司会:
「悔悟の意志が至高偉大なるアッラーからのものであるなら、罪の意志はどこから来るのか?」と議論してくる人がいます。さて、アッラーは私たちが罪を犯すことを御望みなのでしょうか?
先生:
そのようなことはアッラーにふさわしくありません。
「まことにアッラーは醜行を命じ給わない。おまえたちはアッラーについて、おまえたちの知らないことを言うのか」(高壁章28節)
「多神を崇拝する者たちは言うであろう。「もしアッラーはが望み給うたならば、われらもわれらの祖先も多神を拝まず、なにも禁じなかったであろう」。こうして彼ら以前の者もわれらの威力を味わうまで嘘として否定した。言え、「おまえたちにはわれらに出して見せるような知識があるのか。まことにおまえたちは憶測に従っているにすぎない。まことにおまえたちは妄想しているにすぎない」。」(家畜章148節)
この聖句は、ジャブル(万事は強制されて起こるとの考え方)が否定される根拠です。ジャブルは間違った信条でもあります。ジャブルかもしれない、との思い込みは確実な迷いです。
「そしてアッラーはおまえたちの許に顧み戻ることを望み給うが、欲望に従う者たちは、おまえたちが大きく片寄り、偏向することを望む。」
彼が私たちを御創りになったのは、私たちを慈しみ給うためです。その根拠は次の聖句です:
「ただし、おまえの主が慈悲をかけ給うた御方は別である。そのために彼は彼らを創り給うた。」(フード章119節)
「私たちが罪を犯すことをアッラーが望み給うている」と思い込むこと。その思い込みはとても不可能なことです。彼は私たちのために善を、導きを望み給うています。私たちは私たちが成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられた被造物です。人間は選ぶことを求められているのです。罪の基本は、この講義集の始めの頃に扱ったように、欲望が植え付けられ且つ道標が与えられている中で、道標に従わずに欲望のまま行動することです。丁度、ハンドルはありませんが強いモーター(ここでは欲望)の付いた乗り物に乗るようなものです。ハンドルは道標です。ハンドルなしで動く乗り物の行く末は危険な事故の他にありません。どんな人間も、アッラーによってその中に据え置かれた欲望において行動しますが、それは元来、中立です。それによって諸天と大地の主に近づくためです。欲望は私たちを高めるためのはしご、または私たちを落とす階段に相当します。以上が罪の基本です。「選択を求められること」は、天使にも、その他の物質にもありません。また、動物にも責任能力がありませんから、罪も悔悟もありません。人間とジンは他のすべての被造物と違って、成す行為に価値が付くよう、「選択できるという恩恵」を与えられたのです。そして諸天と大地の主に到達させるはしごになる「欲望」が植え付けられました。そこで道標に従わず、欲望のままに行動することで数々の罪に陥ってしまうのです。以上は、罪の哲学です。
一般の民衆の間には背信行為となる言葉(諺など)が幾つかあります。飲酒する人があなたに言います:限られた場所での決められた杯数。誰が言ったのでしょう?これは悪魔の言葉です。一般の民衆が言う言葉はすべてクルアーンに照らし合わせるべきです。相違がなければ良しとし、相違があれば蹴飛ばしてしまいましょう。正しい信仰が必須です。正しい信仰こそが善行の素です。偏向ある信仰は、偏向ある行為とともにあります。
つまり、私たちは自分たちの信仰を正し、浄化して、アッラーのことを知る必要があるということです。
《イブン・ウマル(ウマルの息子)よ、おまえの宗教を大切にしなさい。まことにそれは、おまえの肉であり、血である。真っ直ぐにある人たちから習い、傾いた人たちから習ってはいけない。》