その3 大西洋横断 ラテン・アメリカ編
② ベネズエラ(5/7~8)
この項、記事多く、今書ききれない。また遡って書きます。ご寛恕を!
③ パナマ(5/11~5/12)
ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ
海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11
日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、ターミナルならインターネットが使えるので、やっと「その3 ①」を投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツ
が汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(パナマ固有の通貨はあるが、米国の影響大で$が通用する)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、コロン駅―パナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。そのサービスまで無給のCCにやらせるとは、ピースボートも、相当エグイ人使いではある。
マ、それはさておき、この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインが
ボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)
からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は二つの海の水面は26mもの高度差があるが、レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。
なお、到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに一人乗りの小さなフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子
を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。
日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は西から東へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。
それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。
④ ペルー いよいよマチュピチュ編
② ベネズエラ(5/7~8)
この項、記事多く、今書ききれない。また遡って書きます。ご寛恕を!
③ パナマ(5/11~5/12)
ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ
海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11
日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、ターミナルならインターネットが使えるので、やっと「その3 ①」を投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツ
が汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(パナマ固有の通貨はあるが、米国の影響大で$が通用する)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、コロン駅―パナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。そのサービスまで無給のCCにやらせるとは、ピースボートも、相当エグイ人使いではある。
マ、それはさておき、この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインが
ボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)
からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は二つの海の水面は26mもの高度差があるが、レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。
なお、到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに一人乗りの小さなフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子
を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。
日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は西から東へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。
それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。
④ ペルー いよいよマチュピチュ編