イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

84. 割れる (アル・インシカーク) 【3】

2008年01月31日 | ジュズ・アンマ解説
 そして誓いの対象が述べられます(アラビア語では、誓いの言葉の後にジャワーブ・ル・カサム―誓いの返答―と呼ばれる言葉が続きます):
 「あなたがたは,必ず一層から他層に登るであろう。」つまり、辛い状態(死)と審判の日の恐怖を段階を追って迎えることになるだろう、ということです。この苦悩は現世のものであるとも言われています。つまり、苦境後に訪れる幸福、そして幸福後に訪れる苦境や、病の後に訪れる健康、そして健康の後に訪れる病です。

 これらのアッラーの存在と、かれの唯一性を証明するアーヤの登場後にアッラーは言葉を続けます:
 「それでも,かれらが信じないのはどうした訳か。クルアーンが,かれらに読唱されると,かれらはサジダしようとはしない。いや,信じない者は,(それを)嘘であると言う。だがアッラーは,かれらの胸に隠すことを熟知なされる。」  

 ここの質問形は、その内容が愚かであることを強調します。つまり、なぜ不信仰者たちはアッラーの存在とかれの唯一性を信じないのか!!なぜ死後の甦りを認めないのか!!なぜ、それが神の啓示であることを証明する事柄が載っているクルアーンが読まれると、静かにし、謙遜しようとしないのか!!ということです。「いや,信じない者は,(それを)嘘であると言う。」彼らは頑固にそして高慢に、ムハンマドがアッラーの使徒であることと、クルアーンがアッラーの書であることを嘘とします。「だがアッラーは,かれらの胸に隠すことを熟知なされる。」アッラーは彼らが胸中に隠している嘘だとする主張をご存知であられます。

  アッラーは不信仰者と信仰者の行く末を明らかにすることでこの章を終わらせます。
 「それであなたは,痛烈な懲罰をかれらに伝えなさい。だが信仰して善行に勤しむ者は別である。かれらには絶えることのない報奨があろう。

 つまり、ムハンマドよ、あの不信仰者たちに痛ましい懲罰があることを伝えなさい、ということです。ブシュラー(吉報)は元来、罰ではなく至福において使われますが、ここでは皮肉・嘲笑の意味が込められた形で使われています。反対に信仰し、善行を行った者たちには、絶えることのない報酬がありますが、それは減らされることはなく、それによって見返りを求められることもありません。

タウラーとクルアーンを読み比べる

2008年01月21日 | 他の解説
大学4年のときにキリスト教・ユダヤ教を教えてくれていた先生の本をずいぶん前にかなり興味を持って買ったにもかかわらず全然読めていないので、今日少しだけ読んでみた(先生ごめんね)。

本の名は、
「クルアーンとタウラー ~どこでつながり、どこで分かれるか?~」
著者は、Drハサン アル・バーシュ(パレスティナ人)
http://www.awu-dam.org/dalil/02ba/dlil005.htm (写真若すぎ)

タウラーはアラビア語名のトーラー、律法。もしくは旧約聖書。
ユダヤ教の聖典。
クルアーンはイスラームの聖典。
ムスリムはタウラーの存在を信じるが、今に残るものは改ざんがあるため信じない。

今日読んだ部分は、天地や人間の創造の様子を両者がどのように表現しているかというところ。

タウラー:6日間でアッラーはまず天と地を創り、そして他のものを創り、7日目に休息を取った。
天と地を具体的にどのように創造したかは説明がない。
(あまり興味がないので、本文紹介はかなり省略)

クルアーン:タウラー同様に、6日間で創造される、とある。しかし、宇宙で大きな変化が起こるまでは地球が出現しないことが以下の節で分かる。「信仰しない者たちは分からないのか。天と地は、一緒に合わさっていたが、われはそれを分けた。」(預言者章30節)

「隔てる・分ける」事件は、天と地の創造の前に起こった。天と地は最初一つであった。そして分かれて天となり、もう片方は地となった。これは現代科学による地球などの天体が出来た過程を説明する一説と重なる。

つぎにこの節。「それからまだ煙であった天に転じられた。そして天と地に向かって、「両者は好むと好まざるとに関わらず、われに来たれ。」と仰せられた。」(フッスィラ章11)ビッグバン説によると、地球や太陽などの天体をもたらす原因となった大爆発により、膨大なガスの塊が発生した。これは頭で簡単に理解できる事柄だ。火山が爆発すると、大気中に火山から出るガスが広がっていくが、このガスは無数の個体で出来ており、何らかの成分が含まれている(ように)。

クルアーン中の「煙」が細かい分子を含んだガスであると考えていいだろう。固体か液体から出来ている点で煙もガスと同じ構造をしているからだ。

預言者章30節の続き。「…そして水から一切の生き物を創ったのである。かれらはそれでも信仰しないのか。」天と地が分けられ、ガスが発生し、地にさまざまな爆発が起きた。これに続くべきは冷却であり、それは水でしか実現されなかった。

雨は蒸気やガスで出来た雲で作られる。天と地を分ける大爆発によって発生したガスの塊が、大地を覆うほどの大量の雨にさらされずに冷えることは考えられない。また雨がもたらす水は、動物、植物などの生き物凡てが命のために必要とするものである。

つまり、「創造」は大地(地球)を他の天体から切り離すことで始まり、次に大地の表面が水で冷却され、そして水を素にすべての生き物が創造されたということ。

この事実が淡々とクルアーンに出てくるんだってさ。
短文なので、さらりと読んでしまいがちなクルアーン。なかなかのつわもの……
もっと味わって読んでいかなければ、と思いました。

84. 割れる (アル・インシカーク) 【2】

2008年01月20日 | ジュズ・アンマ解説
 喜ばしい描写の後に、悪行を行ったことによりアッラーの罰が相応しくなった人たちの様子が出てきます:
 「だが背後に書冊を渡される者に就いては、直に死を求めて叫ぶのだが,燃える炎で焼かれよう。

 人々よ、あなた方のうちで行いの書簡を背後で左手に渡される(軽蔑・屈辱の念が入る)者は、「直に死を求めて叫ぶのだ」つまり、破滅を求めることで助けを求めるだろう、ということです。「燃える炎で焼かれよう」つまり、火の中に入れられ、そこでの熱さと罰は厳しいということです。

 続いてクルアーンは、この不幸者の現世の生活を最悪な結末につなげた本当の原因を解明しながら振り返ります:「本当に彼は,自分の人々の中で歓楽していた。彼は,本当に(主の許に)帰ることなどないであろうと思っていた。いや,主はいつも彼を見通しておられる。

 彼は現世を楽しんでいました。家族の間で幸せで、自分の犯す罪や忘恩に満足していました。「彼は,本当に(主の許に)帰ることなどないであろうと思っていた」つまり彼は主の許に戻ることはなく、死後に清算のために蘇らされることもないと確信していたということです。そのため自分が犯した罪に留意することはありませんでしたが、それは特に報酬を望むことも罰を畏れることも無かったからです。「いや」つまり、事態は彼が思い込んでいるようなものではない、という意味です。彼はいつか主の許に戻るのです。「主はいつもかれを見通しておられる」アッラーは彼が行うどんな罪もすべてご存知である、ということです。

 続いてクルアーンは、訓戒のために、アッラーの力の偉大さについての話題に移行します: 「わたしは,落日の夕映えによって誓う。夜と,それに帰り集うものにおいて,また満ちたる月にかけて(誓う)。あなたがたは,必ず一層から他層に登るであろう。」  

 これらの事柄で誓いを立てる目的は、地球における創造主とその力の偉大さの解明です。

 落日の夕映えとは、太陽が沈むときに地平線上に現れる赤いものです。一日の終わりを感じさせるこの赤色、そして夜の到来は、私たちを驚くべき自然のしるしについて考察することに誘います。そしてその裏に、これらを創造した神のお力があります。

 地球やさまざまな星が泳ぐ宇宙は、暗く創られています。「夜と,それに帰り集うものにおいて」アッラーは夜と夜の暗闇に集まった星や、休息をとるその他の創造物において誓います。そのためアッラーは凡ての創造物において誓っているようです。そしてアッラーは月において誓います:「また満ちたる月にかけて(誓う)」つまり月が満ちた状態にあることを意味します。この情景は心に安らぎを与え、至高なる創造主の偉大さを感じさせます。

84. 割れる (アル・インシカーク) 【1】

2008年01月18日 | ジュズ・アンマ解説
84. 割れる (アル・インシカーク)

【解説】
 この章は、最後の審判の日が近づくと現れる徴候について言及しながら、人間の行く着くところは彼らの主であり、自らの行いの報いを与えることを説明します。 この章の頭では、大地と天がアッラーに服従することをはじめとした、審判の日に起こる大地の変動について語られます。このことはアッラーのお言葉「従う時」で強調されています。つまり、大地と天がアッラーの命令に従うことは、それらの主であるかれに対して確たる義務であり、それらすべてはかれの手中にある、ということです。こういう始まり方は、読む者の心に畏敬と、アッラーに従順でいようとする気持ちを起こさせます。この気持ちは、天地が主に服従する描写に反映されて起こります。
 
  アッラーはおっしゃれらます:
 「天が裂け割れて,その主(の命)を聞き,従う時,大地が延べ広げられ,その中のものを吐き出して空になり,その主(の御命令)を聞き,従う時。

 「天が裂け割れて」ひびが入り、粉々になる様子です。
 「その主(の命)を聞き,従う時」天は主の命令を聞き、割れるようにという命令に従います。そしてかれに服従することは天の義務です。
 「大地が延べ広げられ」面積が大きくなります。
 「その中のものを吐き出して空になり」大地は中に埋められた死人を生きた状態で放り出します。
 「その主(の御命令)を聞き,従う時」大地は主の命令を聞き、従います。その命令はとは、大地の中にあるもの全てを外側へ放り出すことです。大地にとって主の命令に従うことは、義務なのです。

  そしてクルアーンは、世界を動かす尋常でない神の力の偉大さを描写します。人間が地上における自身の存在の真実について思い直し、自分の最後に行き着く場所は自分の主の許であることを自覚するためです:
 「おお人間よ,本当にあなたは,主の御許へと労苦して努力する者。かれに会うことになるのである。

 意味:おお人間よ、本当にあなたは現世で主のために頑張り、努力する。あなたはやがて、善い行い・悪い行いを持って主に会うことになる。だからこそあなたの行いは、主が満足するものであるべきで、決してかれの怒りを招き、自分の滅亡につながるものであってはいけない。

 続いて、クルアーンは私たちに、主に従い、主の満足を得た人たちの喜ばしい様子を教えてくれます:
 「その時右手にその書冊を渡される者に就いては、かれの計算は直ぐ容易に精算され,かれらは喜んで,自分の人々の許に帰るであろう。

 至高なるアッラーは言います:右手に行いの書を渡されるとことは、吉報の証であります。それは「かれの計算は直ぐ容易に精算され」です。容易な計算が何かというと、全ての行いが目の前に提示されることです。最後の審判の日に信者の行いは広げられますが、その悪いものは赦され、善いものには報酬があります。「かれらは喜んで,自分の人々の許に帰るであろう。」天国で彼らはアッラーから頂いた恩恵に喜んで自分たちの家族のところに戻ります。

83.量を減らす者 (アル・ムタッフィフィーン)【4】

2008年01月08日 | ジュズ・アンマ解説
 続いてアッラーは、無罪者たちが来世で享受する善いものを解明します。
 「本当に敬虔な者は,必ず至福の中におり,かれらは寝床に寄って,見渡すであろう。あなたはかれらの顔に至福の輝きを認めよう。かれらは,封印された純良な酒を注がれる。その封印はジャコウである。これを求め熱望する者に熱望させなさい。それにはタスニームが混ぜられよう。(アッラーに)近い者たち(善行者)は,その泉から飲もう。

 敬虔な者は、人間が知っている以上の、終わることのない至福の中にいるでしょう。彼らは高級な寝床に座り、そこからアッラーから頂いた善いものを眺めます。そして至福のしるしが彼らの顔に表れます。彼らはそこで酔うことのない天国の酒を飲みます。彼らの飲み物の蓋はミスク(麝香)なので、飲み物からミスクの香りが放たれます。「これを求め熱望する者に熱望させなさい。」アッタナーフス(Attanafus競争、ここでは熱望と訳されている)は、誰もが欲しがる高価なものを勝ちとる、という意味がもともとあります。このアーヤが意図しているのは、本来、競い合いというものは永久の楽園の至福を掴むためにあるべきで、けっして現世の一時的な享楽のためにあるべきではない、ということです。そのため、あるべき競争は、来世のために、アッラーへの信仰と善行で成り立ちます。この競争は世の中を正し、成長させます。しかし現世とその消えゆく享楽のための競争だと、決裂と崩壊を招いてしまいます。

 「それ(純良な酒)にはタスニームが混ぜられよう。」その天国の酒に、タスニームと名付けられた天国の泉から作られる天国の住民が飲む高級な飲み物が混ぜられます。アラビア語でタスニームはもともと、高いという意味を持ちます。「(アッラーに)近い者たち(善行者)は,その泉から飲もう。」アッラーから報酬を得た側近者たちが、天国にあるその泉から飲みます。

 続けてアッラーは、善行者たちが現世で罪人たちから受けた害の様子を説明します:
 「当に罪ある者たちは,信仰する者を嘲笑っていた。そしてかれら(信者)の傍を過ぎると,互いに(嘲笑して)目くばせし,家族の許へ帰る時,笑い草にしたものである。かれらはかれら(信者)を見かけると,「本当にこれらの者は迷っています。」と言う。だがかれらは,かれら(信者)の監視者として遣わされた者ではない。

 罪人たちは、信者たちを嘲笑の的にしていました。彼らは信者たちのそばを通ると、行儀悪く仲間の間で目くばせしました。そして自分たちの家族のもとに戻ると、「笑い草にしたものである。」つまり、家に戻る前に信者たちに対して行ったことを面白く思い嬉しがりました。信者たちを目にする度に、彼らを指差しては彼らが迷っていると決め付けました。「だがかれらは,かれら(信者)の監視者として遣わされた者ではない。」つまり、不信仰者たちは自分たち以外の人たちの行いを監視し、彼らの正しさや混迷さを証言するために遣わされているのではない。ということです。この表現は、不信仰者に対する皮肉です。

 続けてアッラーは、不信仰者たちの危害に忍耐するように信者たちに呼びかけますが、なぜなら来世では現世で起こった逆のことが起こるからです。この語りかけで章は終わります:
 「だがこの日は,信仰する者が不信者たちを笑い,かれらは寝床に寄って,見渡すであろう。不信者たちは,その行いの報いを受けたであろうかと。

 クルアーンは虐げられた弱い立場にある信者たちに哀悼の言葉をかけます。不幸な結末は不信仰者たちを終末の日に待っており、信者たちは至福につかるでしょう。彼らは寝床に座り、不信仰者たちに現世で笑われたように彼らを笑います。しかし、つかの間の現世と永遠の来世の違いは大きすぎます。

 「不信者たちは,その行いの報いを受けたであろうかと。」このアッラーの言葉の解説の前に、少し説明が必要です。ここの疑問詞は不信仰者に対するとがめ、非難と彼らに対する罰の報告を意味します。つまり、不信仰者たちは現世で信仰者たちに行っていた嘲笑行為に対する報いを受け、それが合法となった、という意味です。報いとは何でしょうか?実にそれは、地獄の火です。報い(サワーブ、thawaabアラビア語では報酬という意味に近い)という表現が使われたのは、彼らに対する非難、嘲笑のためです。なぜなら通常、報いというものは、追従の報酬であるからです。これに似た表現がクルアーンにあります:「彼らに痛ましい懲罰の吉報を伝えなさい。」吉報は元来、喜ばしい知らせのことを言い、罰のこととは言いません。

83. 量を減らす者 (アル・ムタッフィフィーン)【3】

2008年01月05日 | ジュズ・アンマ解説
 続けてアッラーは来世における罪人たちの行く末を説明します。
 「いや,本当にかれらは,その日,主(の御光)から締め出される。次にかれらは,地獄できっと焼かれよう。そこで,かれらに,「これが,あなたがたが嘘であると言ってきたことである。」と告げられるであろう。

 文頭に、カッラー(Kallaa)と読む強めの意味を持つ否定詞が来ます。彼らの行っている悪行に恐れを感じさせるためです。彼らは審判の日、アッラーの尊い御顔を見ることが出来ず、魂の純粋な者にしか許されないこの幸せが禁じられます。彼らとアッラーの間にある(視覚の)隔たりは取り除かれます。彼ら敬虔な人たちについてアッラーは「その日,或る者たちの顔は輝き,かれらの主を,仰ぎ見る。」(復活章22節)とおっしゃっています。

 主と彼らの間に隔たりがあること自体、彼らに対するこれ以上にない罰でしょう。そして彼らの終わりは、不幸で苦しいものです。「次にかれらは,地獄できっと焼かれよう。」彼らは火の中に入り、苦しむのだ、という意味です。そして彼らに罪を与えることを任されている天使たちに叱責を持って「これが,あなたがたが嘘であると言ってきたことである。」と言われるでしょう。つまり、この罰があなたたちが現世で嘘だとしてきたものである、という意味です。

 罪人たちの罰の次に、無罪人たちの来世の行く末をアッラーが解明します。
 「これに引き替え敬虔な者の記録は,イッリッイーンの中に(保管して)ある。イッリッイーンが何であるかを,あなたに理解させるものは何か。(そこには完全に)書かれた一つの記録(があり),(主の)側近者たちが,それを立証する。」  最後の日を嘘とする人たちが怖がらせるためと、敬虔な者とはアッラーの命令を守り全ての善い行いをする人であることを知らしめるため、強い意味をもつ否定詞カッラー(Kallaa)がここでも使われます。彼らの行いは書簡に記されています。この書簡はアッラーの許にある「イッリーイーン」の中にあります。「イッリーイーン」(高いという意味が語源)という言葉は、幸福と崇高さとレベルの高さを感じさせます。それと同時に、「スィッジーン」は狭さと暗さを感じさせます。

 「イッリッイーンが何であるかを,あなたに理解させるものは何か。」この事実は人間の感覚と知識を超越した事柄です。そしてそれは実に「書かれた一つの記録」です。つまり、審判の日における無罪者の火からの安全と天国という勝利が書かれているということです。「(主の)側近者たちが,それを立証する。」そこに書かれた行いなどをアッラーの側近である天使たちが立証し、その記録を守護します。