⑦ イタリア バーリからマテーラ観光
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵のあたりのバーリBariという港町。ここのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中でにいくつか教会が見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったらしい。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(またまた閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えます。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ
⑧ クロアチア ドブロブニクと、モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸のドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気となってるのかこの街の発音しにくい名前も何度か見聞きしたことがありますし、訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名がピント来ません。私の場合だと、ナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアは、東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国という記憶しかありませんし、せいぜい、その後なぜか紛争が続いていきたらしいという不確かな知識しかありません。多分、乗客の多くも同程度の知識水準と推察されたのでしょう、⑥で書いたように、4/17に入門的講演(および事後、4/23「旧ユーゴ紛争に何を学ぶか」)が企画されており非常に参考になりました。この講師Cさんは話もうまく、メッセージも明確でした。またまた、煩瑣な知識紹介は避けたいと思いますが、読者諸君もあまり変わらないと思いますので少しだけ触れます。(サッカー好きならジーコのあとの全日本監督のオシムがクロアチア人であるとご存知かもしれない、そして、このCさんがオシムさんの通訳であったことからオシムについての講演もあったがここでは省く)
・ユーゴは南の、スラビアはスラブ人の住む国という意味だそうで6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払ったうえ今は7つの国になっている
など。
デ、寄港するからというだけでなく、この時の教訓から学ぶことが多くあるとCさんは言います。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義の台頭はなかなかとどめることが難しいと言われます。そして、紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られだし、ヘイトスピーチなどの兆しが見られるではないか!紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ阿部さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの動向への警告などが強調されました。ここまで、詳しく説明したのは、Cさんの意見に同感のところが多かったからでありますが、クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前であり、20年ほど私の世界認識は止まっていることに気づき愕然とさせられました。世界史で覚えた「マケドニア」っていうのもこの7つの国の一つって知ってました?また、このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違うそうです。
それはともかく、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OPではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで4種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、踊りだす人がアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。このことについては、もう少し余裕が出たときに書きます)
赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、旧市街は、遠望した街並み以上に城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁が総延長距離2Km築かれ、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差、道幅、広くなって銃眼や大砲の設置してある砦風の場所、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので半時間はあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・・ということなので、特記事項無し。
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵のあたりのバーリBariという港町。ここのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中でにいくつか教会が見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったらしい。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(またまた閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えます。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ
⑧ クロアチア ドブロブニクと、モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸のドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気となってるのかこの街の発音しにくい名前も何度か見聞きしたことがありますし、訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名がピント来ません。私の場合だと、ナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアは、東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国という記憶しかありませんし、せいぜい、その後なぜか紛争が続いていきたらしいという不確かな知識しかありません。多分、乗客の多くも同程度の知識水準と推察されたのでしょう、⑥で書いたように、4/17に入門的講演(および事後、4/23「旧ユーゴ紛争に何を学ぶか」)が企画されており非常に参考になりました。この講師Cさんは話もうまく、メッセージも明確でした。またまた、煩瑣な知識紹介は避けたいと思いますが、読者諸君もあまり変わらないと思いますので少しだけ触れます。(サッカー好きならジーコのあとの全日本監督のオシムがクロアチア人であるとご存知かもしれない、そして、このCさんがオシムさんの通訳であったことからオシムについての講演もあったがここでは省く)
・ユーゴは南の、スラビアはスラブ人の住む国という意味だそうで6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払ったうえ今は7つの国になっている
など。
デ、寄港するからというだけでなく、この時の教訓から学ぶことが多くあるとCさんは言います。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義の台頭はなかなかとどめることが難しいと言われます。そして、紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られだし、ヘイトスピーチなどの兆しが見られるではないか!紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ阿部さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの動向への警告などが強調されました。ここまで、詳しく説明したのは、Cさんの意見に同感のところが多かったからでありますが、クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前であり、20年ほど私の世界認識は止まっていることに気づき愕然とさせられました。世界史で覚えた「マケドニア」っていうのもこの7つの国の一つって知ってました?また、このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違うそうです。
それはともかく、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OPではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで4種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、踊りだす人がアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。このことについては、もう少し余裕が出たときに書きます)
赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、旧市街は、遠望した街並み以上に城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁が総延長距離2Km築かれ、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差、道幅、広くなって銃眼や大砲の設置してある砦風の場所、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので半時間はあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・・ということなので、特記事項無し。