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‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)

2020-08-15 | Weblog
シリーズ平成の本音―‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)
 2019年4月30日に平成天皇が退位、5月1日の新天皇が即位され、同年10月22日に新天皇の即位を内外に表明する「即位の礼」が実施される。
 新天皇のご即位をお祝いする。しかし戦後の新憲法の下でのあり方には違和感もある。即位の礼についても、詳細は明らかにされていないが、式典に使用される「高御座(たかみくら)」が保管されている京都御所で解体させたうえ東京に輸送された。それだけに掛かる費用が、総重量8トンの解体・輸送経費などで9億円と言われているが、平成天皇同様、新天皇の即位の礼が東京で行われ、江戸城址内にある‘皇居’に住まわれ続けるのであろうか。
 即位の礼は、伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっているのではないだろうか。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきであり、その理由は次の通りである。
 1、歴史上最も平安な現在、天皇が江戸城址に留まる必要はなくなった
 明治維新となり天皇は京都御所から江戸城内に移り住んだが、上記の通り、明治維新直後や戦後直後と異なり、今日国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に陣取っている必要はなくなっていると言えよう。「帝国憲法」が廃止され新憲法となった居る今日でも、江戸城址内に宮内庁が占拠しているのも適切でない。
 新天皇は、歴史に則って京都御所に復帰することが望ましい。天皇が国民統合の象徴であることは認識されているので、京都におられても問題はない。それ以上に関西及び西日本の人々にとっては喜ばしく、誇りにもなることであろう。無論、京都御所には必要な改修等を行った上である。
 天皇のご公務については、憲法上国事行為として10項目掲載されているが、必要な時には東京等、必要な場所に赴くことは交通事情が飛躍的に向上している今日では問題ない。また東京に滞在し、或いは一定の期日東京での公務が必要な時は、赤坂の迎賓館(赤坂離宮)を所定の改築をし、そこで執務、宿泊されればよい。現在赤坂の迎賓館は、年数回しか使用されておらず、著しい無駄になっており、その活用を真剣に考える時期であろう。日本は、少子超高齢化の本格化を迎え、税負担人口が減少する一方、国民総所得の2倍に当たる1,000兆円を超える公的債務を抱え、これが年金支給額の実質削減と並んで国民の将来不安の大きな原因になっている。国家や地方公共団地が無駄な施設や土地を抱えている余裕はなく、無駄を無くしていくことが不可欠になっている。

 2、旧帝国憲法の下での’皇居’の存在は現行憲法の下では時代錯誤
 戦後日本においては、旧帝国憲法に代わり、新憲法が制定され、主権は国民にあり、いわば大政は国民に奉還されているので、国民の偉大な歴史的、文化的遺産である江戸城跡に‘皇居’を置いておく必要性はもはやなく、江戸城址を国民に奉
 3、日本や世界にとっての偉大な歴史遺産、江戸城址は国民に開放すべき
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、参勤交代により地方の文化も持ち込まれ還することが望ましい。それ以上に明治維新は過去のものとなり、天皇専制は終わり新憲法になっても江戸城址を‘皇居’により封じ込めて置くことは不適当とも言える。‘皇居’、‘皇居’と言われ、そのような先入観があるようだが、江戸城址なのである。
 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。
、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎、相撲そして魚市場など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
 その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史、文化遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、人々に開放し、可能な範囲で復元、保存して行くことが望まれる。江戸城址は世界有数の観光資源となるであろう。またそれに関連する城外の江戸時代の遺跡を加えると更に豊かな歴史文化遺産となろう。

 4、首都圏直下地震等の大規模災害等に備え、天皇の京都御所復帰が望ましい
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、上記1.の通りであり、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
 江戸城址が開放されれば、国民の憩いの場、歴史研究の場や格好の観光スポットとして活用できる以上に、大規模災害時の都民の避難場所となると共に、緊急時総合対策センターとして活用できるように整備して置けば、都心の360度対応可能な緊急センターとして活用も出来る。
東京への一極集中を是正し、地方都市の活性化を図るため、従来型の地方への助成金などでは限界的な効果しか期待できず、もっと抜本的なシステムの転換を図らなければ達成できないことは明らかだ。戦後の歴代政権の施策では地方の活性化を実現出来なかったばかりか、逆に東京への集中を招き、地方の人口減や限界集落の増加が加速していることからも明がだ。抜本的な転換が望まれる。(2019.5.1.改定、同7.4.補足)(Copy Rights Reserved.)
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『東京一極集中解消』2020年目標を安倍政権断念!-再掲

2020-08-15 | Weblog
シリーズ本音トークー『東京一極集中解消』2020年目標を安倍政権断念!-再掲
安倍政権は、『東京一極集中解消』を2020年までに達成することを断念し、改定案を検討することとしたことが分かった。
同政権は、政権が発足して2年目の2014年に、人口減少対策として「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を閣議決定し、『東京一極集中』を2020年までに是正する計画であった。しかしその後2018年になっても東京への大幅な転入超過が続き、2020年までの目標達成が困難な見通しとなり、5年目にして目標達成を断念する旨を明らかにしている。
政府・自民党は、「地方創生」を政権の目玉の一つとし、7月の参議院選挙に向けても「地方創生」を目玉の一つにしているが、『東京一極集中解消』が安倍政権の下で前進どころか、大幅な転入超過の後退となっているのが現実だ。掛け声ばかりで、逆に一極集中激化となっているので、「地方創生」自体も結果を出せず、空疎な掛け声だけで終わることが懸念される。
 1、『一極集中』を呼び込んでいるのは政府
 『東京一極集中』を呼び込み、地方の人口流出、過疎化を加速させたのは1990年代以降の政府である。1990年代初期に日本の人口減が予測され、実際に農村に嫁が来ず、後継ぎまで少なくなり、アジア途上国からの嫁取りや技能研修制度の名の下で事実上の低賃金外国人労働者の受け入れなどで凌いできた。だから地方の停滞はその頃から予測され、始まっていたことだ。中央政府は、都市機能の分散などを打ち出してはいたが、アリバイ造り程度のちまちました対応で、効果的な対策を取って来なかった。
 現自・公政権においても、「地方創生」を標榜して来ているが、その中身は、地方への選択的交付金、補助金等の交付が主であり、地方が中央政府に従属する形を固定化、強化する結果となっており、地方自治も地方の自主性も発揮される状況にはない。規制緩和の唯一の施策として提唱された「戦略特区制度」も、加計学園問題で明らかになった通り、政権との特殊な関係や忖度で進められ、その他に目に見える成果はない。そもそもこの「戦略特区制度」は、全般的な規制を前提として、地域を選別して規制を緩和するということであり、一見緩和と見えるが、全般的な規制に地域的な規制を加えることに等しく、規制の屋上屋でしかなく、地方振興にはほとんど効果はない。規制制度の複雑化でしかない。
 更に政府は、東京都を支援する形でオリンピック2020を推進し、膨大な費用を掛けて国立競技場の建設はじめ、各種のスポーツ施設を整備し、道路・鉄道などの交通網を整備しており、これにより東京には多くのスポーツ施設が集中し、長期にわたりスポーツのメッカとなると共に、それ等施設を利用した各種イベントも更に集中することになろう。
 これまでのような細々とした改善、施策の積み重ねは、努力は評価するが、効果は出ない。グランド・プランが不可欠のようだ。

 2、‘皇居’を‘京都御所’に戻すことが一極集中解消の切り札となる!
 天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっている。逆に江戸城にふたをし、歴史を封じ込める結果ともなる。宮内庁が未だに江戸城址内にあるのも歴史に反する。
新天皇の即位の礼は、平安朝以降の伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきではないだろうか。
 そうすれば京都に伝統的ないぶきが「入り、京都、滋賀、大阪、兵庫などを中心として関西は活気付くであろう。 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。
 そのためには伊丹空港からの輸送手段の抜本的な改善はじめ、伝統を尊重したインフラ造りなどは必要となろう。

 3、首都圏直下地震対策としても‘皇居’を京都御所’へ
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
政府は首都圏直下地震等の大規模災害への対策が必要とし、国民に注意喚起をする形になっているが、抜本的な対策からは程遠い。(2019.6.18.)
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靖国参拝はどこの国でもあることなのか!?(改定版)

2020-08-15 | Weblog
 靖国参拝はどこの国でもあることなのか!?(改定版)
 2013年8月15日、第2次安倍内閣が発足した年の終戦の日に、総務大臣と国家公安委員長・拉致担当相、及び行革担当相がそれぞれ閣僚として靖国神社を参拝し、安倍首相が党総裁補佐官を名代として総裁名で玉串料を収めた。また自民党、次世代の党など保守派議員や小泉進次郎復興担当政務官などが参拝した。
 これに対し、官房長官は記者会見での質問において、“国のために命を失った方々に尊崇の念をもって参拝するのである”としつつ、“これはどこの国でも行っていること”として肯定した。
一面その通りだ。信条、宗教の自由があるので、個人の自由であり、この点は中国、韓国も理解し、尊重して欲しいところである。
 しかし、“これはどこの国でも行っていること”ではない。靖国神社は2つの面で日本独特の特殊な神社であり、それを理解しないと靖国参拝問題を理解したことにはならない。
 それから6年後の2019年8月15日、安倍首相は稲田党総裁特別補佐を名代として玉串料を収めた。超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長 尾辻秀久元参院副議長)の約50人(主に自民党と維新の会など)が集団で参拝した。また小泉進次郎議員などが個別に参拝した。
 稲田党総裁特別補佐によると、首相の玉ぐし料は私費で、個人名でなされたとし、『わが国の平和と繁栄が、祖国のために命を捧げた英霊のおかげであるとの感謝と敬意を表する』との言葉を預かったと伝えられている。
 日本人の多くも、日本のために戦い命を落とした人たちの冥福を祈る気持ちには変りがないのだろう。しかし靖国神社には、戦争で命を落とした人達だけでなく、大東亜戦争を経て太平洋戦争を主導、遂行した軍、政府の責任者が祀られており、この人達に対し『感謝と敬意』を表すとは一体何なのであろうか。
 1、靖国神社による“A級戦犯の合祀”の意味するもの
 日本のメデイアでも、首相、閣僚の靖国神社参拝は中韓両国との外交関係への影響として報道されることが多いが、この問題は、第二次世界大戦で沖縄が本土決戦地となり、広島、長崎が原爆投下被害に遭った他、東京ほか主要都市が集中的な空爆被害に遭い、南太平洋に展開されていた軍人の他、一般民間人を含め約310万人もの日本人が犠牲となり、都市が焦土と化すなど、甚大な被害を与えたことを考えると、日本自体の問題として考える必要がある。
 靖国神社は軍人、国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として明治時代に建立されたもので、軍関係者のための特殊な神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人も祀られている。しかし特殊であるのは、戦後に戦勝国の連合国が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われたが、最も重いA級戦犯と判決された政府及び軍の指導者が、他の一般戦没者と共に1978年10月に靖国神社に合祀されたことにある。A級戦犯として東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人が死刑判決を受け、これら7名ほか戦争遂行責任者が靖国神社に合祀されている。
 日本人の多くも、日本のために戦い命を落とした人たちの冥福を祈る気持ちには変りがないのだろう。しかし靖国神社には、戦争で命を落とした人達だけでなく、大東亜戦争を経て太平洋戦争を主導、遂行した軍、政府の責任者が祀られており、この人達に対し“感謝の気持ちと尊崇の念”や『感謝と敬意』を表すとは一体何なのであろうか。

 2、戦争遂行責任を曖昧にしたままでは歴史認識は定まらない
 極東国際軍事裁判の公平性については疑問視する者も少なくないが、多くの国民は、300万人を越える人命と多数の都市に甚大な損害を与えた政府、軍関係者の結果責任は重大であり、そのような責任者までに『感謝と敬意』を表明することに強い違和感を持ち不条理を感じるであろう。
第二次世界大戦で軍人だけでなく、多くの民間人を含め日本人が310万人ほど命を失っている。少なくてもこの戦争を主導し、310万人もの日本人を失わせた結果責任は政府、軍責任者にあり、また統帥権を持っていた天皇についても少なくても監督責任はある。
 またこの戦争において、中国、韓国を中心として多くの命や財産などを奪ったことも事実であり、その精神的責任を問われても仕方がない。それが現在も韓国と中国の間で問題として戦後74年経っても尾を引いている。歴史認識の問題である。歴史的事実については、誇張や曲解がありその点は改善が必要であり、また日本国民としての信仰、信条の自由があることも理解して欲しいところではあるが、このような状況では真の相互理解は今後とも難しい。
 そうだとすると、日本国民も日本の将来を左右する深刻な問題として戦争責任の問題を捉え、勇気をもって判断しなくてはならなそうだ。(2013.8.15. 2019.8.15.改定)
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