ムスリムの子ども教育2~家庭の土台の作り方(2)~
ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(18:10~38:00)bit.ly/1OYuajs
第一回目は、ニーヤ(意思)により、家庭の土台を作ることについて学びました。正しいニーヤ(意思)を持つことで、アッラーが家庭の土台を強固にしてくれます。正しいニーヤ(意思)とは、現世の物を求めて結婚するのでも、相手がただ好きだから結婚するというものでもありません。基本的に、「アッラーのご満足を求めて、結婚します。」というニーヤ(意思)です。もしすでに結婚している方は、今からでも遅くはありません。今から、家族に接するニーヤ(意思)、ご主人に対するニーヤ(意思)、子どもたちに対するニーヤ(意思)を誠実に正しく持ち直すことから始めましょう。ご家族に対して、「アッラーのご満足を求めるために」というニーヤ(意思)を持ちましょう。
結婚は預言者ムハンマド様(彼にアッラーの祝福と平安あれ)のスンナです。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。
《ニカー(結婚)は私のスンナです。私のスンナをしない者は私の仲間ではありません。》イブンマージャ伝承
もちろんイスラーム以前の人たちも、ムスリムではない人たちも結婚します。彼らの結婚が、ムスリムにとってのニカー(結婚契約)と違うのは、それが預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のスンナ、つまりそれによってアッラーからの報奨をもらえる行為である点です。人間の持つ性欲という欲望さえ、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のスンナに従って結婚することで、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を通してアッラーに近づく行為となります。ですから、基本的には、ムスリムは結婚し家庭を築くことを優先するため、他の宗教のように修道院に入ったり、出家したりしません。ただ稀な例として、経済的な理由など、様々な理由により結婚が難しい場合で、ハラームの行為(婚外交渉や異性のことを注視したり、考えたりするetc.)に陥らないのであれば、独身でいることもあります。
例えば、タービイーンの有名なハサヌ・ル=バスリー師(アッラーのご慈悲あれ)は、「なぜアッラーの使徒のスンナをなさらないんですか?」と尋ねられ、「私はそれがスンナであることは知っています。決してそれを軽視したり、怠惰なために結婚しないわけではありません。ただ自分の心が2つのもの、我が主と妻を収めることができないことがわかったのです。そして、私の心にとって、偉大かつ崇高なるアッラーは義務であり、妻を娶ることはスンナであるため、義務をスンナよりも優先したのです。」と答えました。また、イマーム・ナワウィー師(アッラーのご慈悲あれ)も44歳で亡くなりましたが、知識探求と教授とダアワに専念し、結婚のことについての考えがまったくよぎることなく生涯結婚しませんでした。こういった例はまれですが、イスラームでは結婚しない人を批判する必要もないですが、結婚しないことがアッラーに近づく特別な方法だという訳でもありません。
著名なビシュル・ル=ハーフィーとイマーム・アハマド(彼らにアッラーのご慈悲あれ)の逸話があります。ある人がビシュル・ル=ハーフィーに「あなたの状態はどうですか。」と尋ねると、彼は、「アッラーは私をイッリッユーン※の中に入れてくださり、天国をおゆるし下さいました。」と答えました。
※天使が書く善行をした人たちの帳簿とも、最高天にあるアッラーの玉座の下の場所とも言われる
次に「イマーム・アハマドはどこにいますか?」と尋ねられると、彼は、上を見上げ頭を上げ、また更に見上げ、また更に見上げ、かぶっていた帽子が床に落ちるほど上を見て指さしました。「どうして彼はあなたよりも上にいるのですか?」と尋ねられると、「彼は結婚し、アッラーの御使い様のスンナを実行しましたが、私はしなかったからです。また彼は子どもを持ち、知識とズィクル(アッラーを唱念すること)についての善い教育を施し、彼にはその子ども達の知識とズィクルの報奨がありますが、私にはないからです。また彼はアッラーの道のために拘留され罰を受け試練に遭い忍耐しましたが、私は行っていないからです。この3つにおいて彼は私を超越しているのです。」このようにイスラームには、結婚しないことがより敬虔であるといったことはありません。
結婚するかどうか、といえば、基本は結婚するというのが正解です。次に、誰と結婚するか、については、ハディースがあります。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。
《次の四つの理由において、女性と結婚します。それらは、彼女の財産、彼女の血統、彼女の美しさ、そして彼女の信仰です。それ故、信仰深い女性を得るようにしなさい。あなたの両手が埃だらけになりますように!※》※しっかりやりなさい!の意。人を励ます場合にも使われる言葉である
女性の財産、地位、容姿などを理由に結婚することもできますが、基本は、信仰深い女性を選ぶことが優先されます。
またどんな理由で結婚するか、というと、前回お伝えした誠実なニーヤ(意思)によって結婚します。「アッラーのご満足を求めて、結婚します。」というニーヤ(意思)です。
次に、どうやって結婚するか、です。配偶者になる人を選んで、実際に結婚したいと決めたら、次にすることはフトバ(婚約)です。結婚したい相手の女性の後見人(父親etc.)の家に、本人、または代理人が行き、出席したムスリムたちが見守る中、婚約をしに来た男性が、アッラーを称賛し、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)に祝福祈願をし、参加者たちにアッラーを畏れるよう忠告した後、彼女の父親または、後見人に結婚を申し込みます。これらのスンナは、家庭を築く最初の行事ですが、最近は行われることが減っています。後見人は、結婚経験のない女性には結婚の意思を確認すべきで、特に再婚の女性には彼女に結婚の意志がなければ結婚は成立しません。もし彼女に結婚を受け入れる意志があれば、後見人はそれを男性に伝え、最後にファーティハ章を読誦し終了します。フトバをした後は、まだニカー(結婚契約)をした後のように、二人きりで出かけたり話したりすることが許されているわけではありません。ただ、お互いに、フトバ中は、他の人とフトバや結婚をすることが禁じられるというものです。男女の関係は、結婚前の状態なので、二人きりで話したり、会ったりすることは許されていません。このことは家庭を築く上でアッラーの英知があります。
次に、二人が結婚の意志を固めたら、ニカー(結婚契約)をします。ニカーをする際には、敬虔な人たちに集まってもらうことがスンナです。また、招待する人たちは、アッラーと預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が最後の審判に喜んでくれる人たちを選びましょう。例えば、親戚関係をよくするという義務を果たすために、親戚をたくさん招待します。結婚式が、親戚関係を悪くするきっかけにしないように気を付けましょう。また、結婚式では、忙しさや人の多さでアッラーのことを忘れてしまうことがないよう注意しましょう。そう言うと、「今日は彼らの結婚式なんだから放っておいてあげたら。」と言ったりしますが、アッラーとのつながりが結婚式に切れるということがあるでしょうか。結婚式の当日だけの喜び、幸福で終わらせず、現世だけでなく永遠の来世でもふたりで喜び、幸せになることができる結婚式にしましょう。それはお祝いやパーティーをしない、ということではありません。イスラームでも喜びを表すことはスンナです。結婚式で喜びを表すことについて、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)がこうおっしゃっています。
《このニカーを公表して、マスジドで行いなさい。またそれにおいてダッフ(タンバリンのような太鼓)を叩きなさい。》ティルミズィー伝承
楽器は基本的にはイスラームでは禁止されていますが、結婚式には人々に喜びを与えるためにダッフを叩き祝いなさいと言っています。善い言葉や詩で喜びを表し、女性は女性のみの会場で礼儀を護った簡単な踊りを楽しむこともできるし、男性は男性のみの会場で礼儀を護った踊りをすることも許されています。イードの日には、預言者モスクでさえ踊りをしていました。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のハディースにこうあります。
《イードル・アドハーの日、アブー・バクルが彼女の所にやって来た。その時、彼女の許に二人の女性がいてタンバリンを打ち鳴らしながら歌っていた。アッラーのみ使いは衣服で全身を覆っておられた。アブー・バクルは彼女達を叱った。
するとアッラーのみ使いはお顔をお出しになり「アブー・バクルよ、祭なのだから彼女達をそのままにしておくがよい」と申された。アーイシャは「アッラーのみ使いは私がエチオピアの人々がスポーツをしているのを見ておりますと、その御方の外とうで私を人目から遮るようにして下さったことがありました》ムスリム伝承
《イードの日、モスクにエチオピアの人々が歌い踊りながらやって参りました。預言者は私をお呼びになりました。
私は私の顎をその御方の肩に乗せました。私は終始そのような恰好で彼等のスポーツを眺めておりました。》ムスリム伝承
この時エチオピアの人たちが歌っていたのは、エチオピア語で預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を称賛する歌でした。お祝いの席やイードでは預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)を称賛するのがスンナです。これらは、結婚式のハラールな楽しみ方です。それによって、結婚式にアッラーの祝福が降り、アッラーの光によって二人が祝福されるやり方です。
よりによって人生の門出に、アッラーに背く方法で行う結婚式に何の意味があるでしょうか。小さいころからヒジャーブをしていた女性が結婚式の日に、それを脱いでドレスに着替えてしまうのはどうしてでしょうか。男性がアウラの表れている自分の妻を横に置いて、参列した男性たちに彼女の美しさを見せているのに満足するのはなぜでしょうか。それはただ、西洋の習慣が入って来たから、というだけではありません。結婚式の本来の意味が失われていることに拠るものです。
また、自分の持っているものを自慢するという悪習に慣れてしまったためです。新しい車を買った人は、友達に見せて自慢したがります。必要だから買うのではなく、自慢するために買う人もいます。新しい服を買ったら、人々が見て褒めてくれるのを期待します。アクセサリーを買ったら、それを着けて人が称賛してくれるのを待ちます。自慢する心は、心の病のひとつです。
現世の物だけでなく、アッラーとの崇拝行為まで自慢したくなります。クルアーン読誦を人前でする時、美しい読誦を人々が褒めてくれるために読むのか、アッラーのお喜びを求めて読むのか、そこには天と地の差があります。
自分の車を自慢するように、自分の家の美しさを自慢するように、自分の妻の美しさを自慢するのは病気です。女性は物ではありません。女性はアッラーがお創りになられた価値ある存在です。これも人々に褒められたという心の病気のせいです。この病気は、その人の人生を台無しにします。なぜなら、現世の物には流行があり、新型のものがどんどん出てきます。今、人々が褒める物も、来年には古い物になってしまい、幸せを感じるには、また新しい物を買わなければならず、お金を浪費し、消費を続けていかなければ幸せも続きません。これがアッラー以外のものの満足を求める人生の結末です。
反対に、アッラーのご満足を求めて行うことは、現世でも来世でも消えません。「どうしてその服を着ましたか?」「アッラーのお喜びを求めて清潔にするため」、「アッラーの恩恵を示すため」、「アウラを隠すというアッラーの命令を遂行するため」と答える人は、年月によってその服を着るときの幸せは変わりません。10年後に着ても、同じ幸せを感じることができます。
アッラーが私たちの心を病気からお守りくださいますように。
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