120.おまえ達の上から、そして、おまえ達の下から彼らがおまえ達の元にやって来た時:
ついにクライシュ族がマディーナの前に10000人から成る兵とやって来ました。彼らと共に、仲間を連れたガタファーン族も現れ、彼らもマディーナの前に到着しました。彼らを出迎えたアッラーの使徒(平安と祝福あれ)と信徒たちは3000人で、彼らの間を塹壕(ざんごう:戦いにおいて敵から身を守るために陣地の周りに掘る穴または溝)が隔てていました。
かつて信徒たちとバニー・クライザ族の間には協定が結ばれていましたが、バニー・ナディール族長であるフヤイ・イブン・アハタブがそれを破らせようとしました。始めは躊躇(ちゅうちょ)していたバニー・クライザ族ですが、最終的には、協定を破ってしまいました。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)がその事実を知った時から、様々な災難が起こり、恐怖に襲われました。そして偽信者たちから、偽信仰がはっきりと現れ始めました。そこでアッラーの使徒(平安と祝福あれ)は、ガタファーン族に、マディーナで収穫されるナツメヤシの三分の一を差し出すことで彼らと和解し、戦いを避けようと考えました。こうすることで、アンサールが戦いで負ったダメージを、少しでも軽減できると考えたのです。
しかし、この考えを後に放棄することになったのは、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)が、サアド・イブン・ムアーズとサアド・イブン・ウバーダの強硬な態度と敵に対する厳しさを知ったためです。サアド・イブン・ムアーズは言いました:アッラーの使徒さま!かつて私たちと彼らは、共にアッラーに同位者を配し、多神を崇め、アッラーを崇めることもかれを知ることもありませんでした。彼らは分けてもらうか、買うことでしかマディーナのナツメヤシを口にしたことがないのに、アッラーがわれわれにイスラームという栄誉を与え、導きをお与えくださり、あなたさまとアッラーによって、われわれが強固にされた後になって、彼らにわれわれの富を与えるというのですか?アッラーにかけて、そのような必要などありません!アッラーにかけて、アッラーがわれわれの間を裁いてくださるまで、彼らに与えるべくは剣のみです!アッラーの使徒(平安と祝福あれ)は言われました:あなたの望むことをなさい、私は同意しましょう。
121.イスラームの騎士とジャーヒリーヤの騎士の間で:
敵がアッラーの使徒(平安と祝福あれ)と信徒たちを囲みました。何と、彼らの間に戦いは起きず、ただ、クライシュの騎士の一人が、馬の走る速度を速めると、塹壕の前で立ち尽くしました。敵たちは塹壕を見て声をそろえて言いました:アッラーにかけて!今までにアラブが考えたことのない戦略ではないか!
敵たちは、塹壕の中に、自分たちが通ることができる幅の狭い所を探し、騎士らはそこからマディーナに入って行きました。その時にいた騎士に、アムル・イブン・アブドゥ・ウッドがいました。彼は1000人の騎士に相当するほど強いことで有名でした。彼は立ち止まると言いました:誰が私と一騎打ちするか?アリー・イブン・アビー・ターリブがその要求に応え、言いました。:アムルよ!君はかつて、クライシュの人間が二つのことに君を導こうとしたとき、そのうちの一つを採ることをアッラーに誓ったはずだ。
アムル:確かに。
アリー:では、私は君をアッラーとその使徒、イスラームに誘おう。
アムル:私にその必要はない。
アリー:では一騎打ちをしようではないか。
アムル:なぜだ、兄弟?私はそなたを殺めたくはない。
アリー:しかし私は本当に君を倒したいのだ。
そのように言われたアムルは、アリーの馬の腱を切り、顔を切りつけました。続いてアリーに襲いかかり、両者は戦い合いました。最終的にアリーはアムルを殺害しました。
(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P252~254など)
25.われらは大地を把持するものとなしたのではないか、
26.生きた者を、そして、死んだ者を(把持するものと)。
27.そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし、おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか。
28.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
29.「おまえたちが嘘と否定していたもの(火獄)に赴け」。
30.「三つの枝のある陰に赴け」。
31.「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。
32.まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち、
33.ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである。
34.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
35.これは、彼ら(不信仰者)が話さない日。
36.彼らが(弁明を)許可されず、また申し開きすることもない。
37.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
38.これが決定の日であり、われらはおまえたちと昔の者たち(今昔の不信仰者)を集める。
39.もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ。
40.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
41.まことに、畏れ身を守る者たちは(木)陰と泉にいて、
42.そして、彼らの望む果物に(囲まれている)。
43.「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」。
44.まことにわれらはこのように善を尽くした者たちに報いる。
45.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
46.「おまえたちは僅かの間、食べ、楽しむがよい。まことにおまえたちは罪人である」。
47.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
48.また、「おまえたちは屈礼(礼拝)せよ」、と言われても、彼らは屈礼しない。
49.災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。
50.その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。
続いてクルアーンは大地やそこに置き給うた山々や水に私たちの目を向けさせ給います:
「われらは大地を把持するものとなしたのではないか、生きた者を、そして、死んだ者を(把持するものと)。そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし、おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
至高なるアッラーは大地をしっかりと持つものとなし給いました。大地はその中に死んだものたちを抱き、その外側に生きるものたちを抱きます。この生物を抱擁する、という表現は今日では引力と言われます。つまり大地がその表面にある、人間、動物などすべてのものを引き付ける力のことです。引力がなかったら、毎日起きる大地の迅速な変動のためにすべてのものが宇宙空間に飛んでいってしまったことでしょう。そのため大地は自身に生き物を引き寄せて、そこから散らばっていかないようにしているのです。
またアッラーが人間に与え給うた恩恵の一つに、聳え立つ山々があります。「そして、われらはそこに聳え立つ山脈をなし」この御言葉の直後に何と仰せになったかに注目してください:「おまえたちに甘美な水を飲ませたではないか」水と山に関係があることを指しています。つまり山々はそこに降った雪を取りこんで人間が飲むために保存し、泉となって甘い水を湧き出させるのです。
そして続きのアーヤはアッラーの約束の日を嘘であるとした者たちを待ちうけている恐ろしい結末について語ります:
「「おまえたちが嘘と否定していたもの(火獄)に赴け」。「三つの枝のある陰に赴け」。「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち、ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
不信仰者たちは次のように言われることになります:おまえたちが嘘だと言っていた地獄の罰、今おまえたちが目の前に見ているそれに向かいなさい、と。「三つの枝のある陰に赴け」陰とは、地獄の煙で、その火の激しさのために三つに分かれています。「(遮る)翳がなく、炎に対して役立たない(陰に赴け)」。普通の陰のように、地獄の陰はその下にあるものに翳を与えず、また激しい暑さからも守ってくれません。また各方面から襲ってくる地獄の舌からも守ってくれません。ここでアッラーが罰を陰と呼び給うたのは、嘘つき呼ばわりしてきた者たちを嘲笑するためです。「まことに、それ(火獄、あるいは炎)は城のような火花を放ち」つまりこの類の火から城のような火花が散っていくということですが、城という言葉は、聳え立つような邸宅を指すとともに、石で出来ている家や、ナツメヤシや木の根元を指します。「ちょうどそれ(火花)は黄褐色の駱駝たちのようである」黄色に近い黒褐色の駱駝です。
クルアーンは火から離れる火花を城やナツメヤシや木の根元に似せ、また限りのない広がりや枝分かれする様子を黄色の駱駝に似せました。クルアーンの諸節が以上のような類似させる表現を使うとき、アラビア語精神に則って、人々が慣れ親しんだ表現で語りかけます。かつてアラブの村々は各方々に散らばっており、あちこちに黄色の駱駝たちが存在していました。そこでクルアーンは業火の恐ろしさをその火花で表現しようとしたことで、火花は業火にぴったりの表現となりました。
クルアーンは続いて嘘つき呼ばわりする者たちの甦りの日における精神的状態を描写します:
「これは、彼ら(不信仰者)が話さない日。彼らが(弁明を)許可されず、また申し開きすることもない。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
甦りの日には、その日の恐ろしさのために、嘘つき呼ばわりしていた者たちは口を開きません。また話そうともしませんし、過去の行為を謝ろうとしてもそれは許可されません。なぜなら、アッラーが彼らに善の道を示し給うた後に迷いの道を選び給うた今、もう言い訳をする時間ではなくなっているためです。
続いて甦りの日がしもべ間の裁きの日であることが解明されます。その日、策略は役立ちません:
「これが決定の日であり、われらはおまえたちと昔の者たち(今昔の不信仰者)を集める。もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
甦りの日は決定的な裁定が下される日です。アッラーはその日、真理をもって被造物の間を裁き給います。またその日にアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を嘘つき呼ばわりしていた者たちをその共同体から集め給いますが、過去の共同体の中からも同様に、自分らの預言者を嘘つき呼ばわりしていた者たちがその行為の清算のために集められます:「もしおまえたちに策略があったなら、われに対し策を弄(ろう)してみよ」つまりおまえたちにあの日の恐怖とアッラーの罰から逃れるための策略とアイディアがあるなら、アッラーの激しい一撃と復讐から身を守ってみるがいい、しかし、残念なことにその日、策略は役立たないのだ、という意味です。本当にアッラーの罰は彼らの上に襲いかかるのです。
続いてアッラーが篤信者たちのために準備し給うている褒美の描写に移ります:
「まことに、畏れ身を守る者たちは(木)陰と泉にいて、そして、彼らの望む果物に(囲まれている)。「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」。まことにわれらはこのように善を尽くした者たちに報いる。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
生い茂る木々が篤信者たちに陰を作ります。彼らは安楽と至福の中にあり、泉の近くにいる彼らは好きな時にそこから飲めます。また彼らの望む果物もあります。このような恩恵に浴している中に、上方から呼びかけの声が聞こえてきます:「おまえたちがなしてきたことうゆえに楽しく食べ、飲むがいい」この言葉は、アッラーが間に何も介さずに直接語られるものか、天使が名誉を与えるために投げかける言葉であると考えられます。この直後にアッラーは仰せになりました:「われらはこのように善を尽くした者たちに報いる」つまり、アッラーが篤信者たちに先ほど数え上げた恩恵で報い給うように、全ての善行者、アッラーの禁止事項を避け、かれの命令に従った者たちによく報い給う、という意味です。
続いて、アーヤは享楽に耽っている嘘つき呼ばわりしていた者たちに再度呼びかけます:
「「おまえたちは僅かの間、食べ、楽しむがよい。まことにおまえたちは罪人である」。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。」
至高なるアッラーは彼らに仰せになります:現世で好きにいろいろなものを食べ、楽しみなさい、この楽しみは短く、続かない。以上が人生の重要事である者は、その目から道徳心や罪からの浄化の精神が払拭されてしまいます。そのため、彼らは罰が相応しい罪人となるのです。
最後に、アッラーはこの章を嘘つき呼ばわりしていた者たちを責める言葉で締めくくり給います:
「また、「おまえたちは屈礼(礼拝)せよ」、と言われても、彼らは屈礼しない。災いあれ、その日、嘘と否定した者たちに。その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。」屈礼はイスラームに服従することか、礼拝を指しますが、礼拝の基幹の一つが屈礼つまり深い礼だからです。嘘つき呼ばわりしていた者たちにムハンマドに啓示されたものを信仰し、アッラーに礼拝しなさいと言われても彼らは従わず、応じません。
これらすべての明証があっても信仰しない彼らは、今後もどんな明証があっても信仰しないでしょう。「その(クルアーンの)後、彼らはどんな言葉(啓典)を信じると言うのか。」クルアーン以上の包括した導き、強い明証を持つ啓典も言葉も存在しません。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP168~172)
118.攻囲(こうい)の暗闇の中に見えたイスラーム勝利の光:
信徒たちが一生懸命に塹壕作りに励んでいると、非常に大きな岩が現われることがありました。シャベルでは掘り起こせないほどの大きさだったため、信徒たちはアッラーの使徒(平安と祝福あれ)に苦情を訴えました。彼(平安と祝福あれ)は岩を見ると、シャベルを持って:ビスミッラー(アッラーの御名において)、と言って岩を叩くと、その三分の一が壊れました。次に「アッラーフアクバル(アッラーは偉大である)、シャームの鍵が私に与えられた」と言うと残りの三分の二が壊れました。「アッラーフアクバル、ファーリス(ペルシャ)の鍵が私に与えられた。アッラーにかけて、白い街々の城が見えます。」と言って、三度目の打撃を終え、「ビスミッラー」と言うと、残りの石が壊れました。「アッラーフアクバル!イエメンの鍵が私に与えられた。アッラーにかけて、サヌアーの諸扉(もろとびら)がこの場所から見えます。」とアッラーの使徒(平安と祝福あれ)は言われました。
そんな中においても、信徒たちはまだ不透明な未来を抱えていました。激しい空腹、厳しい寒さ、攻撃を仕掛ける敵の存在に囲まれていたのです。
119.戦中に起きた預言者の諸奇跡:
そこでいくつかの奇跡がアッラーの使徒の手によって起きました。立ちはだかる大岩が信徒たちの邪魔をしたとき、彼は器に入った水を持って来させ、その中に唾を吐き、祈りの言葉を唱え、その水を大岩に振りかけると、大岩は崩れ落ち砂になりました。
また少量の食事に祝福のしるしが現われました。その食事だけで大勢の人が満腹になり、一つの食事が軍全体に足りるのでした。
ジャービル・イブン・アブドゥッラーは言っています:塹壕の戦の日、私たちが掘っていると、大岩が現われました。人々は預言者(平安と祝福あれ)の許へ行き、「この大岩が塹壕の中から出てきました」と訴えると、「私が降りましょう」と言って、腹に石を縛り付けた預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は立ち上がりました。私たちはその頃、3日の間、どんなものも口に出来ずにいたのです。そして預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はシャベルを手に取り、大岩を叩くと、それは砂に変わり崩れ落ちました。
私はそこで言いました:「アッラーの使徒さま!私に帰宅することをお許しください」それから、私は妻に言いました:「見るに堪えられない状態の使徒さまを見たのだ。何か(食べるもの)はないか?」妻は言いました:「大麦と子ヤギがあります」私は子ヤギを屠り、大麦を練りました。肉を鍋に入れて預言者(平安と祝福あれ)の許に運びました。パンはすでに出来上がり、鍋の準備も終わり、あと少しで食事が出来上がるところで、私は、「私が準備した食事があります。どうぞ使徒さま、あなたさまと1,2名の男と一緒に召しあがってください」と招待しました。彼は言いました:「どのくらいあるのですか?」私がその量を彼に伝えると、「それは多い。奥様に言いなさい、鍋もパンも私が行くまで釜(かま)から離してはいけないと。」そして、「皆、立ちなさい。」と言うと、ムハージルーンとアンサールが立ち上がりました。
私は妻のいるところに入って言いました:「たいへんだ!預言者(平安と祝福あれ)はムハージルーンとアンサール達を連れておいでになられる。」妻:「かのお方は食事の量についてあなたにたずねたのですか?」私:「もちろん」
預言者(平安と祝福あれ)は皆に言いました:「さあ、入りなさい。一度に押しかけてはいけません。」彼はパンをちぎり始めると、肉で覆いました。それを仲間たちに近付け食べさせては手を離しました。こうして彼は、皆が満腹になるまでパンをちぎり続け、鍋からすくい続けるのでした。
いくらばかりか食べ物が残りました。アッラーの使徒(平安と祝福あれ)はジャービルの妻に言いました:「さあこれを食べて、他の人にも分けてください。人々は相当飢えていますから。」
(参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P250~252など)