はいうまでもなくサウンドシード山城 日出男という鉄壁のスタッフ陣。
ナレーターは数名オーディションして、
「ナレーションは初めてです」と言う関西芸術座の俳優・福寿 淳氏を
私がその声に惚れ込み起用した。
ちなみに伊東プロデューサーと同じ名前の「淳」だが
福寿氏は「あつし」と読む。
また映像の使用環境からビデオテープでの納品ではなく
DVD納品が決まった。しかし、当時のDVDは今ほど簡単に
プログラミングするソフトがなく、
プログラマーがわざわざ設計しなければならなかった。
ロイヤルホテルLD(レーザーディスク)に続き、
くしくも関西発本格DVDを私が監督することになる。

(その10.始まったものは必ず終わる 参照)

それまでも伊東プロデューサーとは何本も共に仕事をしていたので
「ウチとしても住建産業50周年記念大作だし、
たまには台本を書いてからスタートしようよ」と
伊東プロデューサーからは懇願されたが
この時も最初は台本を書かずにラブレターでスタートした。
(その24.図面の通り作ると家は倒れる? 参照)
さすがに50周年史である。住建産業側も記念事業なので
層々たるメンバーで特別チームを作り、
大日本印刷側も周年史専門のスタッフが名を連ねていた。
おそらくメインスタッフでは私が最も若かったと思うが
その私が書いたラブレターは意外に好評で
最初の打合せからスムーズに進んだ。
「こういうスタートをした仕事は最後までうまくいく」
まだはじまっていなかったにもかかわらず、私の直感はそう呟いていた。

論より証拠。このラブレターにより住建産業側から面白いものが提示された。
過去の8mmフィルムだ。中本会長が8mm好きだったようで、
過去の住建産業の記録が数十分間8mmで残されていたのだ。
保存状態も悪くない。これで方向は決まった。
この8mmフィルムと写真、そして様々な方の証言(インタビュー)で
50周年の歩みを映像化することにした。
さらに大日本印刷の周年史メンバーから、50周年史の目玉として
①「住建産業・中本 利夫会長と建築界の大御所・黒川 紀章氏、
ジャーナリスト宮崎 緑さんとの3者対談」、
そして②「住建産業が広島県に大森林を持つことから、
アウトドア派の柳生 博氏とバーベキューをしながらの独占対談」が
提案されていたが、印刷物よりビデオ的なので
50周年史チームの企画を奪い、ビデオ主体の製作とした。
そのかわり、対談で50周年史に載せる部分については
私が校正のお手伝いを無償ですることにした。


(完成した住建産業50周年記念DVD
 「挑む 50年の歩み、そして未来へ」

完成したDVDは総尺74分近くもある大作になった。
オープニング(3分21秒)
第一章「起源」(10分17秒)
第二章「創業」(10分20秒)
第三章「挑戦」(9分43秒)
第四章「飛躍」(9分47秒)
第五章「新世紀」(10分41秒)
Talk-1「行き方の真ん中に森がある」(10分20秒)
  ※中本利夫会長と柳生博氏との対談
Talk-2「21世紀を生きる道」(11分13秒)
  ※中本会長と建築家・黒川紀章氏、
     ジャーナリスト・宮崎緑さんの対談。



(巻末に当社の名前が載る)

我ながらよい出来栄えで、住建産業側からも大きな評価をしていただき
50周年史の巻末には一監督にすぎない私の会社名まで載せていただいた。
この出来栄えの陰に伊東プロデューサーの活躍があった事は言うまでもない。
また伊東プロデューサーはこの大きな評価を後ろ盾にして
その後開かれた50周年パーティーのオープニング映像や、パーティー収録など
オマケもいくつか拾って売上UPに貢献した。
それから数年後、伊東プロデューサーは東京本社に栄転になり、
大阪を拠点とする私と仕事でタッグを組むことはなくなってしまった。
ちなみに伊東プロデューサーは現在、取締役・執行役員にまで昇りつめ、
次期社長の座を淡々と狙っている!(かもしれない…次回会った時に要確認)
本社勤務で、ますます私とは縁遠くなってしまった。
「たまには釣りにでも行きたいね、伊東さん!!」

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