بسم الله الرحمن الرحيم
101章解説
1. 恐れ戦く日(最後の審判)
2. 恐れ戦く日とは何か。
3. 恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。
4. (それは)人間が飛散する蛾のようになる日。
5. また山々が、梳かれた羊毛のようになる(日である)。
6. それで、彼の秤が(善行で)重い者は、
7. 幸福で満ち足りて暮らすであろう。
8. だが秤の軽い者は、
9. 奈落が、彼の里であろう。
10. それが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
11. (それは)焦熱(地獄)の火。
混迷の中をさまよう人たち。罪に溺れる人たち。主に背を向ける人たち。現世だけを唯一の関心事とする人たち。自分勝手な自我の欲望を満たそうとする人たち……アッラーはこのような人たちに、「現世の行いの報いを受ける世界があること」、「来世における人々の行く末は、幸福か不幸のどちらかであること」を知らせ給います。
審判とその恐ろしさを感じさせながらこの章(マッカ啓示)は述べられます:
「恐れ戦く日。恐れ戦く日とは何か。恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。」
最後の審判の日に「القارعة アル=カーリア(強打するもの=恐れ戦く日)」という名前が付いている理由は、強烈さと恐ろしさをもって心を打つからです。「恐れ戦く日とは何か」つまりカーリアとは何なのか?こういったネーミングは、最後の審判の日が持つ重要性と恐怖を感じさせます。「恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か」この節が最後の審判の日の恐ろしさを強調しています。その日は被造物すべてが持ち得ている知識を超えた出来事になります。
続いてクルアーンは、「恐れ戦く日」に見られる二つの光景について述べていきます:一つは人々に関連して、二つ目は山に関連しています。人々はその日、恐怖に怯えながら、生きた状態で墓から出てきます:「人間が飛散する蛾のようになる日」つまり人々は混乱と当惑を原因に、飛ばされた弱く、虐げられた蛾のようになってしまう、ということです。蛾は怖い目にあうと、一つの方向に飛ぶことはなく、皆違う方向に飛んでいきます。
山々の光景:「また山々が、梳かれた羊毛のようになる」つまりさまざまな色を持った梳かれた羊毛のようになることを指しています。これは羊毛がばらばらになり、空気の中に散らばることを指しています。他にもその日の山を描写した御言葉があります:「山々が散る時」(81章3節)、「その日、大地と山々は震動し、山々は崩れ流れて、砂の固まりになるであろう」(73章14節)アッラーのみにしか分かりませんが、もしかすると、月や他の星の引力の影響でこのようになるのかもしれません。月やその他の惑星が―アッラーの命に応じて―地球に近づけば、引力によってこのような自然現象が起こると考えられるわけです。それは審判の日が近づいている徴とも取れるでしょう。この節では、しっかりと据えられた山に起こる変化ついて語られていますが、弱い人間が同じ時を迎える瞬間、一体どうなるのでしょうか。
このような恐ろしい審判の日の光景の描写の紹介後、クルアーンは人々の行く末と、彼らが不幸者と幸せ者に分けられることを教えてくれます。ここでは人々の善行と悪行が重みをもった物質として表現されます:「それで、彼の秤が(善行で)重い者は、幸福で満ち足りて暮らすであろう」つまり善行が悪行より多いと、天国で良い生活を送り、アッラーの満足を得られます。当の本人もアッラーに恵んでいただけた恩恵に満足するのです。
代わって善行の秤が軽く、悪行の方が重かった人の結末は、地獄です:「だが秤の軽い者は、 奈落が、彼の里(母)であろう」母親は子の逃げ場であり、最後に行くつくところであることから、ここでは「母」が使われたと言われています。هاويةハーウィヤ(ここでは奈落と訳されています)とは地獄の名称の一つで、深い場所にあるのでそのように名付けられています。こういった表現は不信仰者たちに対する脅迫とも言えるでしょう。または母親という存在は愛情で子を覆うように地獄も不信仰者たちを罰と火花散る業火で覆う、とも言われます。「それが何であるかを、あなたに理解させるものは何か」この疑問文の登場で意味と恐ろしさが強調されます。つまり、ムハンマドよ、ハーウィヤがどういったものであるのかを教えてくれるものは何なのか、となります。それは理解できる範囲外のことです。「(それは)焦熱(地獄)の火」燃料によって熱くなっている火のことです。
(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P159~161)
②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2928~2930)
بسم الله الرحمن الرحيم
102章解説
1. あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。
2. 墓を訪れるまで。
3. いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。
4. もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。
5. いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。
6. あなたがたは必ず獄火を見よう。
7. その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。
8. その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。
この章は、特に私たちが生きる現代の「物質主義という暴君が引き起こす現象」を扱っています。
近代化が人間に与えた支出を要する種類豊富な贅沢は、人を昼も夜もそれを手に入れるために奔走する近代化の奴隷にし、生活を安楽ではなく苦労の連続に変え、金銭を手に入れる方法を考え続けなければならない不安を心に植え付けました。そして人は人生の貴重な時間さえもそのようなことに死ぬまで費やすようになってしまいます。
ジャーヒリーヤ時代におけるアラブはかつて、財産や子供の多さと名声の高さに誇りを持ち、自慢しあっていました。そこにこの章が啓示されました:
「あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。墓を訪れるまで。」
意味:金と子の多さの自慢と名声の希求が、あなたがたが死んで墓に入るまでアッラーへの崇拝から忙しくさせてしまった。
「墓を訪れるまで」は、墓の中での滞在が恒久的なものではなく、単なる訪問であることを暗示しています。訪問は、再生と清算と行為に対する報いを受けるときに終了するということです。
人間が努力して手に入れようとしているこの至福、そして金集めやその自慢といった熱のこもった競争は、人間を幸せに導きませんでした。ただ、人間関係にひびを入れ、疲労と苦悩を齎したにすぎず、その結果は身体の病や心理的な病となって現れました。
「現世の享楽と富の収集に完全傾倒すること」、「アッラーを思い起こすこととかれの導きに背を向けること」は、次のアーヤが示しているように、人間を損失に引っ張り込みます:「信仰する者よ、あなたがたの富や子女にかまけて、アッラーを念じることを疎かにしてはならない。そうする者(アッラーを念わない者)は、自らを損う者である。」(偽信者たち章9節)人間には創造主に対して、崇拝する義務と、かれからいただいた数え切れない恩恵に愛情と感謝の気持ちを込めて継続的にかれを唱念する義務があります。アッラーを想い、念ずることは、心を安定させ、そして困難や試練に対して堅甲にしてくれます。代わってアッラー唱念を拒否することは、現世における不幸のきっかけであり、来世におけるアッラーからの恩恵を損なうという結果を齎します。人間が努力して手に入れるべき「本物の至福」とは、次のアッラーの御言葉にあるような現世の去りゆく少ない幸福ではありません。「現世の歓楽は些細なものである」(婦人章77節)それは永続する来世の至福なのです。「主は、親しく慈悲と満悦を与えられ、かれらのために永遠の至福の楽園の吉報を与えられる。」(悔悟章21節)
では解説が脇道にそれてしまったので本題に戻りましょう。至高なるアッラーは仰せになります:「いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。」كلاّカッラー は強い否定、禁止の意味を含みます。つまり:財産やいろいろな贅沢を自慢し合うのをやめなさい、アッラーへの崇拝に背を向けることなどやめなさい、でないとそれぞれの行いの結果を見ることになる、です。クルアーンは文章を2度繰り返していますが、繰り返すことで禁止の依頼をさらに強め、自慢者たちに対する脅しを確かなものとします。
「いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。」つまり、人々よ、このような振る舞いは好ましくない。もしあなたがたの死後に報いのためにあなたがたを墓からアッラーが蘇らせ給うと明解に知ったならば、きっとあなたがたはかれの罰を恐れて急いでアッラーにお仕えしたことだろう、という意味です。
アッラーは彼らが見ることになる結末を説明し給いました:「あなたがたは必ず獄火を見よう。その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。」ここには指で数え得る、アラビア語で知られた数少ない文章の意味を確定させる単語がぎっしりと詰まっています。このような表現はどのような長い書物の中にも見られないでしょう。ゆえにそれは紛れもない真実であることが分かります。「獄火を見る」は、その熱さで苦しむことを暗示しています。自慢をやめない人たちは必ずこのような状態に行きつくわけですから、人々は皆、嫌悪される張り合いと現世の楽しみにうつつを抜かすのと、アッラーに仕えること、崇めることから背を向けてしまうのをやめなさい、ということです。
つづいてアッラーは次の御言葉をもって章を終わらせ給います:「その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。」つまり、アッラーは信者にも不信者にも現世での至福について質問し給う、ということです。どのようにそれを手に入れ、集め、使ったかを。不信者はアッラーに対する感謝を否定したため、質問は責めの形で行われます。
楽しみを満たすことに夢中になって、食べて飲んで遊ぶためだけに時間を費やす者に、現世で楽しみは好ましくありません。しかしアッラーからいただいた至福と糧を享受しつつ、それらを勉学や善行のための拠り所とし、そのことに対してアッラーに感謝を捧げ、必要とする人にはサダカし、属している社会に貢献する者には、罪はなく、審判の日にはアッラーの罰から救われる者の一人となるでしょう。
(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P162~165)
بسم الله الرحمن الرحيم
10.ヒラー洞窟:
預言者(平安と祝福あれ)の年齢が40歳に近付くと、彼は一人で過ごすことを何よりも好むようになりました。周りの人々と、彼の間にある物事に対する理解の違いという溝がどんどん大きくなっていたからです。預言者(平安と祝福あれ)は水と食べ物を持ち、ヌール山にあるヒラー洞窟に行き、数日間過ごしました。そこに貧者が現われれば、食事を提供したりしました。また自分のいる環境や世界の様子、驚異的なパワーの裏にあるものなどについて考えたり、イブラーヒームの純正な崇拝方法に倣った祈りで、洞窟での時間を過ごしました。預言者(平安と祝福あれ)は、人々が信奉している多神信仰に安堵することはできませんでしたが、かといって満足できる明瞭な道しるべを手にしているわけでもありませんでした。召命前の預言者(平安と祝福あれ)がヒラー洞窟に向かって歩くと、通り過ぎる際に石と木が必ず、「アッラーの使徒よ、あなたに平安あれ!」と言うので、預言者(平安と祝福あれ)が(誰かに呼ばれたかと)右左を確認し振り向いても、そこには石と木以外何もないのでした。このことに関する次のハディースがムスリム正伝集に収録されています:ジャービル・ビン・サムラは、アッラーの使徒が次のように語ったとして伝えている。
私は啓示を受ける前にマッカで私に挨拶をしていた石をよく知っている。
今もなおそれをよく知っている。
このようにアッラーは、ムハンマド(平安と祝福あれ)が重大な任務を背負えるよう、使徒として召命する3年前から彼を一人で過ごさせ給うたのです。それは、将来、世界を変え、歴史を塗り替えるための準備期間だったといえるでしょう。
11.預言者(平安と祝福あれ)召命:
預言者(平安と祝福あれ)の年齢が満40歳になると、約束された召命の日が近づいてきます。40歳という年齢は、成熟していることを指し、使徒たちはこの年齢で召命を受けるとも言われます。そしてこの頃から預言者(平安と祝福あれ)に、預言者になる者に現われる現象が起こり始めます。それこそが、「正夢」です。彼(平安と祝福あれ)が夢を見ると、夜明けの薄光を見るように、夢に見たことが起きるのでした。この状態は6カ月続きました。実は「正夢」は、46ある預言者性の一つなのです。
そして、ついに大天使ジブリール(平安あれ)を介したクルアーンの第一の啓示が、ラマダーン月21日の夜(西暦610年8月10日)、ムハンマド(平安と祝福あれ)が陰暦でちょうど40歳6カ月12日の時に起きます。太陽暦だとおよそ39歳3カ月12日です。啓示はヒラー洞窟にムハンマド(平安と祝福あれ)が籠っている時、彼が覚醒状態にある時に、天使に「読め」と言われることで始まりました。ムハンマド(平安と祝福あれ)は文盲でしたので「読めません」と答えます。続きは、預言者(平安と祝福あれ)の妻アーイシャ(御満悦あれ)の伝えるハディース(ムスリム伝承)から詳細を見ていきましょう:
「アッラーのみ使いに下された最初の啓示は、睡眠中に正しく現われたものであった。
彼はその時、夜明けの薄光のように現われたその啓示を見たのです。
その時以来、彼は独居を好まれ、ヒラー山の洞窟にこもってタハンヌス(一神教信心)の行に没頭されました。
この行は何日も続くため、家族の下に戻るまでの必要な食糧を準備せねばなりません。
それが尽きると妻ハディージャの処に帰り、同じように、また数日分の食糧を準備なさったのでした。
こうした状況で彼がヒラー山の洞窟にこもっていた或る日、彼に啓示が下されたのです。
その時、彼の処に天使が現われ、こう命じたのです。
「読みなさい!」
これに対し彼は「私は文字が読めません」と答えたのです。
(み使いはこれに続けて以下のようにお話しになった)
「すると天使は私をとらえ、やっと耐え得るほどきつく押えつけこう言われた。
『読みなさい!』
『私は文字が読めません』と答えると天使は、また再び私をとらえ、更に耐え難いほどきつく私を押えつけになり、そうして、『読みなさい!』と繰り返し言われたのです。
これに対し、私は『文字が読めません』と同じ答えを述べたのです。
すると天使は私をつかみ、三度目もきつく押えつけになった後、私を放し次の聖句をお唱えになったのです。
「読め。
創造なされる御方、あなたの主の御名において。
一凝血から、人間を創られた。
読め。
あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって書くことを教えられた御方、人間に未知なることを教えられた御方である。」(クルアーン第96章1-4節)
(次回は預言者(平安と祝福あれ)の初めての啓示に対する反応とハディージャ(御満悦あれ)の慰めや引き続き起こる啓示について。インシャーアッラー。)
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P115~116
②「封印された美酒」サフィーユッラフマーン・アルムバーラクフーリー著、ダール・アルフィクル出版、P41~42)
一年たつの早いですねー。スブハーナッラー。
بسم الله الرحمن الرحيم
103章解説
1. 時間にかけて(誓う)。
2. 本当に人間は、喪失の中にいる。
3. 信仰して善行に勤しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外は。
この章は、現世と来世における人間の幸福実現のための重要な諸基礎を解明しています。まず至高なるアッラーはこの章を、『時間にかけた誓い』の言葉で開始し給いました。誓いの言葉に使われた『時間』は、《時(ダハル)を罵ってはいけません。実にアッラーこそがダハルなのですから(ムスリム)》というハディースが示しているように、尊くて重要です。また人間の生活にとってどれだけ『時間』が重要な位置を占めているかということ、そこに起こる幸福や不幸、富や貧困といった様々な生活の中にある混乱がここで連想されます。当時に限らず現代の人々の中には、不幸を時のせいにすることがありますが、アッラーはこの誓いの言葉で、『時の中で発生する喪失は人間の行為に因るのであり、決して時そのものに因るのではない』こと、『以下の4項目を実践しない人間は喪失の中にある』ことを明解にし給いました。①アッラーへの信仰、②善行、③真理の勧めあい、④忍耐の勧めあい、です。ではアッラーの御言葉を見てみましょう:
「時間にかけて(誓う)。本当に人間は、喪失の中にいる。信仰して善行に勤しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外は。」
アッラーへの信仰と善行:
アッラーを信仰することは、人間に課された第一の義務です。なぜなら、人間の素行と理性の正しさは信仰を由来とするからです。この世界に存在するすべてのものがアッラーの存在を証明しているのに、人間は創造主について信仰しないなどありえるでしょうか。
アッラーへの信仰は、人間の生活に顕著な影響を与えます。信仰は生活の暗闇を払拭し、心に希望を齎しくれます。信者は失敗したり失望すると避難場所、つまり助けてくださるアッラーの存在を思い出しますし、自身に起こった不幸によって報奨を得られると思うことで心を落ち着かせられます。そして目の前の恐怖は小さくなり、困難は容易となります。このため信者は常に安心し、落ち着きがあり、悩みを抱えず、心理的な病に陥ることはないのです。
代わって信者ではない人は、心理的な病や身体的病の餌食となってしまいます。困難に襲われると忍耐できず、とても心苦しくなります。やがて不眠や酒に溺れることもあります。そして立ち上がれないほどの病を患うか、突然に死に見舞われるという結果になります。
アッラーへの信仰は、人間の心に善の泉を湧き出させ、害となる欲望やわがままを抑制し、悪や罪から遠ざけてくれます。やがて人間は集団の奉仕に努めるようになりますが、人間がその行いにおいて、自身が信奉する教えの主に服従しているからです。この教えとは、『アッラーが彼の行為をお見通しである』、『審判の日にはその行為を清算し給う』ことを指します。生前の行いが良ければ良く報われ、悪ければ悪く報われることになります。ここで信仰と善行の間にある強い絆が判明します。善行はアッラーを信仰したことよって成った実です。それゆえアッラーはクルアーンの中で信仰と善行を絡めて述べ給うているのです:「信仰し、善行する者たち」と。この2つを行う者には現世と来世で幸福を得られるという吉報と約束と合わせて、50回以上にわたって登場します。
صالحاتサーリハート(善行)は、صالحةサーリハの単数形です。صلاحサラーフは、腐敗の逆の意味を持ちます。サーリハートは宗教分野の中で、悪行の逆のものとして使われていて、聖クルアーンが幾度に渡って、読む人にそれを勧め、述べている良い行いのことを言います。これはアッラーに捧げる崇拝行為と魂の浄化と集団への心づくしと結びついています。
真理の勧めあい:
続けてアッラーは喪失する者たちの中から、真理を勧めあう人たちを除外し給いました。真理の勧めあいとは、間違っていないすべての正しい行いを勧めること、つまりすべての善です。ここから私たちは、社会的責任が人間に課されていること、そして自分自身の完成は、他人の完成に努めない限り実現しないことを知ることができます。
真理の勧めあいは社会に必要なことです。しかし真理に基づいて何かを行うことは容易ではありません。なぜなら、自我の欲求や個人の利益、不正な為政者などに反するからです。ゆえにイスラームは信徒たちに真理に基づいた行動を要求するだけでなく、真理を勧めあうよう命じているのです。勧めあうとは、真理に基づいて行動することと、他人にそれを勧めることを含みます。以上が実現することで、人々は真理のために生きるようになりますし、真理が人々の闘争を支配し、真理によって集団内に起こる意見の相違に決着がつけられるようになるのです。
また真理の勧めあいは、共同体の各個人があらゆる善において協力し合うことを指します。
イスラームは、真理を称賛しており、至高なるアッラーの美名の一つにもなっています。「これも,アッラーこそ真実であり,かれらがかれ以外に祈るものが偽りの(神の)ためである。」(巡礼章62節)
またアッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)にイスラーム聖法を解明しつつ話しかけ給うています:「 本当にわれは,吉報と警告の伝達者として,あなたを真理と共に遣わした。」(雌牛章119節)
忍耐の勧めあい:
真理は人々にとって重く、それを勧めあうことは災難や困難を伴います。それゆえ真理は忍耐を呼び寄せるものといえるでしょう。だからこそアッラーは『忍耐の勧めあい』と『真理の勧めあい』を一緒に述べ給うたのです。忍耐はいくつかに分かれます:
イスラームが定めている義務行為遂行に対する忍耐。
イスラームが禁じている罪を犯すことに対する忍耐。
困難や災難に対する忍耐。
最もレベルの高い忍耐は、ショックを受けた最初の瞬間に発生するものであり、興奮の収め具合や心の強さ、信仰の強さを証明するものでもあります。
忍耐は多くの美徳の基本であり、どのような美徳も忍耐を必要とします。またクルアーンの中でアッラーは、80アーヤに渡って信者たちに忍耐するよう諭し、忍耐する者を褒め、最も良い報奨を約束し給うています。その言葉をいくつか紹介します:「耐えなさい。アッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。」(戦利品章46節)、「よく耐え忍ぶ者は本当に限りない報酬を受ける。」(アッズマル章10節)、「耐え忍べ。本当にアッラーは,善行者への報奨を虚しくされない。」(フード章115節)
この尊いスーラはその短さにもかかわらず、あらゆる善を包括しています。
また預言者(平安と祝福あれ)の仲間の二人の男は出会うとこのスーラをどちらかが相手に読むまでは分かれなかったと言われています。(アッ=タバラーニー、アル=バイハキー)読むのはお互いにどのような態度と行動を取るべきか思い出すためです。
(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P166~170)
②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2928~2930)
بسم الله الرحمن الرحيم
7.ハディージャ(御満悦あれ)との結婚:
フワイリドの娘、ハディージャ(御満悦あれ)は当時最も裕福で、賢く、礼節をわきまえた立派な女性でした。彼女は自分の豊富な財産を他人に運用させることで生計を立てていました。またアブー・ハーラという夫を亡くした寡婦でもありました。預言者(平安と祝福あれ)がとても信頼のおける人物で、誠実であり、寛大な性格の持ち主であることを耳にしたハディージャは、彼にシャームへ貿易のために旅してほしいと依頼しました。彼女は誰にも与えたことのない報酬を約束し、預言者(平安と祝福あれ)はマイサラという彼女の召使と共に出かけました。
預言者(平安と祝福あれ)がマッカに戻ると、ハディージャは自分の財産が守られているだけでなく、今までに見たことがない祝福に満ちていることに気付きました。そこでマイサラに、道中、彼(平安と祝福あれ)がどのような人物であったかを尋ねたところ、彼が高貴な性格と鋭い理性の持ち主であり、非常に信頼が置ける人であることが分かりました。地位と富に恵まれていたゆえにいろいろな人に結婚の申し込みを受けてもすべて断ってきていたハディージャは、預言者(平安と祝福あれ)のことを知った後、女友人であるナフィーサに心の内を明かします。話を聞いたナフィーサは、預言者(平安と祝福あれ)にハディージャと結婚するのはどうかと打診したところ、彼は承諾しました。預言者(平安と祝福あれ)が、おじ達にこのことを話した後、彼らはハディージャ(御満悦あれ)のおじのもとへ結婚の申し込みのために足を運びました。結婚はこの後すぐに成就しました。当時の彼女は40歳、預言者(平安と祝福あれ)は25歳でした。
ハディージャは、預言者(平安と祝福あれ)が初めて結婚する女性であり、イブラーヒームを除く彼の子全員を産んだ女性でもありました。また預言者(平安と祝福あれ)は、彼女が亡くなるまで他の女性を娶ることはありませんでした。
アル=カースィム(預言者(平安と祝福あれ)はアブ・ル=カースィムとも呼ばれる)に続いて、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、ファーティマ、アブドゥッラー(彼らに御満悦あれ)が誕生します。娘達は全員イスラームに帰依し、ヒジュラも経験しますが、ファーティマ以外は預言者(平安と祝福あれ)の生前に亡くなっています。なおファーティマは、預言者(平安と祝福あれ)の死後、6か月後に後を追うように亡くなりました。
8.カアバ修繕と深刻な危機の回避:
預言者(平安と祝福あれ)が35歳になると、クライシュ族はカアバに屋根を作り、修繕することで合意します。修繕箇所は各家に割り当てられ、工事は進められていきましたが、黒石(非常に尊重されていた天国から降下された石)を誰がそれに相応しい場所に置くかで意見がまとまらず、問題になりました。なぜなら皆がその名誉に与ることを希望したためです。揉め事は4,5日続き、やがて戦争になりかけます。
アブーウマイヤ・イブン・アル=ムギーラ・アル=マフズーミーという男が、「マスジドに最初に入って来る男に決めさせるのはどうだろう」と提案し、人々が賛成したことで何とか争いは避けることが出来ました。そして最初に入って来た男が、預言者(平安と祝福あれ)でした。入ってきた彼を見た人は、「これは信頼おける男(アミーン。当時のニックネームでもある)だ。彼なら文句はない」と言いました。
人々の問題を聞いた預言者(平安と祝福あれ)は、一枚の布に黒石を載せ、各部族に布の端を掴んで持ち上げるよう指示しました。人々はその通りに行い、石を運ぶと、預言者(平安と祝福あれ)ご自身が石を手にとってあるべき場所に置きました。このような英知ある方法でクライシュ族は戦いを回避することが出来たのでした。
9.召命前の預言者(平安と祝福あれ):
預言者(平安と祝福あれ)は、召命前から原因不明の不安を感じていました。当時の彼は、アッラーが啓示と預言者性を彼に賜ることになるとは露ほども思っていませんでしたし、そのようなことを夢見たこともありませんでした。アッラーは仰せになっています:「このようにわれは,わが命令によって,啓示(クルアーン)をあなたに下した。あなたは,啓典が何であるのか,また信仰がどんなものかを知らなかった。しかしわれは,これ(クルアーン)をわがしもべの中からわれの望む者を導く一条の光とした。あなたは,それによって(人びとを)正しい道に導くのである。」(クルアーン相談章52節)、「啓典があなたに届けられることは,あなたの予期しなかったところで,偏にあなたの主からの慈悲である。だから決して不信心者を支持してはならない。」(クルアーン物語章86節)
またアッラーに英知の一つに、預言者(平安と祝福あれ)を文盲とし給うたことがあります。つまり彼は何も書けず、読めない状態だったため、このことで、彼は敵たちに、啓示に関する疑惑をかけられることはありませんでした。これに関するクルアーンの言葉:「あなたはそれ(が下る)以前は,どんな啓典も読まなかった。またあなたの右手でそれを書き写しもしなかった。そうであったから,虚偽に従う者は疑いを抱いたであろう。」(クルアーン蜘蛛章48節)
また預言者(平安と祝福あれ)は純粋な理性を持ち成長し、誉れ高い人徳を備えていました。彼は長い沈黙の中で熟考しつつ、当時の人々の生活や社会の風習を眺めていました。彼らの行為の中でも良いものには協力し、悪いものにはいつものようにそれから離れるようにしていました。飲酒せず、偶像のために屠られた肉を食べず、偶像の祝い事や祭りには出席しませんでした。むしろ幼少時からこのような偶像たちから身を遠ざけており、そしてそれらを一番に嫌っていました。またアッラートとウッザー(偶像神)にかけた誓いの言葉にも耐えられませんでした。
もちろん、当初から彼が保護される運命にあったことに疑いはありません。現世を楽しみたい気持ちが起こったり、喜ばしくない当時の風習に彼が目を向けようとすると、彼を保護しようとするアッラーの力が、彼の中に入り込むのでした。これについていくつかの話が伝承されています。
(次回はいよいよ預言者(平安と祝福あれ)がアッラーから使命を授かります。)
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P110~114
②「封印された美酒」サフィーユッラフマーン・アルムバーラクフーリー著、ダール・アルフィクル出版、P38~40)
بسم الله الرحمن الرحيم
104章解説
1.災いなるかな、凡ての悪口を言って中傷する者。
2.財を集めて計算する(のに余念のない)者。
3.本当にその財が、彼を永久に生かすと考えている。
4.断じてそうではない。彼は必ず業火の中に、投げ込まれる。
5.業火が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。
6.(それは)ぼうぼうと燃えているアッラーの火、
7.心臓を焼き尽し、
8.彼らの頭上に完全に覆い被さり、
9.(逃れることの出来ない)列柱の中に。
アッラーはこの章の中で、人々の尊厳を低める輩を脅迫し給うています。彼らが所有している膨大な財産が彼らをこのような行為に急きたて、またこの財産は自分たちが他人よりもより上位にあり、自分たちだけが恩恵と地位を得ていると彼らに思わせています。
「災いなるかな、凡ての悪口を言って中傷する者」との御言葉でアッラーはこの章を始め給いました。ويلٌワイルとは:災いあれ、と悪さをするゆえに苦しむに相応しい人に向けられる祈願の言葉です。また:ワイルは地獄にある渓谷とも言われます。همزة لمزةフマザティは他人の悪口を言う人、ルマザは他人の尊厳を攻撃する人を指します。または:フマザとルマザは噂話をし歩いては仲を裂く人を指します。
「財を集めて計算する(のに余念のない)者」つまり、ケチな人たちが行うように何回も安心するためにお金を数える人のことです。こういった人は一人きりになって部屋の戸を閉め、自分のお金を数え、アッラーの道のためにそれを浪費せず、ザカーなどのアッラーに対する義務を全うすることがありません。
続けてアッラーは、この種の人たちに与える財の影響を解明し給います:「本当にその財が、彼を永久に生かすと考えている」この節は多くの人々の状態を正しく描写しています。彼らは財が現世において永遠を齎し、災難から守ってくれると思い込んでいます。しかし人間は人生が短く、現世の享楽が少なく、この現世の生活の裏に自分の行為について質問され、また清算される次の生活があることを知らないのでしょうか。
「断じてそうではない。彼は必ず業火の中に、投げ込まれる」:كلاّカッラー:妨げと叱責の言葉です。つまり、そのような者はこの行為とこの考え方を止めるべきだ、という意味になります。لينبذنّ ラユンバザンナ:放り投げ、投げ捨てる意味があるため、この単語は蔑視と屈辱感を連想させます。章の始まりの意味に以上が応答として述べられるのが自然です。なぜなら彼ら罪人は人々を軽蔑していたためです。応答は彼らが行ったことと同類のものであるということです。ではどこに投げ込まれるのでしょうか?彼らは「حطمة フタマ 業火」に投げ込まれます。それは、フタマと名付けられた地獄の火です。フタマには破壊という意味があるように、この火に投げ込まれるものはすべて壊されます。「業火が、何であるかをあなたに理解させるものは何か」この文章はこの地獄の火の偉大さと重要さを感じさせるものです。「ぼうぼうと燃えているアッラーの火」つまりアッラーの被造物の何者もそれを消すことが出来ないということです。「心臓を焼き尽し」この火は罪人たちの体を食い尽し、心臓に届いてそれも焼いてしまいます。ここで特に心臓が述べられたのは、そこに間違った信条が存在し、悪行が生まれる場所だからです。「彼らの頭上に完全に覆い被さり」この火は彼らの上に覆いかぶさります。「列柱の中に」柱は木や金属で出来ているものですが、彼らは金属の柱で苦しめられるか、この柱に縛り付けられ逃げられないか、火が柱によって閉じられてそこから逃げられないことを指しています。
(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P171~173)
②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2931~2933)
الراحة في الجنة
د.عائض القرني
{ لقد خلقنا الإنسان في كبد }
يقول أحمد بن حنبل , وقد قيل له : متى الراحة ؟ قال : إذا وضعت
قدمك في الجنة ارتحت .
لا راحة قبل الجنة , هنا في الدنيا إزعاجات وزعازع وفتن وحوادث
ومصائب ونكبات , مرض وهم وغم وحزن ويأس .
طبعت على كدر وأنت تريدها صفواً من الأقداء والأكدار
أخبرني زميل دراسة من نيجيريا , وكان رجلاً صاحب أمانة
أخبرني أن أمه كانت توقظه من الثلث الأخير , قال : يا أماه
أريد الراحة قليلاً . قالت : ما أوقظك إلا لراحتك , يا بني
إذا دخلت الجنة فارتح .
كان مسروق . أحد علماء السلف . ينام ساجداً , فقال له أصحابه
لو أرحت نفسك . قال : راحتها أريد .
إن الذين يتعجلون الراحة بترك الواجب , إنما يتعجلون العذاب حقيقة .
إن الراحة في أداء العمل الصالح , والنفع المتعدي , واستثمار الوقت
فيما يقرب من الله .
إن الكافر يريد حظه هنا , وراحته هنا , ولذلك يقولون :
{ ربنا عجل لنا قطنا قبل يوم الحساب } .
قال بعض المفسرين : أي نصيبنا من الخير وحظنا من الرزق قبل
يوم القيامة .
{ إن هؤلاء يحبون العاجلة } , ولا يفكرون في الغد ولا في المستقبل
ولذلك خسروا اليوم والغد , والعمل والنتيجة , والبداية والنهاية .
وهكذا خلقت الحياة , خاتمتها الفناء , فهي شرب مكدر , وهي مزاج
ملون لا تستقر على شيء , نعمة ونقمة , شدة ورخاء , غنى وفقر .
هذه هي النهاية :
{ ثم ردوا إلى الله مولاهم الحق ألا له الحكم وهو أسرع الحاسبين } .
فانظر أخى الحبيب أين انت من هؤلاء
و أسال نفسك ماذا قدمت من أجل دين الإسلام
لا اتكلم عن عبادات ( صلاة وصوم و زكاة و حج )
بل فهم شامل لهذا الدين و عن اعمال صالحة تلقى بها لله عز وجل
ビスミッラー。
このたび、新しく預言者伝の勉強会を始めることにしました。やっぱりこれが一番に優先されるべきテーマかと思います。
なぜなら預言者(平安と祝福あれ)というムスリムの模範であり、創造主アッラーに選ばれた人間がどのように生きたかを知ることは、正しイスラームを知ることに通じるからだと思うからです。いかがでしょうか?
実はこの前、どこかのアラブの国のTV番組が道行く人々に以下の質問を投げかけてインタビューをしていた動画を見て、悲しい現代のムスリムの実情を目の当たりにしました。
1.あなたが知っている有名人10人の名前を教えてください。
→これに自慢げ、そして嬉しそうに、しかも早口で皆答えていました。歌手、サッカー選手など…
2.あなたが知っているサハービー(教友)10人の名前を教えてください。
→なんと!誰も完全に応えられていませんでした。時に全く関係ないイスラーム系著名人の名前を挙げる人も…
中には1と2が逆転しているまじめそうな青年もいましたが、圧倒的にそうではない人が多いと思いました。
アラブでしかもムスリムで、学校でわずかでも習っているはずなのに、なぜ知らないのか?
…やはり無関心が一番の原因ではないのか、と思います。家でも教え込まれていないということは、親世代も無関心なのだと思います。
誰でも何かに関心を持っていれば、自ら進んでそのことを調べたり読んだりするものです。しかし関心がなければ、そのようなことなどよっぽどのこと(試験に出るとか)がなければしないと思います。
つまり彼らは(きっと敬愛してはいるものの)関心がないゆえにサハービーのことを知ろうとせず、結果的に名前さえも知らない状態になっているのでしょう。
…と話が飛びましたが…まだまだ説明しておきたいことはありますが、とりあえず今回はこのへんで。
余裕があればまた書きます、インシャーアッラー。
では以下に自分なりにアラビア語版預言者伝を参考にして書いた文章を載せますが、なんせ翻訳勉強中で文章を書くのが苦手ですので、誤字脱字やはっきりしない表現が多々あると思います。それでも私は預言者(平安と祝福あれ)の素晴らしさ、愛情、私たちが知り、見習わなければいけないさまざまなことを微力ながら伝えていきたいと思っているゆえあえて書いていきます。アッラーがこの行いを気前よく嘉納してくださること、そして読む皆さんの何かのためになることを心から願っています。
(2010/7/13訂正)
بسم الله الرحمن الرحيم
【預言者(平安と祝福あれ)の生誕から使命を任されるまで】
1.預言者(平安と祝福あれ)の両親、アブドゥッラーとアーミナ:
クライシュの長であった預言者(平安と祝福あれ)の父方の祖父、アブドゥルムッタリブには10人の息子がいました。彼らは人々の間で際立つ存在で、アブドゥルムッタリブはその中のアブドゥッラーをザハラ家の長の娘であるアーミナと結婚させました。彼女は当時、クライシュの中で最も良い家系の出身で地位ある女性でした。
アーミナがアブドゥッラーの子である預言者(平安と祝福あれ)を妊娠している間に、アブドゥッラーは亡くなります。アーミナは息子に何か特別なことがあるであろうことを示す多くのしるしを目にしました。彼女は次のように言い残しています:彼を生んだ瞬間、私の子宮からシャームの城の軍を照らす光が発せられました。(イブン・サアドが伝承。アフマドもアル=イルバード・イブン・サーリヤから似たような言葉を伝えています。)
2.高貴な生誕と芳香漂う彼の血統:
多数の伝承によると、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は、西暦570年ラビーウ・ル=アウワル月の12日、月曜日にお生まれになりました。他に571年とも569年とも言われています。その日は最も幸福に満ちた一日でした。
彼の血統を見ていきましょう。先祖を辿ると、アドナーン→マアド→ニザール→ムダル→イルヤース→ムドリカ→ホザイマ→キナーナ→アンナドル→マーリク→ファハル→ガーリブ→ルアイ→カアブ→ムッラ→キラーブ→クサイ→マナーフ→ハーシム→アブドゥルムッタリブ→アブドゥッラー→ムハンマド(平安と祝福あれ)となります。最終的にアドナーンの血統は、預言者イブラーヒームの子イスマーイール(お二人に平安あれ)に辿り着きます。
アーミナが彼(平安と祝福あれ)を生むと、祖父であるアブドゥルムッタリブに、孫が生まれたことを知らせる者を使いに遣りました。孫を見に来たアブドゥルムッタリブは彼を眺め、抱き上げ、カアバの中に連れて行きました。立ちながらアッラーに祈り称賛し、「ムハンマド」と名付けましたが、この名前は珍しかったため、周りのアラブ人はとても驚いたと言われます。そして当時のアラブ人が行っていたように、預言者(平安と祝福あれ)が生まれて7日目に割礼を施しました。
3.彼の授乳について:
まず数日に渡り、預言者(平安と祝福あれ)のおじアブーラハブの召使いであるスワイバが彼に授乳しました。彼女は以前に、預言者(平安と祝福あれ)のおじであるハムザ・イブン・アブドゥルムッタリブ(すなわち預言者(平安と祝福あれ)のおじ)にも授乳しています。続いてアブドゥルムッタリブは父親を亡くした最愛の孫のために、乳母を田舎から探しました。当時の習慣として、子の授乳と初期の教育を郊外に住む遊牧民に託すということがありました。そこには清潔な空気とその民が保っている道徳があり、都市の腐敗から遠ざかっていること、またそこで話されるアラビア語が由緒正しいことから、このような習慣が引き継がれていました。
乳母は、授乳とアラビア語の由緒正しさにおいて有名なサアド家から選ばれました。次に預言者(平安と祝福あれ)を授乳するという幸福をハリーマ・アッ=サアディーヤが獲得した背景を見てみましょう。彼女が授乳するための子を求めていた年は、干ばつに襲われ、人々は飢えと貧しさに苦しんでいました。ちょうどその時、孤児である預言者(平安と祝福あれ)が乳母たちに紹介されますが、彼女たちは引き受けを拒絶しました。なぜなら皆、赤子の父親から得られる報酬に大いに期待しており、彼(平安と祝福あれ)には父親がいなかったからです。「孤児なんて、母親と彼の祖父から何が期待できるでしょう」と彼女らは言うのでした。
ハリーマもその一人でしたので、最初は彼(平安と祝福あれ)から離れましたが、しばらくすると彼女の心が彼に傾きました。アッラーが彼女に預言者(平安と祝福あれ)に対する愛情を植え付け給うたのです。最終的に彼女は彼を預かって、自分の家(野営地)に戻りました。彼女は自らの手で祝福に触れ、その祝福は彼女の家のあちこちに現われ、それは彼女の友人たちを嫉妬させるほどでした。
アッラーから与え続けられる恩恵を感じならが、ハリーマは預言者(平安と祝福あれ)と2年間過ごした時点で授乳を止めました。預言者(平安と祝福あれ)は他の子と異なる様子で成長して行きました。ハリーマは彼(平安と祝福あれ)を母親アーミナに返そうとしましたが、母親はもうしばらくの間ハリーマの許に彼(平安と祝福あれ)を留めてもらうよう依頼したのでした。
ある日、二人の天使がサアド家と共にいた4~5歳の預言者(平安と祝福あれ)の許に現われ、彼の腹を切り、彼の心臓から黒い塊を取り出しては放り投げました。天使達は預言者(平安と祝福あれ)の心臓を洗ってきれいにしてから、元通りにしたのでした。この事件の後、彼のことを心配したハリーマは、母親のアーミナに、6歳になる預言者(平安と祝福あれ)を返したのでした。
この話の詳細はサヒーフ・ムスリムに以下のように収録されています:アナス・ビン・マーリクはこう伝えている:
天使ジブリールが仲間の少年たちと遊んでいたアッラーのみ使いの処にやってきた。天使は彼をとらえ、地面に寝かせ胸部を切り裂いて心臓を取り出し、そこから血の塊を摘出して後「これはあなたの中に巣くっていた悪魔(シャイターン)の一部です」といった。その後天使は、ザムザムの聖水の入った黄金製の水盤の中でそれを洗い清め、綴じ合わせてそれを元の場所に戻した。一緒に遊んでいた仲間の子供たちは、彼の育ての母、つまり、乳母の処に駈けて行き、「ムハンマドが殺された」と叫んだ。それで人々は急いで彼の処まで行ってみた。しかし彼は無事でただ顔色のみがいつもと変っているだけだった。これに関連しアナスは「私自身、ムハンマド様の胸部に、その時の縫い痕を見ました」と語っている。(1巻 P.122-134)
預言者(平安と祝福あれ)は乳兄弟とともに羊を飼いました。彼は簡素さと天性、崇高な田舎の生活、サアド家が得意とする純粋なアラビア語の元で成長しました。
4.アーミナとアブドゥルムッタリブの死:
預言者(平安と祝福あれ)の父親であるアブドゥッラーは、彼が生まれる前に亡くなっています。当時彼は貿易の仕事でシャーム地方からマッカに帰る途中で病気になり、ヤスリブに到着すると若くして亡くなりました。なおヤスリブは預言者(平安と祝福あれ)の母方の家族であるアディー・イブン・アン=ナッジャール家の故郷です。アブドゥッラーが何歳で亡くなったかについて意見が分かれていますが、25歳、もしくはもっと若かったと見られています。
預言者(平安と祝福あれ)が6歳に達すると、アーミナは彼を連れてマディーナへ発ちます。母方の祖父と父親の墓を訪れるためでした。マッカに戻る途中、マッカとマディーナの中間にある「アル=アブワーゥ」という町でアーミナに死が訪れました。預言者(平安と祝福あれ)は母親との別れによる辛さと、一人ぼっちになった寂しさを味わいましたが、実はこの苦しみは、彼が生まれたときから存在していました。この事実には、アッラーしか知り得ない、彼への教育の秘密が隠されています。ウンム・アイマンという女性が、幼い預言者(平安と祝福あれ)を連れてマッカに戻り、祖父アブドゥルムッタリブに彼を返しました。預言者(平安と祝福あれ)は、祖父にとても愛され、カアバの陰でいつも一緒に過ごしていました。
預言者(平安と祝福あれ)が8歳になると、アブドゥルムッタリブが亡くなります。預言者(平安と祝福あれ)は再度孤児になる苦しみを味わいますが、前に比べもっと辛いものでした。彼(平安と祝福あれ)は父親を見ず、父親の優しさと愛情に浴する機会がありませんでしたので、父親を喪失する寂しさと、実際に接してきた祖父を失う寂しさの間には、大きな差がありました。そして次に、父方のおじであるアブー・ターリブに預けられます。
5.アブー・ターリブと共に:
祖父を亡くしてからは、父親アブドゥッラーの兄にあたるアブー・ターリブと過ごす預言者(平安と祝福あれ)。生前からアブドゥルムッタリブは、預言者(平安と祝福あれ)のことをアブー・ターリブに遺言していたため、彼は弟の子を慈しみ、実子であるアリー、ジャアファル、アキールたちよりも彼に情を示しました。
次のような話が伝わっています:アブー・ターリブが貿易のためにシャームへ旅立とうとした時、9歳だった預言者(平安と祝福あれ)はおじに甘えてよりかかりました。甥を慈しんだアブー・ターリブは一緒に旅に連れて行くことにしました。隊商が留まった、ローマが統治する地内にある「ボスラー」には当時、バヒーラーと呼ばれる修道僧がいました。彼はアブー・ターリブたちを歓迎し、食事を提供しましたが、決してこれが彼の慣習であるというわけではありませんでした。このように振舞ったのは、彼が、アッラーによって預言者(平安と祝福あれ)に現わされた数々の奇跡を目にしたためでした。実際に目の前に預言者(平安と祝福あれ)を見ると、そこには預言者たる者の兆候が確認できました。バヒーラーは、アブー・ターリブに、彼の甥に与えられた崇高な地位について話しました:「あなたは甥を連れて、すぐにお国に帰るべきです。くれぐれもユダヤ人たちにはお気をつけください。」これを聞いてアブー・ターリブは、預言者(平安と祝福あれ)を連れてマッカに戻りました、もしくは数人の召使いと共に預言者(平安と祝福あれ)をマッカに送り届けたと言われます。
6.アッラーによる教育:
預言者(平安と祝福あれ)はアッラーの庇護の許、ジャーヒリーヤの穢れた習慣から遠ざかった状態で成長しました。そのため民の中で最も男らしく、道徳心に篤く、羞恥心は激しく、話せば正直で、最も信頼され、醜悪から最も離れていました。このような美徳の数々を備えていたため、人々は彼を「アミーン(信頼おける人)」と呼びました。アッラーは、預言者(平安と祝福あれ)が相応しくない環境に転落することや、ジャーヒリーヤの人々が悪いと思っていなかった悪習から、彼を守り給いました。預言者(平安と祝福あれ)は親類づきあいを大切にし、高齢者の重い荷物を運び、訪問者を寛大に歓待し、善行を進んで行い、自ら稼いだ糧で生活していました。
預言者(平安と祝福あれ)が14,5歳になると、クライシュとカイスの間でフッジャールの戦いが起こりました。預言者(平安と祝福あれ)もこの戦いに参加し、おじたちに弓矢を渡しました。この経験から預言者(平安と祝福あれ)は戦争を知り、馬術と男らしさを習得したのでした。
預言者(平安と祝福あれ)は成長すると、羊を放牧しました。羊を飼うことで、尊い糧、心理的成長、弱者に対する同情、清潔な空気、身体の強化などを得ることが出来ました。実はこれらすべては預言者たちの慣行の追従なのです。預言者として任命された後に、預言者(平安と祝福あれ)は次のように言われています:どのような預言者も必ず羊を放牧したものです。人々に:あなた様もですか?アッラーの使徒さま!と言われ、私もです。とお答えになりました。
預言者(平安と祝福あれ)は、サアド家にいたときに乳兄弟たちと羊を飼ったことがあったので、羊の扱いには慣れていました。正しい伝承によると、彼はマッカでも他人の羊を預かって放牧していたとのことです。
(次回は預言者(平安と祝福あれ)とハディージャ(御満悦あれ)の結婚など)
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P99~109
②「封印された美酒」サフィーユッラフマーン・アルムバーラクフーリー著、ダール・アルフィクル出版、P34~37)