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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?
 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―靖国に祀られた大戦遂行責任者を尊崇すべきか?
 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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 2月17日の衆議院本会議において、安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に関する質問に対し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁した。閣僚の参拝についても「私人として参拝するかどうかは、もとより自由」とした。
これは同首相が就任後の一貫した表現であり、姿勢に変更はない。確かに「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」をお詣りし、敬意や哀悼を表することは、ほとんどの国でも行われているので、それ自体は当然であろう。
しかしそれは一般論であり、質問の趣旨は“靖国神社”という特定の神社を首相、閣僚として参拝することの是非を問うているものであり、首相の答弁は2つの意味で答弁をそらしている。
一つは、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々」への尊崇の念として一般化しているが、“靖国神社”には大東亜戦争、太平洋戦争を主導、遂行し、310万人以上の将兵や民間人の命を犠牲にした戦争遂行責任者が祀られている。そのような戦争遂行責任者まで「尊崇」するべきであろうか。先の第2次世界大戦では、南太平洋、中国などの戦地で200万人前後の将兵や軍関係者が命を落としている。そして硫黄島などを除き、唯一の本土決戦の場となった沖縄や東京大空襲、広島、長崎の原爆被害などで110万人ほどの子供や女性を含む民間人が死亡し、東京や広島市、長崎市などは焦土となり、国民は多くを失った。
靖国神社にはそのような膨大な被害をもたらした戦争遂行責任者が祀られているのである。それらを尊崇し、参拝するかが問われているのだ。
無論、個人として誰を尊崇するかは自由である。
しかし、安倍首相は、「国のリーダーとして当然」としていることから、政府の首相としての立場を述べたものであろう。確かに同首相は、‘内閣総理大臣’と明示して靖国神社を参拝し、或いは玉串料を収めている。従って同首相は、首相として多くの戦死者と共に、これらの戦争遂行責任者に「尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」ことは当然との見解を国会で表明したことになる。それを是とするか非とするかは国民の判断であろう。
靖国神社は国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者が祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されていることだ。
この東京裁判については、米、英など戦勝国が進めた裁判であり、公平性を問題視する向きも少なくない。いわゆる‘勝てば官軍、負ければ賊軍’となるのは世の常だ。もし公平に進めるのであれば、中立的な国の判事を半数以上入れるなども検討すべきであったであろう。また残虐行為や民間人の大量殺害については、日本側についても統帥権があった天皇の責任を問う声もあったところであり、また日本側だけでなく、戦時法規でも戦闘員以外は一定の保護が定められており、多数の子供を含む民間人の被害を出した広島、長崎の原爆投下についても国際裁判の対象にすべきとの意見も無いわけではない。
東京裁判は東京裁判として、310万人以上の日本人の命を奪った戦争遂行者を「尊崇」すべきなのだろうか。家族や親類、友人を失った遺族やその子孫には難しいところがあろう。それ以上に、日本人として当時のリーダーの結果責任が問われて良いのであろう。
 同首相の意識の中には、当時の戦争遂行者の結果責任は小さいのであろう。国家目的、国家利益のために大東亜戦争を進め、太平洋戦争へと進んだのであり、その方々を尊崇するということなのだろう。それは一つの考え方ではある。確かに同首相の言動からすると、東京裁判の結果を含め、「戦後レジームからの脱却」、憲法の改正、集団的自衛権行使を含む軍事行動の強化の動きと一致する。
 最近の例では、「イスラム国」に拘束されていた2人の日本人がいることを承知していながら、‘総合的に判断’の上、中東訪問を行い、エジプトにおいて、人材開発やインフラ整備とは言え、‘「イスラム国」と戦う周辺国’に2億ドルの支援を表明した。これに反発した「イスラム国」は、首相を名指しして、日本人2名の身代金として2億ドルを要求した。そして日本側の昼夜の努力にも拘らずにも、2人は次々と殺害されると共に、日本政府、国民に対し“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と宣明した。これに対し同首相はテロには屈しない姿勢を強調し、各国と連携しテロと戦う姿勢を鮮明にしている。
 「イスラム国」の残虐な行為は許せないところであるが、「イスラム国」の面前での首相の発言により、2人の日本人の命を犠牲にした上、日本国民の世界における安全を犠牲にした結果となった。
同首相は、その後もテロと闘う姿勢を鮮明にしている。これは、国家目的や国家利益のためであれば、国民の命や安全を犠牲にすることもあることを鮮明にしたものと言えよう。それが、大東亜戦争、太平洋戦争の遂行責任者を「尊崇」する姿勢に繋がっているのであろう。(2015.2.20.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?

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シリーズ平成の本音―「9増9減」の区割り案でお茶を濁すのか?
 衆議院の選挙制度見直しについて、2月9日、有識者会議(衆議院議長の諮問機関、座長佐々木元東大総長)で検討を始めた。有権者の1票の格差是正のため、現在よりも人口比を反映した新方式を検討するとされている。
 具体的には、「アダムズ方式」とかで、人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られ、‘最高平均方式’に基づき人口比を反映しつつ都道府県毎に選挙区数を割り振って行くようだ。伝えられるところによると、小選挙区数を現在の295とすると、青森、岩手、宮城、三重、滋賀、奈良、熊本、鹿児島、沖縄の9県で選挙区を1つ減とする一方、東京が3増の28選挙区、神奈川が2増の20選挙区とする他、埼玉、千葉、静岡、愛知各県でもそれぞれ1選挙区増とするようだ。佐々木座長は、この選挙区の「9減、9増」で、‘最高裁が合憲としている格差2倍以下になる’と共に、‘今後の人口変動にもある程度対応できる’としているようだ。
 何ともスケールの小さい、事務的で安易な意見ではないか。
「選挙制度見直し」ということであれば、2012年11月の党首討論で安倍自民党総裁(当時)は解散総選挙の前提として野田首相(当時)に対し「定数削減」を確約していた。従って、区割りを検討する以前に、抜本的な「定数削減」を提案すべきであろう。財源の逼迫と今後の人口減を考慮すると3割程度の削減をして置く必要があろう。
 また区割りについても、「9減、9増」程度の従来同様の最低限の小手先の調整で、最高裁が合憲ラインとしてきた格差2倍以下をぎりぎりクリアーするような案では、有権者の公平が保たれるとは言えない。有識者会議が、国権の最高機関としての立法府に代わって検討しているにも拘らず、独自性に欠け、司法の考えに従属しているようなものだ。
その司法の「格差2倍以下」との見解も、合憲か違憲かというギリギリの基準を示しているに過ぎず、健全な民主主義を構築する上で不可欠な有権者の1票の重さの平等性について、立法府としての姿勢を国民に示されなくてはならない。その姿勢が全く見られない。恐らく事務方が用意した数字を示しているに過ぎず、お粗末過ぎる。
2012年12月の選挙についても多くの違憲や違憲状態の判決が出されたが、2014年12月の衆院選挙についても、弁護士グループが、‘憲法が保障する法の下の平等に反するとして、すべての小選挙区の選挙無効を求めて全国で一斉提訴’している。今回は更に多くの違憲判決等が出される恐れがある。
 憲法は、すべての国民は「法の下に平等」であって、政治的、経済的、社会的において差別されないと規定している(14条)。民主主義のいわば原点の規定である。法の下の平等に基づけば、有権者の「1票の重さ」は基本的に1対1の関係でなくてはならない。技術上の問題があるので、1対1というわけには行かないだろうが、1対1.2か1.3以内にすることは容易であろう。「1票の重さ」を出来る限り1対1に近付ける努力が不可欠である。本来であれば、裁判所がそのような見解を示すべきであろう。
 また“人口の少ない県でも2つ以上の選挙区が割り振られる”との考え方のようだ。しかし、2040年には人口が1万人を割る自治体が523、全体の30%弱は「消滅の可能性が高い都市」になるとの調査結果もあるので、現行の都道府県ベースの選挙区割りでは、格差が解消するどころか、歪みを更に悪化させる可能性がある。だからこそ、道州制の検討が行われているのではないか。
 日本の民主主義の基礎となる1票の重みについて如何に平等性を保つか、そして人口減少を前にしてどのように公正な選挙区を決めるかという抜本的な選挙制度の見直し、議席削減が問われている。それに応えるべきであろう。(2015.2.21.)
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シリーズ平成の本音―甘い情勢認識と‘積極的平和主義’の代償  ( 後編 )

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―甘い情勢認識と‘積極的平和主義’の代償  ( 後編 )
 1月20日午後(日本時間)、“日本政府及び日本国民へ”として「イスラム国」(ISIS)からと見られるビデオメッセージがインターネット動画YouYubeに投稿され、人質としている日本人2名(湯川、後藤両氏)をひざまずかせ、“身代金2億ドルを72時間以内に支払わなければ殺害する”旨表明した。動画に映る男は、背丈や、左手にナイフを持ち、拳銃をホールダーに吊るしており、手の動きや、喋る時に首を左右にかしげる仕草、英語のなまりなどから、昨年米国人や英国人を前にして同様の通告をし、その後殺害した人物と酷似している。営利目的にせよ、政治的な目的にせよ、許し難い国際犯罪行為だ。
 この戦闘員姿の人物は、“日本の首相よ”と呼び掛け、“「イスラム国」から8500キロ以上も離れているのに、自ら進んでイスラム国に対するこの十字軍に参加した”としつつ、2人の命は2億ドルとした。更に日本国民に呼び掛け、“日本政府はイスラム国に対する戦いに2億ドルを払うという愚かな選択をした”とし、命を救うための金額を2億ドルをとした理由に言及しつつ、期限は72時間などと迫った。
 安倍首相は、1月16日から1月21日までの予定でエジプト、イスラエル、パレスチナ等の中東諸国を訪問中であった。そして1月17日、最初の訪問国エジプトの経済合同委員会において演説し、「中東全体を視野に入れ、人道支援、インフラ整備など非軍事の分野で、25億ドル相当の支援」を新たに実施することを表明すると共に、イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISIL(イスラム国)がもたらす脅威を少しでも食い止めるためとしつつ、「人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援」することを約束した。
 その2日後に、「イスラム国」側から首相に宛てた2人の日本人人質に対する上記の身代金要求と殺害予告が行われた。
 そして「イスラム国」(ISIS)側は期限までに身代金は支払わられないとの心証を得たのだろうか、1月24日、後藤氏が湯川氏の遺体と見られる写真を持つ映像をインターネット動画サイトで公開しつつ、後藤氏が英語で、身代金ではなく、ヨルダンの首都アンマンで連続ホテル自爆テロ事件に関わった‘サジダ・リシャウィ死刑囚’を釈放するようにとの「イスラム国」側の要求を伝えた。次いで1月27日午後11時頃、後藤氏が2014年12月にISの捕虜となったヨルダン軍パイロットと見られる男性の写真を手にし、“私には24時間しか残されていない”と述べ、‘リシャウィ死刑囚の釈放’を求めた。1月29日、「イスラム国」側は、リシャウィ死刑囚(ヨルダンで収監中)を29日日没(現地時間)までにトルコとIS支配地域との境界に連れてくるよう要求する声明をインターネットに公開した。しかしヨルダン政府側は、捕虜となっている同国パイロットとの交換を優先しつつ、同パイロットの安否の確認が得られない限り応じないとしていた。しかし2月1日午前5時過ぎ、「イスラム国」側は、“日本政府へのメッセージ”として、最初に登場した戦闘員と見られる男が“日本が有志連合に加担していること”を非難した後、後藤氏を殺害したとする映像をインターネットに公開した。そして男は、“日本の愚かな決定”により後藤氏は死ぬが、“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と結んだ。日本は今回の事件の対応で、2人の尊い命を失った上、世界における日本人の安全を著しく低下させる結果となった。
日本人2名の「イスラム国」側による人質事件は、大変残念ながらこうして最悪の結末となった。
 このような犯罪行為が許されて良いものではない。しかし同時に次のような課題もある。
 1、甘い国際情勢認識と危機管理意識の欠如 ( 前編で掲載 )

 2、「積極的平和主義」等の犠牲と代償             ( 前編で掲載 )

 3、国民の側の危機管理意識と自己責任             ( 前編で掲載 )

 4、余り語られないもう一方の攻撃  
 “イスラム国”の残酷、非人道的な犯罪行為を容認できない。世界のイスラム教信者は13億とも16億人とも言われているが、多くのイスラム教信者は‘公正’を尊重し、このような行為を支持はしていないと考えている。
 他方、殺戮行為は“イスラム国”やイスラム過激派だけが行っているものではない。米国を中心とする有志連合は、“イスラム国”支配地域を‘2000回以上空爆した’としており、空爆により多くの一般市民を殺傷し、各種の非軍事施設を破壊したと見られている。しかしその詳細はほとんど報道されておらず、知られていない。
 “イスラム国”圏外においても、アルカイーダ・グループなどの米国を中心とする‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は行われている。2001年の米国での9.11同時多発テロ以降、主としてアフガニスタン、パキスタン北部、イラク、イエメンなど、イスラム過激派への攻撃は続けられて来た。
 その詳細は余り伝えられていないが、多くの子供を含む民間人が巻き込まれ、殺害されている。米、英の民間組織が情報を集め、公表している。
 ロンドンのジャーナリズム検証事務局(BIJ)によると、2015年1月現在、米国の無人飛行機による爆撃は413回、死者は2,438から 3,942人、その内民間人の死者は416から959人で、168から204人の子供が含まれるとしている。
 アフガニスタンでは、米国の無人飛行機による爆撃は2002年以降1000 回以上行われており、民間人も巻き添えになっていたため、当時のカルザイ大統領は懸念を表明した。最近でも、2014年6月にパキスタン北部を無人飛行機が2度に亘り爆撃し、モスレム戦闘員とされる少なくても16人が死亡したとされるが、いずれも詳細は明らかにされていない。
 またイエメンでは、2014年11月、米国の無人飛行機による爆撃により、シャブワ州の訓練サイトとされる場所より戻っていたトラックが破壊され、アルカイダ戦闘員と疑われる10人と3人の労働者が殺害され、他2名が負傷したとされる。イエメンには、アルカイダ・アラビア半島グループ(AQAP)が存在し、戦闘員訓練センターがあるとされるが、トラックの乗員を確認し、民間人の被害を避けることが困難など問題が指摘されている。
 このように米国を中心とする多国籍軍や有志連合によるイスラム過激派に対する攻撃は各地で行われており、民間人や子供が巻き込まれて多くの死傷者が出ていることも事実であり、イスラム過激派にも言い分があるのであろう。またアフガニスタンなどで捕らえられたアルカイーダ分子などが、キューバにある米国のグアンタナモ刑務所に収容され、取り調べを受けていたが、その間各種の屈辱行為が行われたと報道されており、これに対する批判等があっても仕方がない。テロ行為を容認する気は毛頭ないが、過激派によるテロ行為や暴力は許さないが、欧米等による空爆や無人機爆撃により民間人、子供を巻き込んで殺傷するは容認するということであれば、心情論は別として、フェアーさを欠く。空爆等による被害内容の詳細はほとんど伝えられていない。ジャーナリズムを含め、物事を見る時は、或いは物事を解決しようとする場合は、双方の状況を見極めないと公正な見方や解決策とはなり難い。
 中東の情勢は、歴史的にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という3つの宗教と部族集団が絡み、そしてフランス、イギリスの植民地支配を経て今日に至っており、複雑な歴史的背景がある。また一方で石油という戦略物資が存在し、他方で長期化するイスラエル、パレスチナ間の中東紛争を抱えており、経済的にも政治的にも国際情勢に全体に大きな影響を与えている地域である。
従って「イスラム国」の問題は、第一義的には周辺のイスラム教諸国の問題であろう。これら諸国のイスラム教最高指導者レベルが会合し、イスラム教はこのような残虐なテロ行為や暴力を容認しないことを表明すれば、世界のイスラム教への誤解をとけるだろう。
 このような中で、米国は2001年9月の同時多発テロの後、アフガニスタンのタリバンとその庇護下にあったアルカイーダに対するいわゆる‘テロとの戦争’を開始した。また化学兵器など大量破壊兵器を保持しているとの情報に基づき(その後この情報は誤情報と判明)、サダムフセイン政権下のイラクに侵攻したが、米、英両国を中心とする多国籍軍の10年以上の軍事行動や支援にも拘らず、アフガニスタンについてもイラクについても樹立された政権が未だに全土を掌握出来る状況にない。更にイラクについては、シーア派(多数派)を中心とする政権を樹立させたものの、処刑されたサダムフセイン大統領の出身母体であるスンニ派(少数派)の支配地域(バクダッド以北)からシリア北部に掛けて「イスラム国」の出現を許している。
 また当初から恐れていた通り、アルカイーダなどのイスラム過激派は、イエメンやアフリカ中央部等に拡散している。またチュニジアからエジプトに掛けての‘アラブの春’と言われた民主化の波も、リビア、エジプトなどではイスラム過激派が浸透しており、安定していない。
 このようにイスラム過激派は中東、アフリカを中心として世界に拡散し、ボーダーレスの脅威となっている。また欧米諸国には第2世代の過激派や共鳴者も出現しており、米国、英国、フランスなどでテロ行為が行われている。
 2001年末から開始された‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は、14年間継続され、アフガンとイラクに政権を樹立したものの、過激派テロ集団は押さえ込みに成功はしておらず、逆に世界各地に拡散、拡大しているのが現実だろう。
 一定の軍事行動による抑止と制圧は必要ではあるが、これまでのような軍事力と武力による制圧だけで良いのであろうか。アフガニスタンとイラクだけでも10年以上の月日を費やし、未だに先が見えないのに、更に「イスラム国」壊滅に向けて戦争を継続するのだろうか。テロ分子は世界各地に拡散しており、これから何年、何十年このような武力と暴力の連鎖を続けることになるのだろうか。
 「イスラム国」の問題は、まず周辺のイスラム教諸国の問題だ。中東情勢は、歴史的、宗教的、政治的に複雑で、周辺諸国を除けば、英、仏など旧植民地国、及びイスラエル、パレスチナ問題と石油資本に深く関わってきた米国等がより良く知っているだろう。従ってこれら欧米諸国と周辺イスラム教諸国と協議して、今後の対応を進めることが望まれる。
 日本は、石油をこの地域に依存してはいるが、歴史的に中東に足を踏み入れたことは無く、また人口の70%以上がブッダ教関係であり、神道を含めると宗教的にもイスラム教諸国との接点は少ない。しかし人道支援や難民支援を行うのは良いが、今回の事件の対応の仕方で、日本は欧米諸国を中心とする反「イスラム国」‘十字軍’に加担している国とのラベルを貼られてしまった。この地域での石油関連ビジネスもこれまで以上に危険にさらされることになるので、石油の確保、エネルギーの安全保障にも反するマイナスとなった。
国連の動きも鈍い。安保理は「イスラム国」の残虐な行為を非難したが、事務総長は仲介努力をしようともしていない。シリアのアサド大統領政府と反政府グループとの仲介も中途半端で放棄し、その後も難民問題を含め注目すべき動きはない。関係国に任せており、機能不全のようにも見える。国連事務総長の役割が課題となろう。
 いずれにしても米国により始められた‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は、一定の効果はあり、心情的には成功を祈りたいが、国際テロの根絶どころか縮小にも成功していない。これまでの軍事力や武力に頼る政策から、イスラム教諸国との対話や協議を通じ一層の信頼醸成を図ると共に、法に基づく公正な対応も考えて行くべきではなかろうか。
(2015.2.1.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―甘い情勢認識と‘積極的平和主義’の代償  ( 後編 )

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―甘い情勢認識と‘積極的平和主義’の代償  ( 後編 )
 1月20日午後(日本時間)、“日本政府及び日本国民へ”として「イスラム国」(ISIS)からと見られるビデオメッセージがインターネット動画YouYubeに投稿され、人質としている日本人2名(湯川、後藤両氏)をひざまずかせ、“身代金2億ドルを72時間以内に支払わなければ殺害する”旨表明した。動画に映る男は、背丈や、左手にナイフを持ち、拳銃をホールダーに吊るしており、手の動きや、喋る時に首を左右にかしげる仕草、英語のなまりなどから、昨年米国人や英国人を前にして同様の通告をし、その後殺害した人物と酷似している。営利目的にせよ、政治的な目的にせよ、許し難い国際犯罪行為だ。
 この戦闘員姿の人物は、“日本の首相よ”と呼び掛け、“「イスラム国」から8500キロ以上も離れているのに、自ら進んでイスラム国に対するこの十字軍に参加した”としつつ、2人の命は2億ドルとした。更に日本国民に呼び掛け、“日本政府はイスラム国に対する戦いに2億ドルを払うという愚かな選択をした”とし、命を救うための金額を2億ドルをとした理由に言及しつつ、期限は72時間などと迫った。
 安倍首相は、1月16日から1月21日までの予定でエジプト、イスラエル、パレスチナ等の中東諸国を訪問中であった。そして1月17日、最初の訪問国エジプトの経済合同委員会において演説し、「中東全体を視野に入れ、人道支援、インフラ整備など非軍事の分野で、25億ドル相当の支援」を新たに実施することを表明すると共に、イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISIL(イスラム国)がもたらす脅威を少しでも食い止めるためとしつつ、「人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援」することを約束した。
 その2日後に、「イスラム国」側から首相に宛てた2人の日本人人質に対する上記の身代金要求と殺害予告が行われた。
 そして「イスラム国」(ISIS)側は期限までに身代金は支払わられないとの心証を得たのだろうか、1月24日、後藤氏が湯川氏の遺体と見られる写真を持つ映像をインターネット動画サイトで公開しつつ、後藤氏が英語で、身代金ではなく、ヨルダンの首都アンマンで連続ホテル自爆テロ事件に関わった‘サジダ・リシャウィ死刑囚’を釈放するようにとの「イスラム国」側の要求を伝えた。次いで1月27日午後11時頃、後藤氏が2014年12月にISの捕虜となったヨルダン軍パイロットと見られる男性の写真を手にし、“私には24時間しか残されていない”と述べ、‘リシャウィ死刑囚の釈放’を求めた。1月29日、「イスラム国」側は、リシャウィ死刑囚(ヨルダンで収監中)を29日日没(現地時間)までにトルコとIS支配地域との境界に連れてくるよう要求する声明をインターネットに公開した。しかしヨルダン政府側は、捕虜となっている同国パイロットとの交換を優先しつつ、同パイロットの安否の確認が得られない限り応じないとしていた。しかし2月1日午前5時過ぎ、「イスラム国」側は、“日本政府へのメッセージ”として、最初に登場した戦闘員と見られる男が“日本が有志連合に加担していること”を非難した後、後藤氏を殺害したとする映像をインターネットに公開した。そして男は、“日本の愚かな決定”により後藤氏は死ぬが、“今後日本の国民は何処にいても殺戮されるだろう”と結んだ。日本は今回の事件の対応で、2人の尊い命を失った上、世界における日本人の安全を著しく低下させる結果となった。
日本人2名の「イスラム国」側による人質事件は、大変残念ながらこうして最悪の結末となった。
 このような犯罪行為が許されて良いものではない。しかし同時に次のような課題もある。
 1、甘い国際情勢認識と危機管理意識の欠如 ( 前編で掲載 )

 2、「積極的平和主義」等の犠牲と代償             ( 前編で掲載 )

 3、国民の側の危機管理意識と自己責任             ( 前編で掲載 )

 4、余り語られないもう一方の攻撃  
 “イスラム国”の残酷、非人道的な犯罪行為を容認できない。世界のイスラム教信者は13億とも16億人とも言われているが、多くのイスラム教信者は‘公正’を尊重し、このような行為を支持はしていないと考えている。
 他方、殺戮行為は“イスラム国”やイスラム過激派だけが行っているものではない。米国を中心とする有志連合は、“イスラム国”支配地域を‘2000回以上空爆した’としており、空爆により多くの一般市民を殺傷し、各種の非軍事施設を破壊したと見られている。しかしその詳細はほとんど報道されておらず、知られていない。
 “イスラム国”圏外においても、アルカイーダ・グループなどの米国を中心とする‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は行われている。2001年の米国での9.11同時多発テロ以降、主としてアフガニスタン、パキスタン北部、イラク、イエメンなど、イスラム過激派への攻撃は続けられて来た。
 その詳細は余り伝えられていないが、多くの子供を含む民間人が巻き込まれ、殺害されている。米、英の民間組織が情報を集め、公表している。
 ロンドンのジャーナリズム検証事務局(BIJ)によると、2015年1月現在、米国の無人飛行機による爆撃は413回、死者は2,438から 3,942人、その内民間人の死者は416から959人で、168から204人の子供が含まれるとしている。
 アフガニスタンでは、米国の無人飛行機による爆撃は2002年以降1000 回以上行われており、民間人も巻き添えになっていたため、当時のカルザイ大統領は懸念を表明した。最近でも、2014年6月にパキスタン北部を無人飛行機が2度に亘り爆撃し、モスレム戦闘員とされる少なくても16人が死亡したとされるが、いずれも詳細は明らかにされていない。
 またイエメンでは、2014年11月、米国の無人飛行機による爆撃により、シャブワ州の訓練サイトとされる場所より戻っていたトラックが破壊され、アルカイダ戦闘員と疑われる10人と3人の労働者が殺害され、他2名が負傷したとされる。イエメンには、アルカイダ・アラビア半島グループ(AQAP)が存在し、戦闘員訓練センターがあるとされるが、トラックの乗員を確認し、民間人の被害を避けることが困難など問題が指摘されている。
 このように米国を中心とする多国籍軍や有志連合によるイスラム過激派に対する攻撃は各地で行われており、民間人や子供が巻き込まれて多くの死傷者が出ていることも事実であり、イスラム過激派にも言い分があるのであろう。またアフガニスタンなどで捕らえられたアルカイーダ分子などが、キューバにある米国のグアンタナモ刑務所に収容され、取り調べを受けていたが、その間各種の屈辱行為が行われたと報道されており、これに対する批判等があっても仕方がない。テロ行為を容認する気は毛頭ないが、過激派によるテロ行為や暴力は許さないが、欧米等による空爆や無人機爆撃により民間人、子供を巻き込んで殺傷するは容認するということであれば、心情論は別として、フェアーさを欠く。空爆等による被害内容の詳細はほとんど伝えられていない。ジャーナリズムを含め、物事を見る時は、或いは物事を解決しようとする場合は、双方の状況を見極めないと公正な見方や解決策とはなり難い。
 中東の情勢は、歴史的にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という3つの宗教と部族集団が絡み、そしてフランス、イギリスの植民地支配を経て今日に至っており、複雑な歴史的背景がある。また一方で石油という戦略物資が存在し、他方で長期化するイスラエル、パレスチナ間の中東紛争を抱えており、経済的にも政治的にも国際情勢に全体に大きな影響を与えている地域である。
従って「イスラム国」の問題は、第一義的には周辺のイスラム教諸国の問題であろう。これら諸国のイスラム教最高指導者レベルが会合し、イスラム教はこのような残虐なテロ行為や暴力を容認しないことを表明すれば、世界のイスラム教への誤解をとけるだろう。
 このような中で、米国は2001年9月の同時多発テロの後、アフガニスタンのタリバンとその庇護下にあったアルカイーダに対するいわゆる‘テロとの戦争’を開始した。また化学兵器など大量破壊兵器を保持しているとの情報に基づき(その後この情報は誤情報と判明)、サダムフセイン政権下のイラクに侵攻したが、米、英両国を中心とする多国籍軍の10年以上の軍事行動や支援にも拘らず、アフガニスタンについてもイラクについても樹立された政権が未だに全土を掌握出来る状況にない。更にイラクについては、シーア派(多数派)を中心とする政権を樹立させたものの、処刑されたサダムフセイン大統領の出身母体であるスンニ派(少数派)の支配地域(バクダッド以北)からシリア北部に掛けて「イスラム国」の出現を許している。
 また当初から恐れていた通り、アルカイーダなどのイスラム過激派は、イエメンやアフリカ中央部等に拡散している。またチュニジアからエジプトに掛けての‘アラブの春’と言われた民主化の波も、リビア、エジプトなどではイスラム過激派が浸透しており、安定していない。
 このようにイスラム過激派は中東、アフリカを中心として世界に拡散し、ボーダーレスの脅威となっている。また欧米諸国には第2世代の過激派や共鳴者も出現しており、米国、英国、フランスなどでテロ行為が行われている。
 2001年末から開始された‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は、14年間継続され、アフガンとイラクに政権を樹立したものの、過激派テロ集団は押さえ込みに成功はしておらず、逆に世界各地に拡散、拡大しているのが現実だろう。
 一定の軍事行動による抑止と制圧は必要ではあるが、これまでのような軍事力と武力による制圧だけで良いのであろうか。アフガニスタンとイラクだけでも10年以上の月日を費やし、未だに先が見えないのに、更に「イスラム国」壊滅に向けて戦争を継続するのだろうか。テロ分子は世界各地に拡散しており、これから何年、何十年このような武力と暴力の連鎖を続けることになるのだろうか。
 「イスラム国」の問題は、まず周辺のイスラム教諸国の問題だ。中東情勢は、歴史的、宗教的、政治的に複雑で、周辺諸国を除けば、英、仏など旧植民地国、及びイスラエル、パレスチナ問題と石油資本に深く関わってきた米国等がより良く知っているだろう。従ってこれら欧米諸国と周辺イスラム教諸国と協議して、今後の対応を進めることが望まれる。
 日本は、石油をこの地域に依存してはいるが、歴史的に中東に足を踏み入れたことは無く、また人口の70%以上がブッダ教関係であり、神道を含めると宗教的にもイスラム教諸国との接点は少ない。しかし人道支援や難民支援を行うのは良いが、今回の事件の対応の仕方で、日本は欧米諸国を中心とする反「イスラム国」‘十字軍’に加担している国とのラベルを貼られてしまった。この地域での石油関連ビジネスもこれまで以上に危険にさらされることになるので、石油の確保、エネルギーの安全保障にも反するマイナスとなった。
国連の動きも鈍い。安保理は「イスラム国」の残虐な行為を非難したが、事務総長は仲介努力をしようともしていない。シリアのアサド大統領政府と反政府グループとの仲介も中途半端で放棄し、その後も難民問題を含め注目すべき動きはない。関係国に任せており、機能不全のようにも見える。国連事務総長の役割が課題となろう。
 いずれにしても米国により始められた‘国際テロとの戦争(War against Terror)’は、一定の効果はあり、心情的には成功を祈りたいが、国際テロの根絶どころか縮小にも成功していない。これまでの軍事力や武力に頼る政策から、イスラム教諸国との対話や協議を通じ一層の信頼醸成を図ると共に、法に基づく公正な対応も考えて行くべきではなかろうか。
(2015.2.1.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―しぼむ経済回復

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―しぼむ経済回復
 1月12日、政府(総務省)は2014年度の国内総生産(GDP)の成長率を実質マイナス0.5 %となるとの見通しを公表した。2013年7月での政府見通しは、実質1.2%のプラス成長であったので、実質1.7%の落ち込みとなり、見通しの甘さが露呈した形だ。
 政権側は、昨年4-6月期は、4月からの消費増税により消費は落ち込むが、7-9月期は賃金引き上げ等により消費は回復するとしていただけに、言行不一致は甚だしい。その上で政権側は、回復の効果を‘全国つずうらうらまで届ける’などとしているが、‘回復の効果’は輸出産業や観光産業などを中心とする局部的なもので、都市においても地方においても実質的な成果は感じられず、消費は非常に慎重であることが数値で明らかになった。
 国民全体としては、景気が回復し、生活が楽になったという実感に乏しいのが実態のようだ。数値上も、名目成長率が1.7%であるので、実質成長率との差の2.2%が物価デフレータであり、名目成長率以上に物価上昇が激しいことを示している。アベノミクスの金融政策は、インフレ目標2%として大量の通貨を市場に供給することであり、それにより株価は上昇し、円安となり、物価も上昇することを意図している。現実は、軒並み物価が上がり、給与アップは極く局部的、限定的となっているので、全体とすると生活は苦しくなり、1円でも安いものを求める空気が強くなっている。物価上昇は、公表されている物以上に、量やサイズが小さくなっており、実質的に政府公認の便乗値上げとも言うべき軒並みの物価上昇となっている。
 しかも円安にしろ株高にしろ、結局は米国の景気頼みであり、日本の内需が景気を牽引しているものではない。株が上がっても、恩恵を受けているのは6割以上を占める外国人投資家と機関投資家であり、個人投資家はごく少数の上、バブル期に大損をしている人が多いので、証券会社や株式自体に対する不信感は根強い。
 しかし年令を問わず多くの国民の将来不安の根源は、年金を中心とする社会保障への不信感にある。戦後自民党政権の下で′100年安心’と銘打って作られた年金制度、特に国民年金は、バブル経済崩壊、資産デフレ期に各種の贅沢な施設などに流用され食い潰された形となり、年金財源の不足から給付年齢の引き上げや給付額の引き下げが行われるなどに加え、膨大な消えた年金問題が表面化し、そのずさんで無責任な運営振りが明らかになっている。更に、介護保険料が漸増し、国民年金給付額より天引きされるなど、年金の信頼度は低下の一方だ。
 生活保護受給者が216万人、160万世帯を超え、65歳以上の高齢者世帯が全体の47%以上も占めている。65才以上といえば年金受給対象者であり、夫婦共に年金受給対象者であっても、年金では生活出来ないということを示している。そのような年金に加入する意味もないので、国民年金加入者は減少する一方だ。だから若い世代も、将来不安から、消費を抑える傾向にある。
 65才以上の年金受給対象者は、原則として生活保護を停止し、年金一本に切り替えるべきであろう。双方を受給するというのは2重の保護、過保護に当たり、政府、行政自体が、年金の意味を否定するようなものだ。
 年金への信頼性が回復しない限り、多くの国民の将来不安は解消しないであろう。そこを理解し、年金への信頼性を回復するよう措置しない限り、多少の給与増があっても貯蓄が優先され、本格的な消費増にはなかなか繋がらないであろう。年金の信頼性を失わせたのは政権与党であるので、年金関係業務の人件費を含む管理費を抜本的に節減すると共に、行政全体について人件費の削減や公務員住宅・議員宿舎や国有財産の処分を含め、管理費を節減し、社会保障分野に振り向けるなどの、予算資源の再配分が必要になっていると言えよう。  
消費増税を重ね、国民に負担を強いるだけでは問題は解決しない。そもそも年金制度が破綻し、財政が膨大な公的債務で破綻状態になっていれば、まず抜本的なコスト削減を行うことが常識だ。地方を含め、歳出分野の抜本的な節減による予算資源の再配分を行うことが不可欠になっている。(2015.1.15.)(All Rights Reserved.)
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シリーズ平成の本音―警察車両による追尾事故を防げ!

2015-02-22 | Weblog
シリーズ平成の本音―警察車両による追尾事故を防げ!
 12月20日午前9時過ぎ、東京都葛飾区西新小岩で、パトカーが追跡していた乗用車に女性がはねられ、病院に搬送されたが死亡した。運転していた男は逮捕されたが、警察車両の追尾活動でまた尊い命が失われた。所轄の警視庁葛飾署は‘追尾は適正だった’としている。
 この種の警察車両の追尾中の人身事故は、毎年のように全国で繰り返されている。
 2012年11月3日にも、午前1時前後に東京港臨海道路を走行していたオートバイが覆面の警察車両に追尾され、30代の運転者(男性)が死亡した。管轄の警察署は、オートバイが時速40kmオーバーのスピードで走行し、覆面警察車を追い越したので警告灯を付けサイレンを鳴らし追尾したもので、「追尾方法は適正であった」と説明している。
 警察車両による追尾による重大な死傷事故が全国各地で発生する度に、警察当局は一様に「追尾方法は適正であった」旨説明して来ている。
 しかし結果として重大な死傷事故を起こしておいて「追尾は適正であった」とする姿勢には、強い違和感を覚える。尊い人の命を奪っておいて「適正」とは何事だろうか。警察車両による追尾事故は、そのほとんどが夜間から深夜の人通りが途絶えた頃や道路で起こっているが、今回は通勤、通学の時間帯の午前中に起こっている。その他の自動車や通行人を巻き込んだ死傷事故も発生しやすい。
もとよりスピード違反や信号無視などは行ってはならない。ましてや飲酒運転などは行ってはならないので、運転者側の注意も促したい。だがスピード違反や信号無視などの交通違反で、人の命まで奪うことは行き過ぎであり、違反行為に比して警察権限の行使による事実上の罰が余りにも重過ぎる。人命軽視の取り締まり、警察行政、権限の乱用とも言える。業務上人の生命を守るという意識がもっとあって良い。人を守るための交通規則ではないか。規則が人命に優先するものではない。警察も国民の生命、財産を守るためにあるのではないか。その本旨を見失って、規則を守らせ、違反を取り締まるために国民の命を奪ってどうするのか。
警察当局にも、暗黙のノルマのようなものがあると言われている。月始めや月末に、警察官や白バイが物陰に潜んで一時停止や信号無視、右折禁止,Uターン禁止などを最近一般車両が事故を取り締まっている模様を見かけることが多い。同じ場所で行っている。違反を摘発し易いスッポトのようだ。重箱の隅をほじくるような取締を見掛けると、警察官が多過ぎて余程暇なのかと思わせる。そうかと思ったら、千葉県警で、交通死亡事故数を過小に報告していたことが指摘されている。交通事故死が全国でも多いことから、過小に報告していたとも言われている。やはり原点に戻って、国民の生命と財産を守り、国民が安全に生活出来るようにする大切な任務をしているとの意識がもっと欲しいものだ。そうでなければ国民の信頼は得られないだろう。
他方、最近事故を起こした場合、業務上の過失責任等が厳しく罰せられるようになった。警察権限の行使、取り締まりとは言え、もしこのような人命軽視の取り締まり等が続き、改善が見られない場合には、重大な死傷事件を招いた追尾事案については、事の重大性と一般車両の過失責任の厳正化との公平性を保つため、担当官の報告だけで判断するのではなく、少なくても第三者的機関による厳正な調査が行われることが望ましい。(2014.12.21.)
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