レダック ピースボートに乗る

2014-05-20 07:37:32 | 日記
その3 大西洋横断 ラテン・アメリカ編
(訂正 お詫び 前回アップした③パナマの下から4行目 パナマ運河の方向に関して 大西洋から太平洋へ抜けるのを「西から東へ」は、間違いで「東から西へ」ですね。
混乱してゴメンナサイ)
② ベネズエラ(5/7~8)
ピースボートにとってベネズエラは、特別な思い入れのある国に見える。先述した「エル システマ」英語なら「The System」、だから、体系、制度などの無味乾燥な固有名詞なのでいささか説明を要す。1975年、音楽家で大学の先生だった人が、ベネズエラのスラムの子どもたちに音楽の素晴らしさを通じて自信をつけさせようとして始めた音楽教育の施設、およびその運動のことで、40万人の子どもたちが学ぶまでに拡大し、今や政府の支援も受けるようになっている。ここで学び、一流の音楽家になっていった者たちで構成する交響楽団は名声を博している。5月8日にOPで見学することになったその本部は、個人・グループ練習室が100室以上を数え、様々な講義・実習室・コンピューターを駆使して作曲できる部屋や、演奏会場も有し、近くの大学の音楽学部の学生が借用するなど想像を超えていた。
PBは、2008年から楽器を寄付するなど交流を始め、今年も日本で集めた楽器を贈呈するという任務とともに、今回はカサブランカから8名の「エル システマ」のメンバーを乗船させ、船内での演奏会を開くなどより一層の交流活動を深めることが大きな狙いとなっていた(ようだ)。
また、前項で書いたように、(前大統領となってしまったが)チャベス率いたベネズエラに対して親近性をPBは感じているかに思える。これも前述「折鶴」のメンバーが、現大統領に面会できるなどとは想像をこえている。「船内新聞5月10日号」の冒頭だけ紹介する。
「ベネズエラに寄港していた8日、カラカス市内において第83回クルーズおりづるプロジェクトの被爆者6名がベネズエラのマドウーロ大統領に面会しました。・・・」
このためか、寄港地ラグアイアに着いた5月7日の朝、港は吹奏楽で包まれるワ、PB総ディレクターTさんは和服で答礼の意を表すワ、夜には港から数分の近くの公園で歓迎パーティーは開かれるワ、そこにTさんを見習ってかオバ(ア)さんの数人は浴衣姿で現れるワ(エ、こんなんまで持ってきたの!)、地元の人も子や孫がでているからと大挙して押しかけるワ、
マ、エライ騒ぎでした。
 この日、私はOPとして「首都カラカス観光」(12000円)を選んだ。休日でもないのに盛り場は人にあふれかえっており、ガイドの旗を頼りにスペイン統治時代の建物のある旧市街をまわったが、見どころのシモン・ボリーバルの生家・博物館、国会議事堂、教会すべて外観だけで中に入れず、不満が残った。何回か前のブログを見れば、内部見学できており、「どういうこと?」。バスを止めるスペース、昼食の場所、トイレ等々観光地としてのインフラ整備もまだまだの感がある。
 それよりも、私も含め多くの参加者(このコースもバス4台)の耳目を引きつけたものは、ある地点からパラパラ、気がつくとびっしりと山にへばりついて建てられている家々が続いている光景であった。そして、私も含めそれこそ多くの参加者は、この間のIさんの講義を思い出していたに違いない。市街地を挟んで、石油資源の利権構造で甘い汁を吸えた富裕層の住宅地一帯の反対側に、職を求めて勝手に住み着いた貧民層の住居群がどんどん拡大していったということだ。その貧民率(具体的にはどんな指標か?までは分からないが)が75%(4人に3人)であったものを20%までに改革していったのがチャベス前大統領であったのだが、クーデター(20?年)によって大統領官邸で身柄拘束→近くの島に拉致された際も、「大統領を辞任しない」姿勢を貫き、そのメッセージを側近の気転により国営放送で流すことができると、何千?何万?という家々から、わらわらと、そう、わらわらと、人が降りてきて大統領官邸を取り囲んだそうで、ためにクーデター政権は3日で倒れチャベスは復帰したのだ。そのドキュメント映画を見る企画もあり胸が熱くなった。
 そう、車窓からえんえん続くこの光景こそ、現代史の舞台なのだ。(神戸の街の山手が貧民の住居群、そして街がどんどん伸びていくというイメージ)何しろ、区画整理された道に沿って作られたものではないので、山の上方では降りてきて、また帰りに登っていくのは大変、だからびっくりするものがあった。ケーブルカーがついているのですよ。もちろんスペイン語だが英語にすればmetro cableとの表記があったので、思わず注視していると、そこはケーブル駅だったらしく、車窓から見上げると確かにゴンドラが往復していた。その後にガイドさんの説明があり、3路線あり、運賃は日本円で30円くらいだそうだ。
 そういう具合に観光隊御一行様のほうでプラスイメージをもっていたせいか、街の人々は陽気に声をかけてくるように感じられた。現大統領も基本的にチャベス路線を踏襲する線で動いているが、例のクーデター勢力も根強く流動的である。情勢のいかんにかかわらず、PBがこの国との親交を厚く保つ路線は当面続きそうだ。
 8日、「エル システマ」との交流プログラムに参加(7000円)。午前中、冒頭に述べた本部見学。ところが、である。昼食は、カラカスから、も一度ラグアイラへの道を引き返し、PBを横目に見て通り過ぎ、港町のレストランにおいて焼き魚料理ということであった。上で、現代史の舞台と書きすぎたのかも知れないが、昨日も含め2往復してくれなくてもいいのに・・午後もまた、通るの? レストランの通常メニューを見れば600円くらいで、結局バス代? でも、午後は違う道だった。カラカス市域というより、ラグアイラに属する地域の「エル システマ」の音楽練習所を訪問・交流したのだった。元保養所?の施設を入手した「エル システマ」が、この地域の3つのグループ(小学校ごとのようだが、就学前とみられる子もいる)の会員の練習・発表会場としているものだ。小学校ごとの服の色が違うがバスから降りるなり、パーカッションの凄いリズム、数人の子が、タイコ(皮が貼ってあるのは片側だけ)を手で、(なんというのだろうか)中空の木の柱を木の棒で叩いているのが最初の歓迎。2回ホールにあがると別の地域の子どもたちの演奏で、盛り上がる。答礼に訪問団のほうはバス中で練習した「大きな栗の木の下で」や「幸せなら手をたたこ」を身振り付きで発表する(こんなところではレダックは照れない)。そして、正当な国歌ではないが、国民に愛され第2国歌と言われる「ベネズエラ」をスペイン語で合同で歌う(参加者は船上で練習させられたのです)。私もかなり声をはりあげ歌ったのだが、横に来たオバ(ア)サンがまた凄い声、後の交流で分かったのだが、どうも声楽の指導者らしく、数人で彼女と交流している際、いろんなベネズエラの民謡?をゴスペルチックに教えてもらった。「オレーオライローー」とかなんとか(即興ではもう覚えていません)。フリータイムになると、子ども相手だからみんなはしゃぐこと。写真撮影、折り紙、ダンス、贈呈のためある程度まで作成した垂れ幕の共同仕上げ(子供の手やコブシに絵具を塗り、手形として押させる)、パーカッション演奏、名前はともかく電話番号を尋ねること(聞いてどうするの?)などなど・・・帰る時間になり、「もう終わりなので記念撮影しましょう」という趣旨を可愛いCCのAさんが呼びかけても子どもたちはもう熱中、この時ばかりは、もどうしようもないとばかりに、やけくそでスペイン語をがなりたてておりました。
 やはり、子ども相手はいいものです。バスで連れまわされたという悪印象は、帰るころにはすっかり消えていました。