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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?
 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?
 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?

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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?
 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的でおざなりな意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-21 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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2015-02-21 | Weblog
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 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的でおざなりな意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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