1986年4月、私はフリー監督宣言をした。25歳の珍事であった。
その翌年の1887年6月、フリー監督2名とフリーカメラマン1名、
フリーVE1名の計4名が偶然ではなく、神のイタズラでもなく、
当然のごとく集まり、フリー集団「オフィス・キネティック」が誕生した。
(キネティックの名刺はオレンジと黄色の2種類)
キネティツクとは、映画の「キネ」と、
心臓のドキドキという音「ティック」の造語であるが、
もう一方で、ヨーロッパで起こった文化復興運動「キネティック運動」から
映像の新しい創造をドキドキ感で行なうフリー集団という思いから命名した。
監督の大渡 繁夫、多田 浩造、カメラマンの牧 逸郎、
ビデオエンジニア(VE)の中川 幸俊の4名で立ち上げた。
後に、大沢 佳子が牧さんに弟子入りし、5名となったが
4名は当時、業界を賑わすフリーであった。
これより先に、私がプロデュースした「OMRON研究所紹介ビデオ」で
牧カメラマンと組んだ、山崎 佑次監督率いるフリー監督集団
「サンクラフト」があるが、監督とカメラマンの混成チームは
大阪初、ひょっとすると全国初だったのかもしれない。
私と中川君は共に「映像館」を脱藩し、
私は身元引受人?だった安達 弘太郎氏の紹介で、フリー当初は、
「日本映画新社」などのフィルム記録映画の老舗に出入りを許されていた。
ビデオではなく、16mmフィルムを扱うプロダクションだったので、
作品には必ず助監督が付く。私も「日本映画新社」で
2人の監督の助監督についたが、その一人が大渡監督である。
フィルムスタッフのゆったりしたペースにカラダが馴染めず、
何よりも現像次第で、撮り直しもある状況に
「一生懸命準備し、撮影したのに、上がりが悪い?再撮?やっとれん!」
と内心は憤懣本舗であった。
一方、VEの中川君は新生ビデオプロダクションでフリーとして実績を上げ
カメラマンから指名をもらって、フリーVEとしての地位を築きつつあった。
私は中川君の紹介で、新生ビデオプロダクションでも
仕事をするようになり、大阪に事務所を持ちたかった。
収入も安定してきたので、「この際2人で事務所を持つか」と話していた矢先、
「日本映画新社」で助監督についた大渡監督から
「実はカメラマンの牧と事務所を持つ話が煮詰まっていて、
聞くところによると多田君と中川君も事務所を持つと聞いた。
よければ4人で結託しないか」
とお誘いを受けた。
大渡監督とは「大阪市政広報映画」でお世話になっていたし、
牧カメラマンとは日本維新派時代からの糸で結ばれている。
まさに大渡に船(失礼、渡りに船)と、大阪市北区豊崎に事務所を構えた。
(キネティック主催のフリーランスの旅行会で飛騨高山に!
豪華!MAPでロケバス、運転手込みでチャーターした)
事務所には各自のスケジュールを書いた白板があったが
牧さんはそれを見ては
「多田君は滅茶苦茶仕事してるなぁ…そんなんで作品になっとるんか?」
と心配しつつも、
「ワシももっと仕事せなアカンなぁ、この白板を見ると励みになる」
とギラギラした目をしていた。
1994年6月、阪神淡路大震災の前年に解散するまで
「キネティック」の一員として、フリーとして様々な仕事をした。
しかし、この4名で組んだ作品は、実は1本もない。
私と牧、大渡と牧という組合せも数えるほどしかない。
つまり、私たちを雇うプロダクションが違うのだ。
いま思えばもったいない話である。
紹介しあえば、もっと効率よく仕事を受けられていたかもしれない。
しかし、当時はそういう発想がなかった。自力でプロダクションと対峙していた。
「誰かが誰かを頼って集まった」わけではなく、各自が自立した組織だったのだ。
(大渡邸完成バーべQパーティーで大沢 佳子と)
1997年1月17日未明に起こった「阪神淡路大震災」で
神戸市東灘区の賃貸マンション1階に住んでいた私は被災した。
隣の部屋に住むカゴメ社員宅には、震災の翌日1月18日には会社をあげて
物資が届けられたが、フリーの私のもとには1週間誰からも支援はなかった。
それでも2週間後には、大渡監督が元キネィックの特命を受け、
荒野となった神戸の街に原付バイクで物資を届けてくれた。
ありがたいものである。
2008年10月1日、牧さんは肺ガンのため64歳の若さで急逝された。
その牧さんを偲び、大渡監督が幹事になって
今でも年1回酒盛りをしている。
その翌年の1887年6月、フリー監督2名とフリーカメラマン1名、
フリーVE1名の計4名が偶然ではなく、神のイタズラでもなく、
当然のごとく集まり、フリー集団「オフィス・キネティック」が誕生した。
(キネティックの名刺はオレンジと黄色の2種類)
キネティツクとは、映画の「キネ」と、
心臓のドキドキという音「ティック」の造語であるが、
もう一方で、ヨーロッパで起こった文化復興運動「キネティック運動」から
映像の新しい創造をドキドキ感で行なうフリー集団という思いから命名した。
監督の大渡 繁夫、多田 浩造、カメラマンの牧 逸郎、
ビデオエンジニア(VE)の中川 幸俊の4名で立ち上げた。
後に、大沢 佳子が牧さんに弟子入りし、5名となったが
4名は当時、業界を賑わすフリーであった。
これより先に、私がプロデュースした「OMRON研究所紹介ビデオ」で
牧カメラマンと組んだ、山崎 佑次監督率いるフリー監督集団
「サンクラフト」があるが、監督とカメラマンの混成チームは
大阪初、ひょっとすると全国初だったのかもしれない。
私と中川君は共に「映像館」を脱藩し、
私は身元引受人?だった安達 弘太郎氏の紹介で、フリー当初は、
「日本映画新社」などのフィルム記録映画の老舗に出入りを許されていた。
ビデオではなく、16mmフィルムを扱うプロダクションだったので、
作品には必ず助監督が付く。私も「日本映画新社」で
2人の監督の助監督についたが、その一人が大渡監督である。
フィルムスタッフのゆったりしたペースにカラダが馴染めず、
何よりも現像次第で、撮り直しもある状況に
「一生懸命準備し、撮影したのに、上がりが悪い?再撮?やっとれん!」
と内心は憤懣本舗であった。
一方、VEの中川君は新生ビデオプロダクションでフリーとして実績を上げ
カメラマンから指名をもらって、フリーVEとしての地位を築きつつあった。
私は中川君の紹介で、新生ビデオプロダクションでも
仕事をするようになり、大阪に事務所を持ちたかった。
収入も安定してきたので、「この際2人で事務所を持つか」と話していた矢先、
「日本映画新社」で助監督についた大渡監督から
「実はカメラマンの牧と事務所を持つ話が煮詰まっていて、
聞くところによると多田君と中川君も事務所を持つと聞いた。
よければ4人で結託しないか」
とお誘いを受けた。
大渡監督とは「大阪市政広報映画」でお世話になっていたし、
牧カメラマンとは日本維新派時代からの糸で結ばれている。
まさに大渡に船(失礼、渡りに船)と、大阪市北区豊崎に事務所を構えた。
(キネティック主催のフリーランスの旅行会で飛騨高山に!
豪華!MAPでロケバス、運転手込みでチャーターした)
事務所には各自のスケジュールを書いた白板があったが
牧さんはそれを見ては
「多田君は滅茶苦茶仕事してるなぁ…そんなんで作品になっとるんか?」
と心配しつつも、
「ワシももっと仕事せなアカンなぁ、この白板を見ると励みになる」
とギラギラした目をしていた。
1994年6月、阪神淡路大震災の前年に解散するまで
「キネティック」の一員として、フリーとして様々な仕事をした。
しかし、この4名で組んだ作品は、実は1本もない。
私と牧、大渡と牧という組合せも数えるほどしかない。
つまり、私たちを雇うプロダクションが違うのだ。
いま思えばもったいない話である。
紹介しあえば、もっと効率よく仕事を受けられていたかもしれない。
しかし、当時はそういう発想がなかった。自力でプロダクションと対峙していた。
「誰かが誰かを頼って集まった」わけではなく、各自が自立した組織だったのだ。
(大渡邸完成バーべQパーティーで大沢 佳子と)
1997年1月17日未明に起こった「阪神淡路大震災」で
神戸市東灘区の賃貸マンション1階に住んでいた私は被災した。
隣の部屋に住むカゴメ社員宅には、震災の翌日1月18日には会社をあげて
物資が届けられたが、フリーの私のもとには1週間誰からも支援はなかった。
それでも2週間後には、大渡監督が元キネィックの特命を受け、
荒野となった神戸の街に原付バイクで物資を届けてくれた。
ありがたいものである。
2008年10月1日、牧さんは肺ガンのため64歳の若さで急逝された。
その牧さんを偲び、大渡監督が幹事になって
今でも年1回酒盛りをしている。
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