「アジュルأجرとサワーブثوابとジャザーゥのجزاء違い」
について調べてみました。
----------------------------
アジュル:奉仕のお返し、賃金。
身体を使った崇拝行為に対して発生する見返り(宗教的定義)。
サワーブ:奉仕に対する報い。良い意味で使われることが多い。
ジャザーゥ:行動に対する報い。良い報いであれば、褒美。悪い報いであれば、罰など。
(亜-亜辞典、亜-和辞典などより)
----------------------------
以上三つを使った、自分に良くしてくれた人に対して出来るドゥアーをご紹介します。
1.アジュル:
「アッジャラカ(キ、クム)ッラー」:アッラーがあなたによくお返ししてくださいますように。
2.サワーブ:
「アサーバカ(キ、クム)ッラー」:アッラーがあなたに良く報いてくださいますように。
3.ジャザーゥ:
「ジャザーカ(キ、クム)ッラーフ ハイラン」:アッラーがあなたに良いものを報いとして与えててくださいますように。お返しのドゥアーは、「ワイッヤークム(あなたがたにも。)」
----------------------------
アッラーの御加護と祝福がみなさんにたくさんありますように。
当ブログを見てくださっている皆さま
アッサラームアライクム
そして、新年のご挨拶をお送りします。
昨日の晩、ヒジュラ暦1月(ムハッラム)に入りました。
過ぎた年と同じように、昨年もいろいろなことが起き、そこから多くを学びました。
始まったばかりのこの年に起こるすべてのことからも、現世と来世で益になることを学べますように。
皆さんに、アッラーからの変わらぬ御加護と祝福と、導き、そして多大な成功がありますように。
皆さんそれぞれが望む良いことすべてが叶いますように。
ムスリムがムスリムであることを思い出すことで、ウンマに良い改善がありますように。
心から祈っています。
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
【ムハッラム月のスンナの斎戒】
ムハッラム月の9日と10日の斎戒はスンナです。
(今回の場合、26日と27日が該当します。)
スンナとは、預言者(平安と祝福あれ)の慣行で、勧められた崇拝行為です。義務ではないけれど、預言者(平安と祝福あれ)が好んで行われたことを模倣することは、大きな幸福の成就を私達にもたらしてくれるきっかけになります。
وعَنْ أَبِي قَتَادَةَ رضي الله عنه ، قَالَ رَسُولُ اللَّهِ صلى الله عليه وسلم : صِيَامُ يَوْمِ عَاشُورَاءَ أَحْتَسِبُ عَلَى اللَّهِ أَنْ يُكَفِّرَ السَّنَةَ الَّتِي قَبْلَهُ.
( صحيح مسلم، 1162(196) ).
アブー・クターダによると、アッラーの使徒(平安と祝福がありますように)は言われた:私は、アーシューラーの日の斎戒により、前の年(の罪業)をアッラーが赦してくださることを望みます。(ムスリム)
وعَنْ ابْنِ عَبَّاسٍ، رَضِيَ اللَّهُ عَنْهُمَا، قَالَ: أَمَرَ رَسُولُ اللَّهِ صلى الله عليه وسلم بِصَوْمِ عَاشُورَاءَ: يَوْمُ الْعَاشِرِ.
( صحيح / صحيح سنن الترمذي للألباني، 755 ).
イブン・アッバース(アッラーのご満悦がありますように)は言った:アッラーの使徒(平安と祝福がありますように)は、アーシューラー:つまり(ムハッラム月の)10日目に断食するように命じられた。(アル=アルバーニーのアッ=スナン)
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
どうして、9日と10日を一緒に斎戒するか?というと・・・
ムハッラム月10日に斎戒するユダヤ人たちに反するため、といった理由も考えられます。この斎戒の叡智については、アッラーのみが最も良く御存知です。
なお、10日に斎戒して、前日の9日にしなかった人は、11日に(10日に続けて)斎戒することが好まれます。
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
قال النبي صلى الله عليه وسلم : (أفضل الصيام بعد رمضان شهر الله المحرم). رواه مسلم
預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:ラマダーン月に次いで断食において優る月は、アッラーの月であるムハッラムです。
**********************************
ご指摘の「アッズマル章53」の言葉は、「タウバの存在」と、「罪がアッラーに同位者を置く(シルク)でないこと」という条件があって、成立します。つまり、シルク以外のすべての罪は、タウバすれば赦されるということです。女性章48節を参照してください。
人に対しての罪はどうか?ですが、
他人の権利を返上することが困難でない場合、きちんと出頭なりするべきだと思います。
しかし、「アッラーは100人殺した男を赦した」というハディースがアル=ブハーリーとムスリムにあるので、他人の権利を何らかの理由で返上できず、タウバだけになってしまっても、アッラーは赦してくださる、とも理解できます。
殺人罪からのタウバについての他の意見に、次のようなものがあります:殺人罪からの完全なタウバ(悔悟)には、
①タウバに必要な諸条件
②自分自身が報復刑に処されるために、出頭すること。もしくは報復権を放棄した遺族に血債を支払うために、出頭すること。
が必須。
もし罪人が①の条件に適ったタウバをしても、報復刑に処されるために出頭しなかった場合、彼のタウバは正しいが、出頭していないという罪は残る。これは他人の権利に関連している独立した罪なので、別のタウバが必要。
参考に、「人間の権利の種類」を以下に述べます。
1.金品:持ち主に返すか、持ち主に自分がそれを持っている・いたことを伝えた後に放免してもらう。
2.尊厳など金品と関係ないもの:タウバ実現の条件に、本人にその罪について知らせるべき(私はあなたの悪口を言いましたなどと、と被害者に伝えること)かどうかで、学者間で意見が分かれている。
①アブー・ハニーファ、アッ=シャーフィイー、マーリク、アフマドの伝承:知らせることは、条件。
②イブン・タイミーヤが選んだアフマドの別の伝承:被害者に知らせる必要は無い。知らせることで、不仲になったり、問題解決がさらに難しくなるため。→①以外は、後悔とイスティグファール(罪の赦しを乞うこと)とその罪に二度と戻らないと決心することと、自分の不品行のために被害者となった人のために祈ることで足りる(=イブン・タイミーヤの見解)。
3.1、2と違うが他人の権利が絡むもの:誰かの被害者の報復刑の権利
参考文献:タサッウォフのひらめきとその歴史、アッ=サーイフ・アリー・フサイン著、79~81項
アッ=タフスィール・アル=ワスィート第一巻、ワフバ・アッズハイリー著、363項
شَكَوْتُ إلَى وَكِيعٍ سُوءَ حِفْظِي
فَأرْشَدَنِي إلَى تَرْكِ المعَاصي
وَأخْبَرَنِي بأَنَّ العِلْمَ نُورٌ
ونورُ الله لا يهدى لعاصي
有名な、アル=イマーム・アッシャーフィイーの詩
「暗記が出来ないとワキーゥ師匠に訴えたところ
罪を放棄しなさいと忠言された
また、知識は光であり
アッラーの光が罪人に贈られることはないと教えてくださった」
「有」と「無」を巡る理性的必然の根拠
※Al-Ujud「有」:もとから存在しているという意味。
Al-‘Adam「無」:もとから存在していないという意味。
Al-Asl「元」:源泉、元来等という意味。
1.創造主の元は「有」であるので、かれの存在は「必然」である。
2.宇宙の元は「無」であるので、その存在は「可能」である。
3.「可能」である存在が存在している原因は、存在が「必然」である存在の他ならない。
四段階を経た説明を見ていこう:
【第一段階】
この世界に生きる人間の誰もが、「有」が「無」と相対関係にあること、そして「有」と「無」の他に第三者が存在しないことを疑わないだろう。
この二つの内、片方が確定すると、もう片方は明らかに消える。また片方が消えれば、もう片方は確定する。
ここで私たち自身に問うてみよう:どちらが元なのか?一般的な「無」に相対する「有」が元なのか、それとも、一般的な「無」が元なのか?
この問いに答えるために:どちらかが元であると仮定する方法を採ればよい。そしてそれを元であるとした場合に無効性が見出せるか見極める。
この方法に沿って、心に浮かぶ全てのものの存在の元が:「無」と仮定しよう。
「無」の意味は:心に浮かぶもの、そしてその性質が存在しないこと。つまり、個として存在しないこと、無力、無意思、無知、無命、何も無いこと。
この仮定に基づいて自問してみよう:「無」はどのようにして―それが元である―「有」の状態に変わることができたのか?私たちは自分たちの存在を感じているのではないか?私たちの周りにある数多くのものを見ているのではないか?先に述べたように、「無」の意味は、心に浮かぶ全てのものが一般的に存在しないことを指す。ではどのようにしてこの一般的な「無」から数多くの個体や属性や力がやってくるのか。自身で「無」から「有」に移動したというのか。しかし、この移動は力なしには実現しない。この「力」の元も「無」のはずでは?
直感的に、「無」がひとりで「有」に変身するのは不可能であるし、「無」が何かを存在させることも不可能である。
この件を指すクルアーンの言葉:
「彼らは無から創られたのか、それとも彼らが創造したのか。」(トゥール章52節)
つまり:彼らは創造主なしで「無」から「有」に移動したのか?それとも彼らが彼ら自身を創造し、この移動を成したのか?これは直感的に、両方とも不可能なことである。
ということで:「無」が一般的な「元」であれば、数え切れないこの現存物の一つも存在しなかっただろう。だからこそ私たちは「元」が「有」であると理解しなければならない。
この根拠により、決定的理性的に「無」が元であると成立しない、と確定する。
事実がそのようであるということ、つまり「元」は「有」であることが、同じく決定的理性的に確定する。なぜなら―先に述べたように―「有」は「無」の反対語で、二者の間に入るものは無いからである。
また、相対関係にある二者を巡る「元」の存在に、理由付けや説明は不要である。なぜならそれが存在のために理由を必要としたら、それは「元」とは言えないからである。「元」ではない諸現存物こそが存在するための原因や理由を必要とするのである。
この証明により、二つのことが判明した:
(A)「元」は、「有」であること。
(B)「元」は、 “「元」と言われること”以上の原因や理由を理性での理解のために必要としないこと。
【第二段階】
疑いの余地なく「有」が「元」であるなら、この「元」に「始まり」があることは可能だろうか?そして、この「元」に「無」が続くことは可能だろうか?
この問いに答えるために:
1「有」が「元」であるものの存在に「始まり」があることは理性的に正しくない。なぜなら、その存在に始まりがあるものは、必ず「その存在」を存在させた原因を必要とするからである。そうであるとするなら、その存在が「元」であることはない。
2その存在が「元」であるものに「無」が続くことは不可能である。その存在が「有」であるものを基に私たちは全ての経過する時間に無が発生するとするからである。「有」が「元」であるという事実が継続しているということは、「元」に「無」が発生する理由が決して無いということである。なぜなら「無」は、元来から「無」を属性として持つ存在にしか発生しないからである。
そのため、私たちが「元」であると理解する「有」に「無」が発生することは理性的に不可能である。
この真実を指すクルアーンの言葉:
「死ぬことのない生き給う御方にお任せしなさい。」(識別章58節)
「死ぬことのない行き給う御方」とは、その存在が「元」である御方である。そのため無と死がかれに発生することはない。
【第三段階】
以前の二つの段階で分かったことは:
A.理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
B.その存在が「元」であるものに始まりがあったり、「無」が発生することは不可能であること。
では、私たちが見、感じる世界に現存するものたちに目を向けてみよう。それらの「元」は「有」なのか、それともその反対である「無」か。
ここである事実が見えてくる:私たちはかつて存在したことはなく、その後に存在した、ということである。そして私たちは精巧な造りをした存在であることだ。イチジク章4節で至高なる御方は次のように仰せられた:
「まことにわれは人間を最も優れた形に創造した。」
また多くのものがかつて無の下にあり、その後になって私たちが継続して目にしているようにそれらは存在していることである。
また私たちが感じ、また目にする各個体に起こっている継続的な多くの変化などの現象もそうである。
ここで言えるのは:私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「有」なら、変化や変身、増減、消滅などに晒されることはなく、存在するためや変化のために理由やきっかけを必要としないということである。
しかし実際には、それらは変化や変身に晒されており、その(変化などの)法則が原因や影響を与えるものをそれらに必要とさせている。そのため、理性的に存在物の「元」が「有」ではないことが確定する。つまり存在物の「元」は「無」である、ということである。
そのため、存在物はその存在のために、それらを存在させる原因を必要とする。
この段階で判明したことは:
A.私たちの感覚がとらえる現存する全てのものの「元」が「無」であること。
B.現存する全てのものの「元」が「無」ということは:それ(現存する全てのもの)に影響を与える原因で、「無」の状態から「有」へ連れ出した存在があることが理性的に必然となること。またその存在は、継続的に現存する全てのものに影響を与えていること。
私たちの「元」は「無」であり、私たちは存在しなかった後に存在したことがクルアーンに載っている:
「人間にはなにものとも呼べない、長い時間があったではないか。」(人間章1節)
「無」を経験したものには必ずそれを存在させた存在があることが直感で理解できるのは周知の事実である。その存在こそが、創造主である。
【第四段階】
以前の三つの段階で三つの事実が判明した:
1理性的に「有」が「元」でなければならないこと。
2その存在が「元」であるものに、始まりと無が発生することは不可能であること。
3現存する全てのものの「元」は「無」であり、それらは存在するために存在するための原因を必要とすること。
この三つの事実が判明したので、理性が完全に、異議なくそれらを受け入れるよう和解する必要がある。そのために言えることは:
第一:理性的に、偉大な存在の存在が必然であること:その存在は現存する全てのものの「元」であり、その存在が「無」となることは不可能であるので、その存在は、「理性的に存在が必然である御方」である。
第二:目に見える世界の「元」は「無」であること。そしてそれらを「無」から「有」へ連れ出し存在させる原因が生じていること。
第三:世界を存在させている原因が、偉大なる存在のほかにないこと。その存在は「元」であり、その存在は、存在が必然である御方である。かれは、「至高なるアッラー」である。
締めくくりの言葉:
この解説により、「アッラーはどのように存在したのか?」といった疑問は完全に消えるだろう。なぜならこれは論理にも理性にも基づかない疑問だからである。しかしこの問いは、その「元」が「無」である存在に対して有効であるといえる。なぜならそれは、「無」から存在させてくれる存在を必要としているからである。
かわって、理性的にその存在の「元」が「有」で、「無」が相応しくない存在にこのような疑問が沸くことはどんな場合でもあり得ない。この種の問いが意図していることは、「(その御方の)「元」は、「有」である」という科学的に確定した真実で消えるのである。
以下に、「預言者祝福祈願」について説明したものを貼り付けておきます。これを読むことで少しでもいつもの預言者(平安と祝福がありますように)への祈りの質が向上することを望みます、インシャーアッラー。
私たちの彼に送る挨拶によって、アッラーも私たちを祝福し給いますように。アーミーン。
-------------------------------------------------------------------
★預言者(平安と祝福あれ)への祈願が好まれる機会
①ドゥアーの前。
《ドゥアーする際、まずアッラーを賛美し、賞賛し、預言者に祝福祈願しなさい。そのあとに望むことを祈ればよい。》(アブー・ダーウードとアッ=ティルミズィー他伝承)
《サラーに立つ者が預言者に祝福祈願するまで、ドゥアーは覆われたままである。》(アッ=タバラーニー伝承)
②彼の名を述べる時、耳にする時、書く時。
《私の名が述べられても私に祝福祈願しない男の鼻は捻じ曲げられるだろう。》(アッ=ティルミズィー伝承)
※み使いが述べられたときに「サッラッラーフアライヒワサッラム(平安と祝福あれ)」と言おうとしない人を責めています。
③彼への祝福を多くするとよいとされる金曜日。
《あなたたちの日々のうちで最も良い日は金曜日なので、その日には私に多くの祝福祈願をするように。まことにあなたたちの祈りは私に提示されている。》(アブーダーウードなど)
④手紙や、バスマラ〔ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミという文句〕の直後。
アル=カーディー・アイヤードは言った:「イスラーム初期には存在せず、アッバース朝がし始めたことであるが、ウンマはそれを受け入れ、異端と見なさなかった。人々の間にそれは広がり、著作の締めくくりに預言者(平安と祝福あれ)への祝福を記す者もいた。」
⑤マスジドの出入り時。
ファーティマ(アッラーのご満悦あれ)の伝えるハディース:《マスジドに入ったら、ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミ、ワッサラーム アラー ラスーリッラー、アッラーフンマ サッリ アラー ムハンマド ワアラー アーリ ムハンマド・・・(慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において、アッラーの使徒に平安あれ、アッラーよ、ムハンマドとムハンマド一族にに祝福を。)と言いなさい。》(イブン・マージャ、アッ=ティスミズィーなど)
★どのように預言者(平安と祝福あれ)に祝福と挨拶を送るか
至高なるアッラーは、以下のように仰せられた。
『本当にアッラーと天使たちは、聖預言者を祝福(ユサッルーナ)する。信仰する者たちよ、あなたがたは彼を祝福(サッルー)し、(最大の)敬意を払って挨拶(サッリムー)しなさい。』(33/56)
※私たちしもべの側からアッラーに対するサラーは、「祈り」と解され、アッラー・天使・しもべの側から預言者(平安と祝福あれ)に対するサラーは、「祝福」と解されます。(詳細はタフスィールを参照)
アーヤを基に、預言者(平安と祝福あれ)に祝福を送る際、サラーム(挨拶)もセットで送ることが好ましい。この形で祈ることがアッラーの私たちに対する呼びかけに応じた正しい姿であるゆえ、報酬が相応しくなる。
アブー・ムハンマド・イブン・アジュラによると、預言者(平安と祝福あれ)が現れたところに、彼は次のように尋ねた:アッラーの使徒よ、あなたへの挨拶(タスリーム)の仕方は分かりましたが、祝福(サラー)の仕方が分かりません。預言者(平安と祝福あれ)は答えて言われた:《次のように言いなさい:アッラーフンマ バーリク アラー ムハンマド、 ワアラー アーリ ムハンマド、 カマー バーラクタ アラー アーリ イブラーヒーム、 インナカ ハミードゥン マジード(アッラーよ、以前にイブラーヒーム一族に栄光を授け給うたように、ムハンマドとムハンマドの一族に栄光をお授けください。まことにあなたこそ全ての賞賛と栄光の主です。)》(アル=ブハーリー、ムスリム)
アブー・ハーミド・アッ=サーイドによると;人々が、アッラーの使徒よ、どのようにあなたに祝福すればよいですか、と尋ねた。彼は次のように言われた:《アッラーフンマ サッリ アラー ムハンマド、 ワアラー アズワージヒ ワズッリッヤティヒ、 カマー サッライタ アラー イブラーヒーム、 ワバーリク アラー ムハンマド ワアラー アズワージヒ ワズッリッヤティヒ、 カマー バーラクタ アラー イブラーヒーム、 インナカ ハミードゥン マジード(アッラーよ、以前にイブラーヒーム一族を祝福し給うたように、ムハンマドとその妻たちと子孫を祝福してください。以前にイブラーヒーム一族に栄光を授け給うたように、ムハンマドとその妻たちと子孫に栄光をお授けくだ
さい。まことにあなたこそ全ての賞賛と栄光の主です。)と言いなさい。》(アル=ブハーリー、ムスリム)
上記の二つのハディースは、完全な性質を備えた預言者(平安と祝福あれ)祈願といえる。
★預言者(平安と祝福あれ)に祝福と挨拶を送る徳
預言者(平安と祝福あれ)が次のように言われるのを聞いた、とウマルが言った:《ムアッズィン(アザーンの呼びかけをする人)の声が聞こえたら、同じことをあなたたちも言いなさい。そして私に祝福祈願をしなさい。まことに私に一回祝福祈願した者をアッラーは10回祝福し給う。そして私にワスィーラが与えられるよう求めなさい。それは天国における地位であり、アッラーのしもべ以外にはにふさわしくないもの。私は、私がそれを得ることを望む。そのため私にワスィーラが与えられるよう祈る者には私の執り成しが与えられるだろう。》(ムスリム)
※ワスィーラ:天国における高い位階
アブドゥッラフマーン・イブン・アウフは言った:私がサジダを長時間にわたって行っているみ使いのところにやって来ると、彼は次のように言われた:《私のところにジブリールがやって来て、「あなたに一回祝福祈願した者を私は祝福し、あなたに一回挨拶した者に私は挨拶しよう。」と言ったので私はアッラーに感謝のサジダをしたのだ。》(アル=ハーキム、アル=バイハキーなど)
アブドゥッラー・イブン・マスウードによると預言者(平安と祝福あれ)は言われた:《まことにアッラーには、私にウンマのサラームを私に伝えてくれる往来する天使たちがいる。》と言われた。(アン=ナサーイー、アル=ハーキムなど)
またこうも言われた:《私に一度祝福祈願した者をアッラーは10度祝福し給い、10個の罪を消し給い、10段位を上げ給う。》(アフマド、アル=ブハーリーなど)
ジャービル・イブン・アブディッラーによるハディース:預言者(平安と祝福あれ)は次のように言われた:《(礼拝への)呼びかけを耳にし、「ラッバ ハーズィヒッダワアティッターンマ ワッサラーティルカーイマ アーティ ムハンマディン アルワスィーラ ワルファディーラ ワブアスフ マカーマン マハムーダニッラズィー ワアッタフ(この完全なる呼びかけと、まさに行われようとしている礼拝の主よ、ムハンマドにワスィーラと栄誉を与え給い、そしてあなたが彼に約束し給うたところの賞賛に溢れた位階に彼を蘇らせ給え。)」》(アル=ブハーリー)
※ジャービルの伝えるハディースのアザーン後のドゥアーは、イスラミックファインダーのアザーン後に流れるドゥアーと同じです。
★預言者(平安と祝福あれ)祈願をしない者に対する叱責
アリー・イブン・アビーターリムによるハディース:《完璧な吝嗇者とは、私の名前を聞いても祝福祈願しない者のことだ。》(アン=ナサーイー・アッ=ティルミズィーなど)
アブーフライラによるハディース:《会合に参加した者たちが、アッラー念唱と預言者祈願をせずに解散した場合、アッラーは彼らに重荷を下し給う。かれが御望みになれば彼らを罰し給い、かれが御望みになれば彼らを赦し給うだろう。》(アッ=ティルミズィー、アブー・ダーウード)
(完)
youtubeで観られる簡単イスラーム解説です。
おそらく日本語で初めてじゃないですかね?良い仕上がりになっています。
もっといっぱいupして欲しいですね。
ご覧になった方も宣伝よろしくお願いします。
続きはこちら↓
1. http://www.youtube.com/watch?v=u4bndXaZxkg
2. http://www.youtube.com/watch?v=BCrzROxOyeo&feature=related
3. http://www.youtube.com/watch?v=hEbPGQYhalM&feature=related
4. http://www.youtube.com/watch?v=mWwB8O3XKr0&feature=related
5. http://www.youtube.com/watch?v=GvjHFchCxY8&feature=related
6. http://www.youtube.com/watch?v=yuH8pJtNXcw&feature=related
7. http://www.youtube.com/watch?v=xDuTxJO5iaw&feature=related
8. http://www.youtube.com/watch?v=gl8KNU6iVB8&feature=related
あの人は金持でいいな
あの人は幸せそうでいいよなぁ~
あの人は健康そのものだな
あの人に悩みなんてないだろうな
あの人には子供がいていいなぁ
あの人の家、でかくていいなあ
きれいでやさしそうな奥さんがいていいなぁ
かっこよくてやさしそうなだんなさんがいていいなぁ
成績が良くていいなぁ
美人でいいなぁ
背が高くていいなぁ
痩せてていいなぁ
いいなぁいいなぁいいなぁ
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
いいなぁ・・・は、うらやむ気持ちを表す言葉であると同時に、思い込んでいることを表す言葉であると思う。
うらやましがる方は勝手にうらやましがってればいいかもしれないが、
うらやましがられる方は、うらやましがられていることが事実じゃない場合、非常に迷惑だと思う。
金持ちだと思い込んでいたら、実はそうでもなかったってこと、よくありませんか?
成績がいいからいいなぁと思っていたら、学校の勉強以外のことには何も知らず、また興味を持たない人だったってこともよくありませんか?
それが分かったとき、自分はなんて愚かな思い込みをしていたんだろうって苦しくなります。
皆それぞれ、悩み、問題、苦しみなどがあり、それらを背負って、一生懸命生きてると思う。
他人のことを思い込んで、うらやましがっても何も生まれない。
生まれるのは、誤解のみ。
誤解されるのはいい迷惑です。
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
إياكم والظن فإن الظن أكذب الحديث
「思い込みに気を付けるように。本当に思い込みとは、言葉の中で一番の嘘である。」(アル=ブハーリー、ムスリムなど)
゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜
كم من مشكلة وقعت بين الناس بسبب سوء الظن المبني على خطأ المعلومات المنقولة وعدم التحقق
والتبين منها. فمن صفات المؤمن التحقق والتبين.
間違って伝わった情報やその真偽を確かめないことが原因の誤解のために、多くの問題が人びとの間で起きてしまっている。
真たる信者の特質のうちにあるのが、「確かめること」、「はっきりさせること」である。(疑わしいときは、はっきりさせないといけない、ということ。)