その1 乗船まで ④ 圧巻 ペトラ遺跡
4月10日(5日目)、ここは19世紀についにインディ・ジョーンズ「最後の聖戦」の世界に足を踏み入れることができた。解説によれば、紀元前1~後1世紀くらいに建設された古代アラブ民族の一つナバタイ人の首都の遺跡で、ローマ帝国もこの地を支配したが、地震で住民も減り、やがて廃墟となっていったものを、19世紀に探検家が「発見」し有名となっていったものだ。すでに1985年に世界遺産となっている。私も映画でその存在を知り是非行ってみたい地の一つであった。そもそも、今回の旅に行く決心をしたことの一つが、このペトラとマチュピチュがコースに入っていたからだ。
ホテルを7時過ぎには出発し、8時過ぎには数十台のバスで満車に近いビジターセンター前に着いた。かくも巨大な観光地になっているとは少々驚かされた。欧米人の団体客も多い。入場チケットを見れば50J.D(ヨルダンの通貨単位、1J.D=約150円)とされており、日本円換算すれば7500円というのにもびっくり。それくらい、見るところ一杯、満足度も高いということなんでしょう、と期待。この日は、片道約4.5Km先の昼食予定地まで、日本語のできる現地ガイドが引率してくれるが、昼食後は放し飼いで、14時20分までにバスに戻れとの強いお達し。入場するとほどなく、馬、ろば、馬車、ラクダの勧誘が激しく「オマ」「オマ」の声、実は「お馬」なのネ、そこにかぶせるように子どもたちの「ワンダラ」の叫び、もちろんこれは絵葉書や腕飾りなどの土産物売りが「1$」と言っているので、「秘境で彷徨うものwondererになれ」という呪詛の言葉ではない。マ、とにかく、アラブ人や欧米人に混じり、ピースボートのご一同様も砂ぼこりの中を行く。そのうち、まわりが岩になっていく。日本の岩石とはかなり異なり、赤っぽい、または薄汚れた茶色~ピンクの色とでも言えばいいか。砂岩なので、硬さはなく、長年の風雪に耐え、というのは嘘、風は激しいが雪はおろか雨も降らぬこの地で、風による見事な自然の造形物となっている、というのも嘘。遺跡の多くはもともとは墓、墓所として使われ、加工しやすいのでさまざまな人工の手が入っているというのがホント。もちろん、風化により奇妙な形になっている岩もある(例えば象岩)。そのうち、山の間を切り開いた道(シークSiqと言われる)に踏み込むと、場所によっては幅数mの狭小で日も当たらぬところもある。これで馬に乗ればジョージ・ハリスンの世界そのものだ。実際、その狭いシークを馬・馬車が行きかう。これが1.5Km続く。そのうち前方でどよめきが聞こえる。実際そこに達すると、「アアー」
か「オー」かはともかく、声をあげずにはいられない。一際狭くなった岩山の先から陽光が射し、その先に、そうその先に、エル・ハズネ(宝物殿)の一部を垣間見ることが出来るのだ。(閑話休題 国語の先生教えて、岩山の間でも垣間見る でいいのですか?)
ホテルを早い時間に発ったのは、あとの日程のせいというより、この宝物殿が午前中の陽光に輝く必要があったせいだ。そう砂岩はピンク色に反射している。これは一見の価値があります。しばし、茫然と眺めいり、例外なく写真撮影に余念なく休んだ後も、まだまだそこから先も続きます。今度は一転して周りを岩山に取り囲まれた広い道を歩く。先に書いたようにローマ帝国もこの地を統治したわけだからローマ風石畳が敷き詰められている所や、風化の結果海岸並みの赤茶けた砂地であったり、とても歩きにくい。しかし、都として遺跡があちこちに望見できるので飽きることはない。ローマ円形劇場があったり、大神殿であったり、写真を撮るのも飽きてきたころ、食堂にたどり着き昼食となる。。
さらに奥のエド・ディルと呼ばれる修道院跡も行きたいが、帰りの時間を考えれば
難しい。しかし、せめて200mほど先に見ゆる神殿まで行きたい。妻は直接帰路に向かい私一人でそこまで登った。礼拝の間があったけれど、遠くから見た方がいいものもある。後は、ひたすら追いかけるうちにシークの途中で妻に会う。そこからが大変、行くときはガイドの説明に足を止め、それほど距離を感じなかった道のりが帰りは長い。おまけに陽射しはきつく、砂ぼこりが舞う。バスにたどり着いたのは定刻直前で、遅刻者がやっぱり出た。でも、満足。
そして、いよいよアカバ港から乗船することになるのです。「アラビアのロレンス」は何歳に見た映画だったのでしょう?ほとんど記憶にないし、インターネットに接続できませんので調べることもできませんが、「アカバへ」というラクダ部隊(馬?)を疾駆させるシーンは記憶に残っています。でも我々は、バス車中で、それも足をマッサージしながら「アカバへ」向かいました。
4月10日(5日目)、ここは19世紀についにインディ・ジョーンズ「最後の聖戦」の世界に足を踏み入れることができた。解説によれば、紀元前1~後1世紀くらいに建設された古代アラブ民族の一つナバタイ人の首都の遺跡で、ローマ帝国もこの地を支配したが、地震で住民も減り、やがて廃墟となっていったものを、19世紀に探検家が「発見」し有名となっていったものだ。すでに1985年に世界遺産となっている。私も映画でその存在を知り是非行ってみたい地の一つであった。そもそも、今回の旅に行く決心をしたことの一つが、このペトラとマチュピチュがコースに入っていたからだ。
ホテルを7時過ぎには出発し、8時過ぎには数十台のバスで満車に近いビジターセンター前に着いた。かくも巨大な観光地になっているとは少々驚かされた。欧米人の団体客も多い。入場チケットを見れば50J.D(ヨルダンの通貨単位、1J.D=約150円)とされており、日本円換算すれば7500円というのにもびっくり。それくらい、見るところ一杯、満足度も高いということなんでしょう、と期待。この日は、片道約4.5Km先の昼食予定地まで、日本語のできる現地ガイドが引率してくれるが、昼食後は放し飼いで、14時20分までにバスに戻れとの強いお達し。入場するとほどなく、馬、ろば、馬車、ラクダの勧誘が激しく「オマ」「オマ」の声、実は「お馬」なのネ、そこにかぶせるように子どもたちの「ワンダラ」の叫び、もちろんこれは絵葉書や腕飾りなどの土産物売りが「1$」と言っているので、「秘境で彷徨うものwondererになれ」という呪詛の言葉ではない。マ、とにかく、アラブ人や欧米人に混じり、ピースボートのご一同様も砂ぼこりの中を行く。そのうち、まわりが岩になっていく。日本の岩石とはかなり異なり、赤っぽい、または薄汚れた茶色~ピンクの色とでも言えばいいか。砂岩なので、硬さはなく、長年の風雪に耐え、というのは嘘、風は激しいが雪はおろか雨も降らぬこの地で、風による見事な自然の造形物となっている、というのも嘘。遺跡の多くはもともとは墓、墓所として使われ、加工しやすいのでさまざまな人工の手が入っているというのがホント。もちろん、風化により奇妙な形になっている岩もある(例えば象岩)。そのうち、山の間を切り開いた道(シークSiqと言われる)に踏み込むと、場所によっては幅数mの狭小で日も当たらぬところもある。これで馬に乗ればジョージ・ハリスンの世界そのものだ。実際、その狭いシークを馬・馬車が行きかう。これが1.5Km続く。そのうち前方でどよめきが聞こえる。実際そこに達すると、「アアー」
か「オー」かはともかく、声をあげずにはいられない。一際狭くなった岩山の先から陽光が射し、その先に、そうその先に、エル・ハズネ(宝物殿)の一部を垣間見ることが出来るのだ。(閑話休題 国語の先生教えて、岩山の間でも垣間見る でいいのですか?)
ホテルを早い時間に発ったのは、あとの日程のせいというより、この宝物殿が午前中の陽光に輝く必要があったせいだ。そう砂岩はピンク色に反射している。これは一見の価値があります。しばし、茫然と眺めいり、例外なく写真撮影に余念なく休んだ後も、まだまだそこから先も続きます。今度は一転して周りを岩山に取り囲まれた広い道を歩く。先に書いたようにローマ帝国もこの地を統治したわけだからローマ風石畳が敷き詰められている所や、風化の結果海岸並みの赤茶けた砂地であったり、とても歩きにくい。しかし、都として遺跡があちこちに望見できるので飽きることはない。ローマ円形劇場があったり、大神殿であったり、写真を撮るのも飽きてきたころ、食堂にたどり着き昼食となる。。
さらに奥のエド・ディルと呼ばれる修道院跡も行きたいが、帰りの時間を考えれば
難しい。しかし、せめて200mほど先に見ゆる神殿まで行きたい。妻は直接帰路に向かい私一人でそこまで登った。礼拝の間があったけれど、遠くから見た方がいいものもある。後は、ひたすら追いかけるうちにシークの途中で妻に会う。そこからが大変、行くときはガイドの説明に足を止め、それほど距離を感じなかった道のりが帰りは長い。おまけに陽射しはきつく、砂ぼこりが舞う。バスにたどり着いたのは定刻直前で、遅刻者がやっぱり出た。でも、満足。
そして、いよいよアカバ港から乗船することになるのです。「アラビアのロレンス」は何歳に見た映画だったのでしょう?ほとんど記憶にないし、インターネットに接続できませんので調べることもできませんが、「アカバへ」というラクダ部隊(馬?)を疾駆させるシーンは記憶に残っています。でも我々は、バス車中で、それも足をマッサージしながら「アカバへ」向かいました。