⑥ イタリア バーリからマテーラ観光
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵の上、アキレス腱あたりのバーリBariという港町。ここでのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中にいくつか教会らしい建物も見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。 巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったということだ。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは、貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。ここ土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら、マテーラ」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えますここ。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵の上、アキレス腱あたりのバーリBariという港町。ここでのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中にいくつか教会らしい建物も見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。 巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったということだ。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは、貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。ここ土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら、マテーラ」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えますここ。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ