イスラーム勉強会ブログ

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聖なる地とは何を、どこを指しているのか

2009年01月24日 | 他の解説
聖なる地とトーラー的約束:

「聖なる地」の定義は、イスラエルの子孫の歴史の中で重要かつ複雑に多様化しており、トーラーが述べるところによると、「聖なる地」とは彼らが所有することを約束された地である。そしてこの約束は、―トーラーが述べるところによると―預言者イブラーヒームの時代に始まり、ムーサーの時代に実行されるまで続いた。

 聖クルアーンの食卓章の中に「アルドゥ・ムカッダサ:聖なる地」が登場する。その中でムーサーはイスラエルの子孫にそこに入るように呼びかける。代わって「アルドゥ・マウウーダ:約束された地」は何度もトーラー内の創世記に出てくる。また出エジプト記などにも繰り返し出てくる。

 ほとんどの学者と解説者が、クルアーンの意味することとトーラーの意味することを間違って理解することによって生じた宗教的間違いと歴史的間違いに陥っている。

 アッラーの御言葉:「またムーサーが、自分の人びとにこう言った時を思い起せ。「わたしの人びとよ、あなたがたが授かったアッラーの恩恵を心に銘じなさい。かれはあなたがたの中から預言者たちをあげ、あなたがたを王となされた。外のどの民にも授けられなかったものを、あなたがたに授けたのである。(20)わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。あなたがたは、踵を返して退いてはならない。そうしたらあなたがたは失敗者になる。」(21)かれらは言った。「ムーサーよ本当にそこには、巨大な民がいる。かれらが出て行かなければ、わたしたちは決してそこに入ることは出来ない。もしかれらがそこから去ったならば、わたしたちはきっと入るであろう。」(22)主を畏れる2人は言った。―アッラーは2人を御恵みになられる―「(村の)正門から入ってかれらに当れ。一度入れば、本当にあなたがたこそ勝利するであろう。あなたがたがもし(真の)信者ならば、アッラーを信頼しなさい。」(23)だがかれらは言った。「ムーサーよ、本当にわたしたちはかれらがそこに留まる限り、決してそこに入れない。あなたとあなたの主が、2人で行って戦え。わたしたちはここに座っている。」(24)かれは申し上げた。「主よ、本当にわたしはわたし自身と兄弟の外は制御出来ません。ですからわたしたちを、この反逆の民から引き離して下さい。」(25)(主は)仰せられた。「ならばこの国土を、40年の間かれらに禁じよう。かれらは地上をさ迷うであろう。だからあなたがたは主の掟に背く民のことで悲しんではならない。」(26)」(食卓章20-26節)

 「われはかれと(その甥の)ルートを、万有のためにわれが祝福した地に救い出した。」(預言者章71節)

 「またわれは、猛威を奮う風(を起す術)をスライマーンに(授け)、かれ(スライマーン)の命令の下に、われが祝福する地に吹かせた。われは凡てのことを知るものである。」(預言者章81節)

「かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。」(夜の旅章1節)

 「われはかれらと、われが祝福した都市との間に、(旅人が)見付け易い幾つかの町を設け、その旅程を定めた。「昼も夜も安全に旅をしなさい。」」(サバア章18節)

 「祝福された地」と「聖なる地」が登場するが、両者は一つなのか?アッラーがイブラーヒームに約束された地について語るトーラーの言葉を並べ終えるまでその答えを出すのを延ばそう。

 創世記17節:「わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。」

 創世記26節:「あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。」

 創世記28節:「あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。」

 出エジプト記3節:「それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した。」

 出エジプト記33節:「はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。」など。

 アッラーが預言者イブラーヒームにされた約束に基づいた、イスラエルの子孫に与えられると約束された聖なる地についての聖クルアーンとトーラーの言葉に類似点を見出すことが出来るだろう。

 ただ聖クルアーンは、アッラーがイブラーヒームとその子孫に土地を所有させる約束をされたと述べておらず、そう感じさせる表現も使っていない。もしトーラーの言うように主がイブラーヒームにカナンの地を所有させると約束されたのであれば、なぜアッラーは御自身の約束を完遂されなかったのか。イブラーヒームもイスハークも彼の子孫も誰もこの地を所有することはなかった。またアッラーはイブラーヒームと彼以降の彼の子孫を一つにされるとも約束されたが、イスマーイールもイブラーヒームの息子なので(地を)所有する権利があるのではないか。

 (以前の)創世記の議論の際に:至高なるアッラーはイブラーヒームとルートを不信の民から人間万有のためにアッラーが祝福された地へ救われたことが数回に渡ってクルアーンに出てくることを述べたが、アッラーがイブラーヒームにこの祝福された地を所有させるという約束をされたとはない。

 「わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。」(食卓章21節)このようにムーサーは自分の民に言ったのだが、「聖」で限定された地が、「祝福された地」でなければならないわけではない。なぜなら、もしそうであるなら(聖地と祝福された地が同じであるなら)ば、きっと「聖」という言葉が何度も出てくるからである。アッラーが限定された民族のためでなく万物のために祝福された地の「祝福」は、宗教的精神的な祝福を意味し、物質的所有や独占を意味しない。もし所有を意味しているなら、全ての人がその地が自分たちに属すると主張したことだろう。ムーサーの言葉のところで停止しよう。「わたしの人びとよ、アッラーがあなたがたのために定められた、聖地に入れ。」この言葉の示すところはこの前後を読むことでしか理解できない。まず「入れ」という言葉は、征服しろ、攻めろ、そこにいるものを殺せ、という意味も、戦いを命ずる意味も含まない。「入ること」には一つだけではなく、様々な意味がある。もっと深い解説に入る前に、クルアーンにあるイスラエルの子孫が言った言葉:「本当にそこには、巨大(暴君、強力)な民がいる」(食卓章22節)に戻ろう。巨大な民とは誰なのか。彼らがいた聖なる地とは何なのか?

 彼らをカナンの民と仮定しよう。彼らが暴君であったとは知られておらず、もしそうだったとしたらアッラーはイブラーヒームとルートを彼らの地へ救われなかっただろう。またクルアーンもトーラーも、イブラーヒームがカナンの民に酷い目に合わされたと述べたことがない。

 (中略)

 次のクルアーンの節を見てみよう:「ならばこの国土を、40年の間かれらに禁じよう。かれらは地上をさ迷うであろう。」(食卓章26節)ムーサーとその民が聖なる地に入れず、彼らにその地が禁じられたことにおいてクルアーンとトーラーが一致していることが分かる。

 クルアーンの節の流れを注意深く見る人は、ムーサーの言葉「聖地に入れ」がアッラーの御言葉「この土地をかれらに禁じよう」からそう離れていないことが分かるだろう。彼らにとってムーサーの言葉は単にムーサーから彼らに対する試練である。そしてアッラーは預言者にこの民がどれほど腰抜けで頼りないかをはっきり示されている。彼らのムーサーに対する、「かれらが出て行かなければ、わたしたちは決してそこに入ることは出来ない」という言葉を想像してほしい。巨大な民がどのようにして自分の土地から子供、女性と出て行き、地を空にした後にイスラエルの子孫に「さあ、これがきれいになった土地です。こちらにいらっしゃり、ぜひ住まわれてください。」と言うことなどあり得るだろうか。

 ムーサーの民は、ムーサーが頼れるような巨大な民のいる土地に入って戦おうとする気持ちを持たない男たちである。この問題は、彼らの隠し事の暴露、また彼らのアッラーとムーサーと交わした契約と約束の放棄の範囲を超えるものではない。

 一つ目の仮定。ユダヤ人がムーサーから聖なる地に入ることを約束されたとしても、それはその地を占領することを意味しない。「そこには、巨大な民がいる」(食卓章22節)がその(占領することを意味しないことの)根拠となるのは「進入、入ること」が巨大な民との戦いを含んでいるかもしれないからである。しかし彼ら「巨大な民」は土地の持ち主ではなく、この地にやって来た時に戦争を経験した軍隊か兵士である。以上のことは、その民がギリシャのバルサタ(注:アラビア語発音)の民であるという意見に近くなるが、彼らが紀元前1150年、ちょうどムーサーがヨルダンとパレスティナの国境あたりに存在していた時期に海からパレスティナに向かってやってきた民であるとすべての歴史的研究が指しているからである。そのため、すべてのカナン族は一度も暴虐であると知られたことがないのである。

 二つ目の仮定。「正門から入ってかれらに当れ。一度入れば、本当にあなたがたこそ勝利するであろう。」(食卓章23節)この節は、ここで意図された聖なる地が城塞か、門を持った要塞化された小さな村であることを明言している。クルアーンの節が「正門から入って」とあることはつまり、力の中心や弱さがこの城塞か、要塞化された村の門にあることを指す。

 またクルアーンに述べられたように、神による土地の約束があるとすれば、この聖なる地が城塞か小さな要塞化された村以上のものを指さず、アッラーが万物のために祝福を垂れた地とは無関係であることが言えるかもしれない。

 また巨大な民は多神信仰の民で、ムーサーが自分の民に聖なる地に入るよう依頼したときに意図されたのがこの聖なる地を多神信仰から清め、ムーサーの純粋一神信仰を広めることだったかもしれない。

 しかしムーサーの民は誠実ではなかった。彼らの不誠実は、彼らがムーサーの命令に従わなかったとき、つまりムーサーが彼らを初めて試したときに確定したのである。

 ムーサーが彼らに聖なる地に入るよう依頼し、アッラーがそれを彼らに禁じる令が下るまでの物語は、イスラエルの子孫の預言者の命令に対する接し方を分かりやすく説明している数多くある根拠の一つである。

(ハサン・アル=バーシュ博士薯 「クルアーンとトーラー ~どこで合致しどこで相違するか」より)

http://www.biblioislam.net/Elibrary/Arabic/library/card.asp?tblid=1&id=17375

サファル

2009年01月24日 | 他の解説
ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミ

預言者と彼の一族、教友、彼によく従った者たちに平安と祝福がありますように。

西暦2009年1月27日からサファル(陰暦2月)に入ります。サファルの前の月であるムハッラムは4つある聖月の一つで、その徳などがハディースに幾度も述べられていますが、サファル月は聖月でもなく、その徳についても目だった言葉は残っていません。残っていたとしてもそのほとんどが嘘のハディースであると証明されています。

陰暦12ヶ月の中、4月が聖月であることを次のアーヤが示しています:「本当にアッラーの御許で、(1年の)月数は、12ヶ月である。アッラーが天と地を創造された日(以来の)、かれの書巻のなか(の定め)である。その中4(ヶ月)が聖(月)である。それが正しい教えである。だからその聖月中にあなたがたは互いに不義をしてはならない。」(悔悟章36節)

ちなみに「聖月に不義を犯してはいけない」ことは、アラブではイスラーム以前から常識でしたが、
彼らが月の扱いをかなり疎かにしていたことが分かっています。

彼らは聖月の神聖さを重々承知していたにもかかわらず、自分たちの都合に合わせて月の到来を遅らせたり早めたりしていました。
サファルをムハッラムに変えたり、サファルを一年おきに聖月にしたり。

また当時の多神教徒は、サファル月に悲観していた(悪運の月、バチが当たるとされた)、とも言われています。もちろん、特定の時期などがアッラーの計画を害することなどあり得ないことなので、この考えは正しくありません。

イスラームはこれらすべての醜悪な習慣、考え方を一掃しても、ジャーヒリーヤ期から残る聖月の名称や尊さは残し、それらは現代に至ります。

※参考サイト:サイド=ル=ファワーイド صيد الفوائد

日亜対訳注解聖クルアーンより

2009年01月19日 | 他の解説

日本ムスリム協会から「日亜対訳注解聖クルアーン」が出版されている。三田了一先生という方の生涯をかけた労作、と”改訂版によせて”に載っている。私も労作だと思う。この意訳クルアーンの日本語は分かりやすく、注解も素晴らしい。
てことで、70章を読み返していたときに目からうろこが出た三田先生の注解を抜き出しとこ。


☆70/17の「背を見せて、背き去った者を召還する」の注解

罪が4つの点から分析される。最初の2つは罪人の意思と心理から観察され、あとの2つは、現世の良い物の取得に対する現れ方である。
(イ)罪は正義を背にすることから始まる。まともに直面することを避け、臆病か無関心によって正義から逃げ出してしまう。
(ロ)しかし良心と正義の意識は、逃避を拒もうとし、またアッラーの御慈悲はあらゆる面でかれを改心させようとするが、罪の深い者はそれを強引に拒む。
(ハ)その結果、かれは富の蓄積のため一層貪欲になり、偽善や欺瞞が一層かれを罪に巻きこむ。
(ニ)物質的利益のために、他の人びとの利益を妨げることを顧みず、嫉妬や悪意のもとにそれをしまい込む。

☆70/27の「またかれらの主の懲罰を恐れる者」の注解

真にアッラーを畏れる者は、アッラーの意志、法則に反しないように用心する者で、自然かれはアッラーを愛し慕う。すなわち真の平安、大悟は、自分の意志とアッラーの意志とがつねに合致することにより得られる

明日も一日頑張りましょう。


罪の定義

2009年01月08日 | 他の解説

ـ ـ ـ ـ الإثم ما حاك في نفسك أو كرهت أن يطلع عليه الناس


罪とは、あなたに囁いたものか、人に知られたくないことだ。(ハディース)

(*´ω`*)(*´ω`*)(*´ω`*)(*´ω`*)(*´ω`*)(*´ω`*)(*´ω`*) 

行動の前に戸惑ったり、これはいいのか?と思いとどまることがあれば、それは罪かもしれない。
自分の行動、言っていることが人に知られたら恥ずかしいことなら、それも罪かもしれない。

動く前・話す前・書く前・・・・全ての前に、ニーヤを確かめないといけない。


友人の選び方

2008年08月02日 | 他の解説
(8/2 ハディースにシャクルを付加しました。)

ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミ

今回もハディースをご紹介します。私がターヒーリー3年のときに大好きなI先生がタズキヤの授業で紹介してくださった友人の選び方を的確に説明したハディースです。このハディースは私にとって、本当にアッラーは預言者(平安と祝福がありますように)を通じて私たちに生きていくための術を示してくれたのだなあと感じ入るハディースでもあります。

عن أبي موسى الأشعري رضي الله عنه قال : قال رسول الله صلى الله عليه وسلم : مَثَلُ الْجَلِيسِ الصَّالِحِ وَالْجَلِيسِ السُّوءِ : كَحَامِلِ الْمِسْكِ ، وَنَافِخِ الْكِيرِ . فَحَامِلُ الْمِسْكِ : إمَّا أنْ يُحْذِيَكَ ، وَإمَّا أنْ تُبْتَاعَ مِنْهُ ، وَإمَّا أنْ تَجِدَ مِنْهُ رِيحًا طَيِّبَةً . وَنَافِخُ الْكِيرِ : إمَّا أنْ يَحْرِقَ ثِيَابَكَ ، وَإمَّا أنْ تَجِدَ مِنْهُ رِيحًا خَبِيثَةً متفق عليه

アブー ムーサー アル・アシュアリー(アッラーのご満悦ふぁありますように)によると、彼は言った:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《敬虔な仲間と悪い仲間を例えてみると、ミスク(麝香)を携える者と(キール…鍛冶屋が火を大きくするために使う道具)を吹く者のようである。ミスクを携える者は、あなたに香りを嗅がせてくれるか、あなたはそれを買う。または、彼から芳しい香りを見出す。キールを吹く者は、あなたの服を焦がしてしまうか、あなたは彼から悪臭を見出すかである。》(アル・ブハーリーとムスリム)

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☆敬虔な友人・仲間
 預言者(平安と祝福がありますように)は、敬虔な友人や仲間を”ミスクを携える者”と例えている。ミスクの香りは非常に良いと言われていて、また非常に高価。これを使っている者は、ミスクの香りが常時漂っているもの。良い香り(良い性格、有益な知識など)を振りまく人から悪臭(害など)が出ることはなく、いつも周りの人をいい気持ちにさせてくれるもの。一緒にいて気持ちよく、自分にも善を分けてくれる敬虔な人こそを友として選ぶべき。

☆悪い友人・仲間
 預言者(平安と祝福がありますように)は、悪い友人や仲間を”キールを吹く者”と例えている。キールとは、鍛冶屋が火を吹くために使う道具の名前であり、鍛冶屋の働き場は悪臭に満ち、そこに従事する者も悪臭に覆われている。キールを吹く鍛冶屋に近づいて得られることといえば、燃え盛る炎が服に移って焦げてしまうか、その人から悪臭を嗅がされるのみ。悪い仲間もキール吹き同様に、近づいて益を得ることもないし、逆に悪を移されるのみなので、近づかないのが一番。

審判の日にアッラーに守られる者

2008年07月24日 | 他の解説

ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーミ

久しぶりの更新になってしまいました・・・今回は、私の好きなハディースを紹介します。


عن أبي هريرة رضي الله عنه عن النبي صلى الله عليه وسلم قال : " سبعة يظلهم الله في ظله يوم
 لا ظل إلا ظله ، إمام عادل وشاب نشأ في عبادة الله ، ورجل قلبه معلق بالمساجد ، ورجلان تحابا في الله اجتمعا عليه وتفرقا عليه ، ورجل دعته امرأة ذات منصب وجمال فقال إني أخاف الله . ورجل تصدق بصدقة فأخفاها حتى لا تعلم شماله ما تنفق يمينه ، ورجل ذكر الله خالياً ففاضت عيناه
" متفق عليه

アブーフライラが預言者(平安と祝福がありますように)について伝えたところによると彼(平安と祝福がありますように)は言われた:『アッラーはある7人をご自分の影に入れられるが、その日、かれの影以外の影は存在しなくなる。(その7人とは、)公正なイマーム、アッラーにお仕えする中で成長した青年、マスジドに心を奪われている男、アッラーにおいてお互いを愛し、アッラーにおいて集い、そしてかれにおいて分かれた二人、地位と美を持つ女に声を掛けられても「私はアッラーを畏れる」と言った男、左手が右手の行ったサダカに気付かないほどに隠れてサダカを行う男、一人きりでアッラーを想い、両目から涙が溢れた男である。』(アル・ブハーリー、ムスリムなど)

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☆アッラーの影とは?

 審判の日がやって来ると、人々は墓から呼び起こされ、審判の場に集います。その日はとても暑く、暑さをしのぐものはアッラーの影以外何一つなく、自分の体から出てくる汗でおぼれてしまうほどだといわれています。

☆影に入ることの出来る7種類の人たち

 ①公正なイマーム:イマームという単語を直訳すると、「導師」ですが、他にもいろいろと訳されます。合同礼拝を司る人、学者、統治者など。人々をまとめたり、指導する立場にあたる人に向けられる言葉ですから、それなりの責任を負う立場にあるイマームは常に公正であるよう求められます。常に公正であることは実行してみれば分かることですが、かなり難しく、人々を司る立場にあればなおさらです。このイマームが努力、忍耐して公正を実現することは、審判の日にアッラーの影に入るための切符です。

 ②アッラーにお仕えする中で成長した青年:イバーダトゥッラーは、アッラーを崇め、お仕えすることを意味します。こういった環境で育った青年はアッラーの影に入ることが出来ます。シャーッブ(青年)は一般的に男性を指しますが、アラビア語ではある種の人々(男女混合)を指すときに男性詞を使うことになっているので、ハディースは若い女性も指しているといえます。

 ③マスジドに心を奪われている男:常時マスジドで行われる礼拝や行事のことを考えている人を指します。礼拝の時間を待ちわびたり、アッラーの家であるマスジドに胸を馳せることで喜びを覚えることです。ここでも「男」と出てきますが、女性も含まれています。

④アッラーにおいてお互いを愛し、アッラーにおいて集い、そしてかれにおいて分かれた二人:ムスリムは、信仰上の兄弟である同胞に愛情をもって接します。同胞のつながりのきっかけはアッラーであり、アッラーを信仰することです。ムスリムはアッラーにおいて愛し、集い、分かれる(解散する)のです。

⑤地位と美を持つ女に声を掛けられても「私はアッラーを畏れる」と言った男:ちょうど預言者ユースフ(アライヒッサラーム-彼に平安あれ)が主人の妻に誘惑されたときの立場と重なります。人がうらやむような美貌と地位を備えた女性を強い意志で拒否することですが、それは単に「アッラーを畏れるため」です。アッラーはムスリムに、常に貞節でいるよう命じられています。これは男性と女性に言えることです。

⑥左手が右手の行ったサダカに気付かないほどに隠れてサダカを行う男:サダカは、自由喜捨と訳されますが、貧しい人や必要としている人に金品を与えることを意味します。イスラームではサダカは非常に奨励されたイバーダ(崇拝行為)ですが、おおっぴらにされたサダカは好まれません。むしろ、人に気付かれない、隠れたサダカが好まれます。そうすることで見栄を張る気持ちや見せびらかしの気持ちが抑えられるからです。

⑦一人きりでアッラーを想い、両目から涙が溢れた男:もちろん女性も含まれます。アッラーの創造の素晴らしさ、自分に対する寛大さ、アッラーの優しさや偉大さを想い、感動と畏れをもって涙することです。アッラーのお言葉そのものであるクルアーンを涙して読むことは奨励された行いですし、アッラーを想って涙した目を地獄の火が当たることはないとも言われています。


サラー(礼拝)に秘められた英知

2008年06月05日 | 他の解説

 サラーはイスラーム五行のうちの1つで、「宗教の柱」と言われるくらい重要とされる崇拝行為です。私たちムスリムはサラーを一日に五回、決められた時間に捧げますが、まさに生活の一部となっていると言えると思います。

 サラーはアッラーが定められた行であり、それに秘められたアッラーの計画は、かれのみがご存知であるでしょう。創造された私たちに理解が及ぶことは到底ありえないですが、それでも体感、理解できる効能やメリットは数え切れないほどあります。今回はれらのうちの少しを紹介したいと思います。

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 まず、“サラー”というアラビア語単語が元来意味するところについて。“サラー Salaa”はもともと、“良いことを願う”という意味です。アッラーは言われました:「(ムハンマドよ)彼らに祈ってあげなさい。あなたの祈りは彼らにとって、安らぎなのである」(悔悟章103節)つまり、アッラーが彼らを赦して下さるよう祈りなさい、という意味になります。

 サラーの英知

 第一:サラーに立つことにより、人間の本来の姿を再確認します。人間は、至高なるアッラーのしもべであり、所有物であることをサラー時に思い出します。現世の忙しさや、他人との関係でこの真実を忘れてしまいがちですが、サラーによって、自分はアッラーの所有するしもべであることを思い出すのです。

 第二:サラーは、アッラー以外に頼ることができ、また恩恵を垂れてくださる御方はいないという事実を心に定着させます。現世のさまざまなものが自分たちの助けとなり、恩恵を与えてくれているように見えがちです。しかし、アッラーこそがそれらを人間のために準備されたことが真実です。人間が不注意状態に陥ったり、また表面的な現世の諸物に執着するたびに、すべての原因をお創りになったのはアッラーであり、またかれおひとりこそが、頼りに出来、恩恵を賜ってくださる御方であることをサラーが思い出させてくれます。

 第三:人間が犯してしまった罪業から悔悟する機会がサラーです。人間は一日中多くの罪に妨害され続けています。知らずに罪を犯してしまっている場合もあります。そこで、繰り返されるサラーが、これらの罪から人間を浄化するする役割を持ちます。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は、このことを明解に説明してくださいました。ジャービル・ブン・アブディッラー(アッラーのご満悦あれ)は言いました:アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は次のように言われました:《五回のサラーを例えてみると、あなたがたの戸の前に豊富な水を持つ川が流れていて、そこで一日五回沐浴をするようなものです。》(ムスリム)アル=ハサン曰く:これで汚れが落ちないことがあるだろうか?(ここでの汚れは、罪による精神的な汚れを指す。)

 第四:サラーは、アッラーを信仰するというアキーダ(信条)の継続的な栄養になります。現世の享楽と悪魔の囁きの仕事といえば、このアキーダを人間に忘れさせる以外にありません。人間の心にこのアキーダがしっかりと植えつけられていたとしてもです。もし、欲望の虜になり、アキーダを忘れてしまう状態が続くと、(アキーダの)忘却から、拒否や否定に移行するおそれがあります。ちょうど、水が与えられなくなって枯れてしまった木が死に至り、乾燥した薪に変化するようすに例えることができるでしょう。しかし、サラーを屈折せずに続ければ、自分の信仰心の栄養とすることができます。そうなれば、現世とその享楽が信仰心を弱めたり、死なせたりすることはなくなるでしょう。

                   参考文献:アル=フィクフ アル=ミンハジー
                   著者: ムスタファー アル=ヒン
                         アリー アッ=サルバジー
                         ムスタファー アル=ブガー
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 サラーが信者たちに課せられた経緯、約束された報酬、それを放棄する者に相応しい対処・・・・など、興味深く、また勉強になるサラーにまつわる話は多いのですが、今回はこの辺で終了。
                    

 


黎明の礼拝(サラートゥル・ファジュル)の徳

2008年05月21日 | 他の解説

ビスミッラー

 今回は、サラートゥル・ファジュルに関したハディースSPです。アラビア語が読める方は、
こちらをご参照ください。

 現在のファジュルの時刻は大体AM3:30~5:00。とても早いですが、眠くて、または疲れていて起きていなかったりしませんか?以下のハディースを読めば、きっと起きたくなるはずです!

 私たちはアッラーにお近づきできるようにとさまざまな宗教儀礼を行いますが、その中で最も大切なのはサラー(礼拝)です。アッラーの許で最も良い行いとみなされているものの一つが、決められた時間内にサラーを完遂することです。アル・ブハーリーとムスリムによると、イブン・マスウード(ラディヤッラーフ アンフ)は言いました:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)に何の行いが一番いいのかを尋ねたところ、《時間内に行われるサラーである》と彼は言われました。

合同でサラートゥル・ファジュルを行う徳

 アッラーはクルアーンの中で早朝は重大な時間帯であるとしました。またこの時間帯において誓いも立てられています。偉大な者(アッラー)が何かにおいて誓いを立てることは、その“何か”も偉大であることを指します。アッラーは言われています:「暁において、10夜において」(89-1,2)アル・ブハーリーは次のアブーフライラのハディースを出典しています:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《もし人々が(サラーへの)呼びかけと(合同礼拝時に作られる)第一列の重要さを知り、くじ引きでしかそれを得られなかったとしても、彼らはきっとくじ引きをしただろう。もし彼らがタクビールの重要さを知ったなら、それに急いだことだろう。もし彼らがイシャーとファジュルの重要さを知ったなら、這ってでもそれらを行っただろう。》

吉報の数々

 ①サラートゥル・ファジュル(黎明の礼拝)は最も良い礼拝の一つです。
 アル・バイハキーが出典した正しい伝承のハディースによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《アッラーの許で最も良いサラー(礼拝)は、金曜のファジュルに行われる合同礼拝である。》

 ②寝床を後にし、サラーのために起きる人をアッラーは天使に見せ、よしとします。
 
 預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《家族や愛する者たちを置いて、サラーのために、寝床や布団を跳ね除ける人に私たちの主は感嘆された。主は「私の天使たちよ、わたしのしもべを見るがいい。彼はわたしの許にあるものを欲するがゆえに、またわたしに対する(咎めなどの)心配から、家族や愛する者たちを置いて、サラーのために寝床を後にし、布団を跳ね除けている」と言われる。》(ムスリム)

 ③ファジュルのサラーを合同で行うために急いで出かける人に、アッラーは暗闇の日(最後の審判)に光をお与えになります。
 
 ブライダ・アル・アスラミーによるとアッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《暗闇の中マスジドへ歩いて行く者たちに、審判の日に完璧な光が与えられることを吉報として伝えなさい。》(アッ・ティルミズィー、イブン・マージャ)

 ④ファジュルのファルド(義務)のサラーの前に行われる2ラカアは、現世にあるどんなものにも優ります。
 
 アーイシャによると預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《ファジュルの2ラカアは現世にあるどんなものにも優る。》(ムスリム)

 ⑤合同でファジュルのサラーを行えば、キヤームッ・ライル(深夜に行われる義務ではない礼拝で、大きな徳があるとされる)と同じ報酬が約束されます。

 ⑥天使が集まり、彼らは合同でサラーを行った人に祈願します。
 
 アブーフライラは言った:アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)がこのように言われるのを聞いた:《合同で行われるサラーは、あなた方が一人で行うサラーよりも25部分で優る。そして夜の天使と昼の天使がファジュルのサラーに集まる。》(アル・ブハーリー)

 ⑦ファジュルのサラー後に唱えられるズィクルには大きな徳があります。
 
 アブーザッルによると、アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《ファジュルのサラー後、足を曲げたまま、人と話す前に、『لا إله إلا اللهُ وحدهُ لا شريك له ، له الملك وله الحمد يحيى ويُميت وهو على كل شيءٍ قدير 』ラーイラーハ イッラッラーフ ワハダフ ラーシャリーカ ラフ、ラフルムルク ワラフルハムドゥ ユフイー ワ ユミートゥ ワフワ アラー クッリ シャイイン カディール(唯一で並ぶ者無きお方、アッラー以外に真に崇拝すべきものはなし。主権と賛美はかれにこそ属します。かれは生と死を与えるお方。そしてかれこそは全能のお方です。)と10回言う者に10の善行として書かれ、10の悪行が消され、10段分位を上げられるだろう。そして(これを言った)一日はすべての嫌悪される事柄から守られ、悪魔から護衛されるだろう・・・(以下省略)》(アッティルミズィー)

 ⑧サラーを完遂した人は、敬虔な者の一員として、また慈悲深いお方の使節団として書き留められます。

 アブーウマーマによると預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《家でウドゥー(小浄)を済ませてマスジドにやって来て2ラカアのサラーをファジュルの前に行い、ファジュルを行うまで座り、マスジドを後にした者のその日のサラーは、敬虔な者のサラーとして書き留められ、その者は慈悲深いお方の使節団の一員として書き留められる。》(アッ・タバラーニーの良好な伝承、アルバーニーが良好とした伝承)

 ⑨サラー後、あなたはアッラーの保護と安泰の中にあります。

 《ソブフ(ファジュル)のサラーを行った者はその日、アッラーと隣接する状態にある。》(アッ・タバラーニーの良好な伝承)

 ジュンドゥブ・ブン・スフヤーンによると、アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《ソブフのサラーを行った者は、(夜を迎えるまで)アッラーの保護下にある。》(ムスリム)

 ⑩ファジュルのサラーはあなたに大きな報酬を得る機会を与えてくれます。

 ファジュルを合同で行った者は、ハッジとウムラを行ったときの報酬を貰う機会を得る。この報酬はファジュルを行う者にしか与えられない。アナス・ブン・マーリクが預言者(平安と祝福がありますように)について伝えたことによると、《早朝に合同でサラーを行い、腰を下ろして太陽が昇るまでアッラーをズィクル(念唱)し、2ラカアのサラーを行った者には、ハッジとウムラの報酬が完全に完全に完全に書き留められる。》(アッティルミズィーによる良好な伝承、アル・アルバーニーが良好としたハディース)

 サハル・アル・ガーミディーによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《アッラーよ、私のウンマ(共同体)のその早朝において祝福してください。》(イマーム・アフマド、アッティルミズィー、アブー・ダーウド、イブン・マージャ)

 ⑪ファジュルのサラーを合同で行う者に、天国入りがアッラーに約束されます。

 アブームーサー・アル・アシュアリーは言った。アッラー使徒(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《アル・バラダイン(ファジュルとアスル)のサラーを行う者は天国に入る。》(アル・ブハーリー、ムスリム)

 アマーラ・ブン・ルワイバによると、預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《日が昇る前と没した後にサラーを行う者は(地獄の)火を触れることがない。》(ムスリム)

 これらが、アッラーのご満悦を求めてマスジドを行き来する者にアッラーがお与えになる吉報です。彼らは、睡眠と寝床の心地よさを後にし、またムハンマドさま(アッラーの祝福と平安がありますように)に追従することで偉大な報酬を寛大なアッラーから期待する者たちです。

 兄弟姉妹の皆さん、ぜひこの素晴らしい徳の数々を手にできるよう、努力しようではありませんか。アッラーが私たちを成功へと導いてくださいますように。

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 代わって、サラートゥルファジュルを放棄した場合に関するハディースをお知らせします。
 
-イブン・マスウード(ラディヤッラーフ アンフ)に拠ると、彼は言った:預言者(平安と祝福がありますように)のところで、朝まで眠った男の話が出た際に彼(アッラーの祝福と平安がありますように)は言われた:《その男は、悪魔が耳に放尿した者だ。》 (真正ハディース)
 
-預言者(平安と祝福がありますように)は言われた:《あなた方のうちで眠る者の後頭部に悪魔は3つの結び目を作る。彼は一つ一つの結び目に「夜は長いぞ」と言ってそれを打つ。(眠っていた者が)起きてアッラーを唱えると、一つ解ける。ウドゥーを行うと、一つ解ける。礼拝を行うと、すべての結び目が解けたことになり、活発かつ気持ちよくなるが、そうでない場合(起きなかった場合)、気分が悪く、怠けが生じる。》 (ムスリムより)


旧約とクルアーンの比較本の紹介

2008年03月05日 | 他の解説

最近ここに載せている、旧約とクルアーンの比較を参考にしている本の紹介をしておきます。本当は最初にきちんとするべきでしたねぇ。すみません。

タイトル:クルアーンとトーラー(律法、いわゆる旧約聖書) どこで一致し交差するか
著者:ハサン アル・バーシュ

本の表紙画像を載せておきます。右側に古いアラビア書体のクルアーン、左側に旧約の文章か分かりませんが、ヘブライ文字が見えます。

本の内容:タイトルどおり、クルアーンと旧約の内容を比較しています。同じ内容の言及、片方にしかない言及などを述べています。細かく比較していて、興味深いです。こちらのブログで紹介しているのはあくまでも管理人の興味や訳してみる価値があると判断した部分のみの翻訳です。

同じ著者の本で、新約とクルアーンを比較したものもあるのですが、私は購入したにも拘らずまだ読んでいません。一通り読んでみて、紹介したいなと思う部分があれば、そのときにまたこちらで紹介したいと思います、インシャーアッラー。

話は変わって、著者について少し書こうと思います。
ハサン先生は、私が4年生のときの、宗教比較という、世界のさまざまな宗教を勉強する科目の先生でした。彼はパレスティナ人で、おそらく幼い頃にシリアに移ってきたか、シリア生まれだったと思います。キリスト教、ユダヤ教に詳しく、本来私たちが習う教科では、これら二つの宗教の他に、仏教やゾロアスター教も習うのですが(実際習いましたが)、ハサン先生は、ユダヤ教とキリスト教、そして宗教に絡んだ現代の問題などを熱心に教えてくださったことをよく思い出します。試験のためだけの授業にならないように、一生懸命、生徒に接していました。「あなたたちは、今、世界で何が起こっているか、きちんと知っておかなければいけない。」とよく私たちに言っておられました。

ま、先生についてのお話はこのくらいにしておきます。

しばらくは、本命のジュズ・アンマの解説を進めて、ハサン先生には失礼かもしれませんが、気分転換のつもりで、先生の本の部分的な紹介をしようと思います、インシャーアッラー。

 

 


アーダム(アライヒッサラーム)・人間の創造について読み比べる【4】

2008年03月01日 | 他の解説

 クルアーンと旧約が語る、アーダムとその妻が犯した罪の結果とは?

 旧約によると、
 ①主はすべての動物から蛇を選んで、呪った。そのため蛇は足で移動するのではなく腹で這い、死ぬまで土を食べる。
 
 ②女性は苦痛を伴って妊娠し、出産する。

 ③アーダム:アーダムの行いのせいで、主は大地を呪った。アーダムは死ぬまで苦労して糧を得ながら生活する。

 クルアーンに蛇は登場しない。
 アーダムの妻や、彼女の妊娠、出産に関する言及は無い。
 アーダムの罪が原因で大地が呪われるという言及も無い。

 ①アッラーが蛇を呪ったという話は、受け入れがたいことではないだろうか。もし本当に蛇が呪われたのであれば、預言者ムーサー(平安あれ)が持つ杖を、当時の魔法使いたちを絶句させるために蛇に変えるのでなく、他の動物を選んだことだろう。そして、実にアッラーは、彼の命令に背いた悪魔以外のご自身の創造物を呪わなかった。悪魔は理性と思考能力と拒否する能力を持つ、火から創られた存在であり、陸で生活する動物ではない。

 ②蛇は、土以外のものも食べる。冬の間は土を食べて過ごすようだが、春と夏と多くの秋の日には、野ねずみやカエルや虫を食べる。そして海中には蛇の形をした、猛毒を持つ動物がいるが、それらは腹で這って移動しないし、土を食べることも無い。

 創世記3章の終わりに、神は人間を追い出し・・・とある。

 ここで、アーダムとハッワーは園から大地へ追い出され、以後二人は子を設け、大地で働くようになったことが分かる。ここまでで話が終わるわけではない。間違いを犯したアーダムと主との関係は、大地に移ってからも途絶えることはなかったと、クルアーンにある。アーダムは、自分が追放されたのは、自分が罪を犯してしまったからだと気づく。楽園から、苦労の世界への追放である。そして彼は、もし自分が主を忘れてしまったら、自分は大地を耕すアッラーの代理者で居られなくなることにも気づく。

 旧約に抑圧され、間違いの原因とされたハッワーがアーダムと共にアッラーに赦しを求め、罪を犯してしまったことを認める様子がクルアーンにある。

 「かれら両人は言った。「主よ、わたしたちは誤ちを犯しました。もしあなたの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば、わたしたちは必ず失敗者の仲間になってしまいます。」」(高壁章23節)

 「その後、アーダムは、主から御言葉を授かり、主はかれの悔悟を許された。本当にかれは、寛大に許される慈悲深い御方であられる。」(雌牛章37節)

 「その後、主はかれを選び、悔悟を赦され御導きになられた。」(ターハー章122節)