1. 復活(審判)の日に誓おうではないか。
2. そして自責する魂に誓おうではないか。
3. 人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。
4. いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。
5. いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、
6. 復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。
7. それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、
8. そして月が姿を隠し、
9. また太陽と月が合わせられた(時)、
10. 人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。
11. 断じて、退避地はない。
12. その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。
13. その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。
14. いや、人間は己に対して証拠となる、
15. たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。
16. それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。
17. まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。
18. それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。
19. それから、まことにその解明もわれらの務めである。
イスラームにおける信仰の柱の一つに、最後の日の信仰がありますが、この日には審判の日とも名が付いています。
かつて信仰の本質について尋ねられたアッラーの使徒(祝福と平安あれ)は言いました:あなたがアッラーと、天使たち、諸啓典、諸使徒、最後の日を信仰し、善きも悪くもアッラーからの定めを信仰すること。
そしてクルアーンは「審判章」でこの内容を解説しています。
この章は、審判の日は疑いなく真実であり、それは必ず起こることを強調することで始まります。至高なるアッラーは仰せになります:
「復活(審判)の日に誓おうではないか。そして自責する魂に誓おうではないか。」
誓いの言葉の直前に否定の「لا」を置くことは、アラブの言葉や詩において頻繁に使われる方法で、これは誓いの強調に役立ちます。「事は明解なので誓う必要などない」とアッラーが仰せになっているかのようです。審判の日を否定する者に対して、それを軽視する者に対してその存在を知らしめる目的でアッラーは審判の日に誓い給いました。
また、「自責する」と形容された魂にもアッラーは誓い給うています。これは服従行為や罪において自責する信仰者の魂を指します。服従行為においては、なぜもっと多くしなかったのかと自責し、罪においてはその犯してしまったことを自責することで、悔悟してアッラーに帰るのです。これからは二度と同じ行為を繰り返さないという決意の表れです。アル=ハサン・アル=バスリーは言っています:敬虔な者が常に自責しているのを貴方は見るだろうが、破廉恥な者は自責せずに歩き去ってしまう。
アッラーは自責する魂に誓い給うことでそれを褒め、その存在を強調し、その道を歩むよう勧め給うています。
続いてクルアーンは、審判の日を否定している不信仰者たちの主張を語ります:
「人間は、われらが(復活の日に)彼(人間)の骨を集めることはないと考えるのか。いや、われらは彼の指先まで整えることが可能で(、それを整える)。」
彼らが来世の存在を否定していることの一つが、土に埋もれたばらばらの骨が元通りになること、人間が生き返るということが想像に難しいということです。かつてアラブの不信仰者であった「アディ」という男が預言者(祝福と平安あれ)の隣に座って、審判の日について話してほしいと願ったところ、その日の一部について話しました。「その日をこの目で見たとしてもムハンマドよ、私はあなたを信じないし、その日のことも信じないぞ!アッラーが朽ち果てた骨を集めるなど可能なのか?!」すると返事としての啓示が下りました。至高なるアッラーは強調して仰せになります:いや、われらの力によって骨を集めるだけでなく指先の骨も整えられるのだ。
続いてクルアーンは、審判の日を否定することにおける隠れた精神的原因と、本質的な理由を解明します。人間は欲望と罪な行為に溺れたいのに、再生と報復という思想はその望みに立ちはだかるため、彼らは審判の日を脳裏から追い払いたいと思うのです。アッラーは仰せになります:「いや、人間はこの先も罪悪を重ねることを望み、復活(審判)の日はいつごろか、と(嘲って)尋ねる。」
「بل いや」が文頭に来ていることが上記のような原因付けを想像させます。そしてアッラーが描写し給うたこの原因へと続きます。「この先も罪悪を重ねることを望み」つまり時間が流れても悪行をし続けるという意味です。この先、とは将来を意味します。この人間は否定と遠ざかりたい気持ちを込めて審判の日について質問しつつ悪行をし続けます。
審判の日と行為には報いがあることを人が信じれば、自分から発せられるすべてに常に注意していられるようになります。罪から自分を守り、全身で善を行おうとしますが、将来起こる審判の日にはアッラーの御前に立って清算を受けることになるからです。審判の日への信仰は人の魂を自責するものに変えます。自身から発せられる全てを責めるようになります。これこそが審判の日と、誓いの言葉が章の始まりにある自責する魂に誓う言葉が結び付けられた秘密なのです。
不信仰者たちによる審判の日の到来の否定を前に、酷い嵐のような応答がクルアーンより寄せられます。またその日に起こるいくつかの出来事も同時に述べられます:
「それで(復活の日の恐怖に)目が眩んだ時、そして月が姿を隠し、また太陽と月が合わせられた(時)、人間はその日、逃げ場はどこか、と言う。断じて、退避地はない。その日、お前の主の御許に落ち着き先はある。その日、人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる。」
そのときに起きる膨大な変化を見ることで視覚は乱れ恐怖で驚きます。山々がはげたり、大地が割れたりなど。月が消えてその光が去り、離れていた月と太陽が一つになるにもかかわらず光はありません。このような出来事が起きる中、人間らは尋ねあいます:どこに逃げる?と。そのとき、「断じて、退避地はない」と応答があります。つまり、要塞や逃げ場など無いので逃げる意味はないということです。「その日、お前の主の御許に落ち着き先はある」落ち着き先はアッラーの御許のみということです。以上の出来事が起きる日の行き先はアッラーおひとり以外に何もありません。その日のすべては彼に委ねられます。また人々の行為にかけられていた覆いが剥がされます。「人間は、先になしたことと後とになしたことについて告げられる」生前に行ってきた善行と悪行と、死後に発生した、自分に繋がっている善行と悪行について知らされます。善行であれば、例えばサダカ・ジャーリヤ(公衆飲み場設立等)や有益な知識が挙げられます。悪行であれば何か新設した悪行が人々に行われるようになるとその責が死後も追ってくることがいえます。
または:始めと終わりの行い、という意味とも取れます。すると:人間は人生の始めから最後までになした行いについて知らされるという意味になります。「告げられる」には、清算のために知らされるという意味があります。
人間は自分の行った行為の証人となります:
「いや、人間は己に対して証拠となる、たとえその様々な申し訳を持ち出したとしても。」
人間がするどのような言い訳も何の役に立ちません。体の各部分が証人となるのです:「彼らの舌と手と足が彼らのなしたことを証言する日に」(御光章24節)
そして預言者(平安と祝福あれ)に啓示の受け取り方を諭す節が続きます:
「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない。まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え。それから、まことにその解明もわれらの務めである。」
かつて預言者(平安と祝福あれ)はジブリールを介して啓示を受ける時、暗記に努めようと舌を急いで動かしていました。忘れてしまうことを恐れたためです。もしクルアーンが彼から発せられたもの、つまりイスラームの敵が主張するように彼の著作でありアッラーのものでなかったなら、その中に熟考した跡が存在し、その暗記に急ぐために舌を急いで動かしたりなどしなかったはずです。しかし預言者(祝福と平安あれ)は突発的な学習に晒されて啓示を受ける度に一文字一文字繰り返して読んでいたのです。そのため、啓示を受け始めたばかりでまだ慣れていない頃には、啓示の暗記に必死であったに違いありません。
そのためアッラーは預言者(祝福と平安あれ)に次のように仰せになっています:「それ(クルアーンの啓示、暗記)に急いでおまえの舌をそれ(クルアーンの読誦)で動かしてはならない」つまり啓示を受けている時はそれを聞き逃してしまうと恐れるあまりに舌を動かそうとしてはいけないという意味です。「まことにその(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである」つまり人々に読み上げるためにあなたの胸にそれを集めて暗記させるのはわれらの任務であるという意味です。「それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え」ジブリールを介してわれらがクルアーンをあなたに読み聞かせるときは、それを聞き、その内容に従い、実行しなさいという意味です。「それから、まことにその解明もわれらの務めである」許容事項、禁止事項や意味、裁定で不明な部分の解明という意味です。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP135~139)