(★サラーの真髄を完遂させるもの★の続き↓)
③アッラーへの賞賛、畏敬の念。これらは、①アッラーの尊さと偉大さを知ること、②そして自我の下劣さを知ること、以上の二つに分けられる。自我は隷属されているのである。この二つの知から生まれるのは、静けさと畏敬。
その一つは:ラジャーゥ〔希望〕。これは畏れの気持ちよりも上位に存在する。強力な攻撃力を持つ王を恐れると同時に、彼の善行を望むように、サラーに立つ者は、サラーで報酬を得ることに希望を持つと同時に、サラーの手を抜くことで罰を受けることを恐れるべき。
サラーを志す者は、サラーの各動作に心を同在させる必要がある。アザーンの呼びかけが聞こえたら、その呼びかけに従い、応えるために袖をたくし上げる。そして「何に応えるのか」「どのような体で応対するのか」を考察すること。
自分がアウラ〔へそから膝の間の覆われなければならないところ〕を覆うとき、自分の体の恥事を他人に隠すためにそうしていることを知ること。また内面のアウラと、創造主のみが知る自分の秘密を思い出すこと。アッラーに対して隠せることなどなにもない。後悔、恥じらい、畏れの気持ちを持つと、それは消える。
-キブラに向かって立ったら、自分の顔をアッラーの館に向けたことになるのだから、心をアッラーに向けることはより重要。またアッラーの館の方向以外を取り除かない限りその方向を向くことはできない。心も同じでアッラー以外を取り除かない限り心がアッラーに向くことはない。
-サラーに立つ者よ、タクビール〔アッラーフアクバルと両手を挙げながら唱えること。サラー動作の一部。〕をしたら、あなたの心が舌に嘘をつくことがないように。なぜならあなたの心の中にアッラーよりも大きいものがあれば、あなたは嘘をついたことになるから。自分の強い同意が伴った欲望がアッラーへの服従を上回ってしまわないよう注意すること。
-アッラーの御加護を求めたなら、イスティアーザ〔アウーズビッラーヒミナッシャイターニッラジームと悪魔からアッラーに加護を求める祈願〕とはアッラーの許への逃避であることを知りなさい。心で逃避しないとあなたが発する言葉がうわごとであるということになってしまう。あなたが発する言葉の内容を知るようにしなさい。「アルハムドゥリッラーヒ ラッビルアーラミーン」というとき、心で理解するように。「アッラフマーニッラヒーム」の際には、アッラーの優しさを思い出しなさい。「マーリキヤウミッディーン」の際には、かれの偉大さを。
-ズラーラ・イブン・アビーアウファーは、サラー中に、「ラッパが吹かれる時」(74/8)と読むと、死んでしまった。彼は単にその状況を想像したのが影響して死んでしまった。
-ルクーウ時には、謙遜の念を持つように。サジダ時には、さらにへりくだること。まさにあなたは自我をそれに相応しい場に配置させたのだから。そして、アズカールの意味を味わいながら理解しなさい。
【注意】これら内面的な条件でサラーを行うことは、心が錆から抜けて輝き、心の中に光が現れる要因となる。この光によって崇拝される存在(アッラー)の偉大さがほのめくのである。しかし「知る者」のみしかアッラーの秘密を理解できない。サラーの意味を持たず、形だけのサラーに立つ者は、それを理解しないどころか、そんなものなどないと拒絶する。
【サラー〔礼拝〕の徳】
サラーは宗教の柱であり、服従行為の始まりでもある。サラーの徳を扱った著名な多くの話が伝えられている。サラーの最もよいマナーはフシューゥ〔アッラー畏敬の念〕である。
ウスマーン・イブン・アッファーン(アッラーのご満悦あれ)の伝えるハディース二つ。
★《定められたサラーが訪れ、ウドゥー〔小浄・サラーを有効にするための清め〕とフシューゥとルクーウ〔立礼・サラーの一単位〕を丁寧に行った者のサラーは、大罪を犯さなかった限り、その前までに犯した罪を消す。》
★《捧げる2ラカアの最中に雑念を抱かなかった者は、過ぎ去った罪が全て赦されるだろう。》
★アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイル※は、サラーに立つとフシューゥのために棒のようになるのだった。彼がサジダ〔額ずくサラーの一単位〕すると、彼の背中を壁の一部と思い込んだ鳥たちが飛んできてそこに降りてきた。ある日、彼が部屋でサラーしていると、馬が彼を蹴飛ばしに入ってきて、彼の服の一部を引きずって行ったが、彼は動じることがなかった。
※アッズバイル・イブン・アル=アワームを父、アスマー・ビント・アビーバクルを母に持つ預言者様ﷺがマディーナに遷都された後に生まれた初めてのムスリムの子である若い教友。
★マイムーン・イブン・マハラーン※は次のように言った:ムスリム・イブン・ヤサールがサラーの途中で振り向くのを私は一度も見たことがない。マスジドの壁が崩れたことに市場の人びとが驚いていたのに、その時マスジドでサラーをしていたムスリムが振り向くことはなかった。彼の家族は、彼が帰宅すると黙りこくり、彼がサラーのために立ち上がり外出すると、話し出し、笑うのだった。
※ラッカ生まれ。ウマイヤ朝第8代目カリフ、ウマル・イブン・アブドゥル=アズィーズがラッカの統治を任命。カリフの子たちの家庭教師も務めた。
★アリー・イブン・アル=フサイン※はウドゥーをするたびに顔色を悪くしていたので、「ウドゥーのときに、いつもこうなるのはなぜでしょうか。」と尋ねられた。彼は「私が一体、どなたの御前に立とうとしているか、あなたは分からないのですか。」と言った。
※預言者様ﷺのお孫様であるアル=フサイン様の子。
★アリー・イブン・アル=フサイン※はウドゥーをするたびに顔色を悪くしていたので、「ウドゥーのときに、いつもこうなるのはなぜでしょうか。」と尋ねられた。彼は「私が一体、どなたの御前に立とうとしているか、あなたは分からないのですか。」と言った。
※預言者様ﷺのお孫様であるアル=フサイン様の子。
【注意】サラーには、アルカーン〔基礎〕と、義務〔ワージバート〕と、スナン〔推奨行為〕がある。サラーの真髄は、ニーヤ〔意志〕と、イフラース〔誠意〕と、フシューゥと、フドゥール・ル・カルブ〔心の同在〕である。サラーには様々なアズカール〔伝承された祈願文句〕やムナージャート〔アッラーを呼びかける言葉〕や行為が含まれている。心の同在なしに、アズカールとムナージャートが目指しているものを得ることはできない。内面に秘められたことが表現されないと、それはただのうわごとになるからである。行為から目的が得られない場合も同じである。サラーに立つことの目的は奉仕。ルクーウやスジュードの目的は、自分を卑しめ、アッラーを賛美すること。心が同在しない場合、目的が果たされることはない。行為から目的が抜けてしまった瞬間、それは意味を持たない形となる。アッラーは仰せになる:『それらの肉も血も、決してアッラーに達するわけではない。かれに届くのはあなたがたの篤信(タクワー)である。』(巡礼章22章37節)このアーヤが意味するところは:至高なるアッラーと関係を築こうとする者とは、求められた命令事項への服従に心を応じさせ、また支配する性質を備えた者のことを言う。だからこそ、サラーの間、心が同在することは大切なのである。しかしイスラーム聖法は、突如現れる油断や不注意を見逃している。なぜなら、サラーの始まり時に心が同在しているとの判断が、残りのサラーに適用されるからである。
★サラーの真髄を完遂させるもの ★
★サラーの真髄を完遂させるもの ★
①(今までに述べたように)心が同在すること。それに必要なのは、ヒンマ〔熱意・決意・やる気〕。あなたにとって気になる何かが起きる時、心は必然的に同在するだろう。心を同在させるための方法は、ヒンマをサラーに向ける以外にない。ヒンマを移行させる力は強くなったり弱くなったりするが、それは来世へのイーマーン〔信仰〕や現世を儚いものとする心の強さに左右される。あなたの心がサラーのときに同在しないときは、その原因があなたのイーマーンの弱さであることを知ること。そして、イーマーン強化のための努力を惜しまないこと。
②言葉を理解すること。これは心の同在の後方にあることだが、心が言葉の意味なしに発音とだけ同在しているかもしれないからである。そのため、雑念とその原因を追い払うことで、脳の理解力を言葉の意味の理解の方に移行させる必要がある。雑念の原因が取り除かれないと、心も雑念から離れることが出来ない。
-雑念の原因とは:聴覚・視覚を邪魔するようなはっきりしたものと、現世における不安を多極化させる、さらに根深い内面的なものに分けられる。内面的原因から来る雑念は、人間を忙しくさせるに充分。
-↑の治療方法:もし雑念の原因がはっきりした外面的なものであれば、視覚・聴覚を邪魔するものを断つだけで済む。例えば、キブラを向く。スジュード地点を見つめる。模様のついた場所を避けてサラーに臨む。五感の邪魔になるものを全て退ける。(預言者様ﷺが模様の付いたものをサラーの際に外した、という言葉が残っている。)
-もし雑念の原因が内面的である場合:サラーの中で読まれていることへ魂を強制的に追い返し、それ以外のことで忙しくならないようにさせる。そのためには、サラーに入る前からの準備が必要。自分を追いつめるもの(仕事など)を終わらせ、心を空っぽにすることに努め、来世を思い出し、アッラーの御前に立つ恐怖を思い出す。もしこの方法でも思考が落ち着かない場合、自分を忙しくさせかつ自分が熱望していることを考えているからなので、それら欲望を捨て、そしてそれに関連している全ての事柄を断たなければいけない。
【注意】「病」というものは、確定すると、強い薬しか効かなくなる。「病」が酷くなると、それはサラーする人を引っ張り、サラーする人もサラーが終わるまでそれを引っ張る。例えてみると、男が木の下で瞑想しようとしたにもかかわらず、小鳥たちの声が彼の邪魔をしているために男が手にしている棒で小鳥たちを追い払う様子。小鳥たちは再び戻ってきて彼を邪魔するので、結局彼は瞑想に集中できない。「終わらないな。何とかしたいんなら、木を倒してしまえ。」と忠告される。「欲望の木」も同じで、成長し、枝分かれすると、様々な思考がそれらに引きつけられる。それはちょうど、鳥たちが木々に寄ってきて、またハエがゴミにたかるのと同じ。貴重な月日(時間)は、追い払えきれないものを追い払うために流れていく。これらの思考を生み出す欲望の原因は、現世への愛に他ならない。
【注意】心の中にある現世への愛を断つことは難しいが、それを完全に消せるなら好ましい。それが可能な者には努力が与えられるだろう。アッラーこそ、成功させ給い、お力添えしてくださる御方。
(次回でこの徳の話は終わります、インシャーアッラー)
イブン・クダーマ・アル=マクディスィー師のミンハージュ・ル・カースィディーン短縮版(求める者たちの道しるべ)より抜粋。
イブン・クダーマ・アル=マクディスィー師のミンハージュ・ル・カースィディーン短縮版(求める者たちの道しるべ)より抜粋。