レダック ピースボートに乗る 改訂版10

2014-07-06 16:11:47 | 日記
③ ペルー リマと、クスコ・マチュピチュ
 5月13~15日、ペルー海流(フンボルト海流ともいう、寒流だし、南半球なので冬に向かうところで結構寒い)に逆らって太平洋に南下したピースボートが、首都リマの外港カヤオに着いて上陸許可が出たのは16日10時過ぎでした。あまりにも有名になった世界遺産マチュピチュへのOPが2日・3日・4日コースやナスカの地上絵も見るなど5種類ほど用意されており、違いまでよく分からないまま、私は3日間のKコースを選びました(代金がナ、ナント174、000円!でもこのために来たようなものダカラネ。)実際の観光体験・疲労度・高山病体験など満喫したのだと思います。
 入港日の16日は、ツアーを取りやめ、港からリマ繁華街へのチャーターバス代だけ申し込んだ。それでも3千円。
(段々状況が分かってくると、OPは団体行動だから、自由がきかないー博物館まで来て見学できないとか、買い物やお茶が決められた地域以外でできないーとか。さらに、上に書いたように代金が割高。そこでインターネットを駆使でき行動力に富む若者は、乗船中に調べて現地旅行社に申し込むとおよそ2/3程度でいける場合がある。そこまでの根性はまだないから、近場の場合だけ見習った)
是非じっくりとラファエル・ラルコ(人名)考古学博物館(外壁が花爛漫で美しいを見て回りたいからだ。ここは、人名が冠してあることから分かるように個人の収集を3年ほど前から公開するようになったものだ。まわりの2~3mの白壁に、多彩で可憐な花が打ちかけられた簾のようにして咲き誇っていた。民間だから入館料は必要なわけで、30ソレス(1ソル 複数はソレス=36円、ほぼ千円)を払ったら、目ざとく妻がシニアなら25ソレスと見つけてくれた。紀元前後からのアンデス文明を示す土・石の展示品は、是非一見の価値がある。素朴なものや、アニメにでも出てきそうなデフォルメした顔など、土器文様や祭祀用装飾品などに描かれた人間・動物の姿は、現代の商業デザインでも通用すると思わせる。別棟は「エロチック」な展示と表示してあり、それぞれの性器をデフォルメした土器や交合する人形が(女性上位が多い)の土人形が3室にわたり展示されていた。こちとらは、ニンマリしながら見て回ったが、前を歩く欧米系のカップルとすれ違う時あまりに真剣な眼差しであったこともおかしい。ギリシャ ミコノス島でも眼福と思ったが、ここの収蔵品は質量ともに遥かにしのぐ。
 1時間半ほど要したが、往路値段交渉をしたタクシードライバーが待っていてくれた。盛り場で客引き婆さん(なぜか客引きは婆さん)が50ソレスと言ったので「話にならん、20だ」と言って返したら、一人の運ちゃんが印刷した行先別値段表みたいなものをもって来て、協定?で30 と決まっていると説明した(多分?妻が全部仕切ってます)ので、その人に頼んだのだ。不安定な稼ぎよりも確実性を彼は選んだのだろう。地下の「ラルコ・マル」という大きなマートの中の海岸線に面したリゾート風レストランで夕食をとっていると、どこの国に旅行しているのか全く分からない。一方、繁華街に来るまでの家は、焼き煉瓦で屋根が葺いてあるとは限らず、古典的貧しさが目に付く。往復2千円ほどを確実に手にすることが彼にとっては必須であったのだろう。(マ、レダックの屁理屈はさておき)
 さて、いよいよマチュピチュへの出発日、17日は2時半集合(昼ではない。ピースボートは早朝と言ってるが深夜が正しい)。6時のチャーター便に間に合わすためにはやむを得ないのだそうだ。バスで空港―バス内で日本のから揚げ弁当配布―空港着手続き、と半ば寝ぼけながらともかくクスコ空港に到着しました、7時半です。海抜3400m、思ったほど寒くはない。人口40万人の一大都市ということだが、驚いたことに果実や肉を売る道端の店が多く開かれているだけでなく、小学生らしき姿(教育改革で公立校は制服着用とのことですが、アンデスの服装や大人の華美とはいえない姿と比べるとよそいきの立派なものに見えます)も動き回っている。そうです。「アンデスの朝は早い」。また、地中海寄港中は野良猫を至る所で見かけましたが(それを「アラ、かわいい」とか言って写真を撮りまくる、触りまくるピ-スボート乗客の能天気さ・・)、野良犬を多く見かける。昼間は例外なく1匹で怠惰に寝そべってるのを見てきたが、朝の内は食糧確保のためか数頭の集団が動き回ってる。
 この地のガイドは日本人Tさん、3日間お世話になったが、まず案内してくれたところはenden、最初何を言っているのかよく分からなかったが、やっぱり塩田。3千数百mのアンデス山脈で連れてこられた所が、白い田んぼ、びっしりと何区画にも及ぶ。田が4千枚(田の単位は枚でよかったのでしょうか)にも及ぶそうな。かつての海底が隆起したためとのことだが、理解を超えている。湧き出る水が塩辛いことに注目したアンデスの民が、水を順番にひき、天日で乾燥させて残った塩分を土とともにこそぎとり、精製したものをもって生業にしているということだ。「流れくる水をなめてみなさい」とガイドに言われて掬い取ったが、ぬるいその水は海水よりはもっと濃くてえづきそうになるほどだった(馬鹿な私は「舐めろ」と言われたのに、ゴクっといってしまったのです)。土産物屋のNo1商品は、断然そこでできた塩。妻も嬉しそうに買っていた。「帰り重くなるヤロ。しおがないなあ」とは・・、言ってません。
続いては、段々畑。日本でも棚田で有名な観光地もいくつか聞くが、スケールが違う。きれいな円形の最深部から、同心円上に上の方に段々畑が続き、上部の直径100m以上?もあろうか? 上部と底とでは温度差があるので、インカの農場研究所でもあったという説がある。縦に線が下まで続いているように見えるのは水路あと。インカは(我田)引水も得意であったのだ(まともに読むな)。昼食は、多人数が入れるのはここしかないというレストランで、庭にはアルパカとリャマも観光客用に飼われていた。 
 昼食後、「ペルー・レール」鉄道のオリャンタイタンポというわけのわからぬ名の駅に向かう。車両は、超豪華で高級レストランのようなハイラム・ビンガム(マチュピチュを発見した人の名)号、観光用ビスタドーム車、通常の列車の3種類ある。我々は松竹梅の竹に当たる観光用車で、屋根の一部が透明のドーム型になっているため、見上げると、そそりたつ山肌がすぐ上に迫っているように見える。進行方向に向かって左側を流れるのがウルバンバ川。なんか言いにくい固有名詞が続くのは、古代アンデスからのケチア語からとったため。ちなみにマチュは古い、ピチュは山、古山ってわけ。ウルは忘れた、バンバはパンパと同じで平原。立派なテーブルを前にした座席で、山を見上げるのに忙しく、ために首が凝る。「後ろのあの山は5千○○級のベロニカ山」とか、ガイドTさんが説明するが、「富士山がどうした」といわれているようで想像さえできない。ある橋の所からは「インカ道は徒歩ではこの道以外はいまだに無い」という説明も衝撃的。クスコに比べ約1400mも低いマチュピチュ駅(当然終点)に着くと、イメージは一変。ここが秘境の入口? 人口3千人ほどの町の人々は、ホテル・土産物屋・遺跡入場口までのバス運転手などに従事しており観光一色。細い何本かの通路は土産物屋が連なり、そこを抜けると、もうまるっきり日本の温泉街?! 「加賀屋」とかなんとかが出てきそう。
 ホテルで窓のない部屋が割り当てられたのは許せるとしても、夕食の5$のビールは許せない。キャップは回して開けよ、ということだが、泡は立たず気抜け状態。他の注文者も一緒に抗議して替えてもらった、でもまた同じ。結局返金で、休肝日となりました。
  翌18日、7時半にホテルを出ると土産物屋はオープンしており、細い道を何台もの空バスが到着しては、次々に出発していく。九十九折とはこの道のことかというくらい、鋭角的に10数回?曲がり、早くもスリルを味わわせてくれる。対向車はすべて空バス。どこかにバスの駐車場から出発して、マチュピチュ駅まで客を迎えに行く。「アンデスの朝は早い」のだ。何でも遺跡保護のために一日バス60台?分、2千数百人しか入山させないそうだ。そこにピースボートから500人ほど参加しているという、ゲゲ!。ちなみに入場料を計算すると5500円くらい。他国の観光客も同じように旗を立ててグループ行動しているから、急峻な角度の狭い足場で、頻繁に混雑し、すれ違うのに一苦労する。
そもそも、一体何のためにこのような高地(標高2400mくらい)に大変な建造物群を作ったのか?、さらに鉄器を持たなかったとされるインカが、どうして岩石(花崗岩)を切り出し、石を組み合すことができたのか? 謎とされている。はじめの疑問に関しては、都クスコに代々の王の館があるが、神殿はじめ残されている石の組み合わせから見て何代目かの王の時代(9代目?)に別荘兼祭祀用に造られたという見方が有力だそうだ。そのためにここに住居を構える家屋(といっても屋根のない石の間取りから推測すると)500軒?くらい、だから神官や、王の世話をする者たちなどの定住者は2千人?と推測される。インカの宗教は太陽神崇拝で、世界は天界・この世・地下世界で構成されており、それぞれの世界を象徴する動物がコンドル・ピューマ・蛇なのだそうだ。そうすると、名曲「コンドルが飛んでいる」は滅びたインカへのオマージュでもあるのだと思えてくる。征服者ピサロは、クスコを膝下に置き、その後のスペイン人の流入とともにキリスト教を持ち込んだ結果、ペルー全体では今は85%がクリスチャンということだが、アンデスの住民だけをとってみればどうなんだろうと思う。だが、征服者たちはマチュピチュにはたどり着くことはなかったがために、20世紀に「発見」されるまで、遺跡として保たれたのだろう。
二つ目の疑問は、磨いた石で切断したのではないか?としか答えようがないらしい。石斧みたいなものか?しかし、石積みを見ていると信じられない。
  話を遺跡に戻そう。特別の都であるから、先ほど書いた「インカ道」を通り、1ケ所だけの門にたどり着く(3泊4日かかるそうだ)。この門から都に入る者をチェックするために「見張り小屋」がある。ここからの眺望は遺跡全体を捉えることができ、宣伝用写真はここからものが多い。(私も写真を撮ってもらったのだが、足がすくみおよび腰。どうも歩いていると揺れっぱなしのような感覚が続いているのだが、これって高山病?)
着いた時点では霧のせいで遠望しても分かりにくかった遺跡が、晴れるにしたがって姿をあらわす。古い山に対し、後背には「ワイナ=新しい、ピチュ=山」がそびえており、とんがりコーンのような山肌に人が蠢いているように見えるのも凄い! あと、天界の象徴たるコンドルを意味する岩石群、ピラミッドパワーに対抗してマチュピチュパワーの気を発するという1枚の岩石、地震にも耐えれるよう窓は台形の構造、生活するうえで欠かせない水路、その水路の水を貯めれる沐浴場、そしてその湯あみ眺めることのできる王の玉座(ウラヤマシイ)、そしてそれらの岩石を組み合わせて積み上げられた建造物、等々、たっぷり3時間半見て回りました。
降りてきたのが昼食時のため、入口に一軒しかないレストランに入るのに25分待ち、帰る人と午後からの客とでバス発着所も満員、マチュピチュ駅も周辺の土産物屋もまたまた人が溢れている。人気ある秘境はツカレルーー。昨日のペルーレイルで、オリャンなんちゃら駅へ帰ることになる。ところが、である。例のビスタドーム車両の隣のボックスにガイドさんがいたが、発車して間もなく入った電話は、隣のバスの組の添乗員からのもので、「2人が戻れず私も待っている」というものだった。幸い30分後の次の便(秘境なのによく走っているなあ)で追いつくそうだ。ために、隣の組は、オリャンなんちゃら駅で半時間ほど待ったそうな。列車でよかった、船ならどうするの・・
我がバスはスイスイとホテル到着、夕食はまた昨日の昼と同じところダッテ。でも、この日のビールは立派に泡立つビールだったし、ケーナなど生演奏とダンス付きだった。何より多くの人が感動したのは、夜空の星の素晴らしさだった。ついに南十字星を認識できたのです。ホテルへのバスの中も灯りを消して、夜空を見上げていました(多分運転手以外は)。
  19日、バスでクスコに戻る。サンドミンゴ教会に入ったのだが、これが珍しい。征服者は、インカの神殿、王の住居を破壊し、そこに教会を建てたのだが、破壊せずに残した石積みなどが共存しているのだ。神仏習合よりすごーい。特に太陽の神殿の間と言われる空間の石積みは、間に接着材的なものを一切挟まず、一分の隙もない。剃刀の刃1枚通さないという。ガイドさんが米1$紙幣を取り出し、「隙間が無いので入りません」と実験した後で、「しかし、ここには入ります」と自分の胸元のポケットにしまいこんだのは笑えた。街のあちこちにも、破壊されず残った石積みを利用した建物が多く見て取れる。
  さらにバス移動してサクサイワマン遺跡にも行く。入口から出口まで1Km近くはありそうな草原の真ん中に、またまた石積みが小高い丘の様になっている。ピサロに降伏した後も抵抗したインカの砦だったという。ガイドさんの説明ではなんか凄い名前がついていた。「満足した鷲?鷹?コンドル」。スペイン人に抵抗し虐殺されたインカの肢体をついばむ鳥が満足するほどであったという由来だというからスゴイ。マーしかし、前にウルグアイに行ったとき、各国の人種を調べたら、ウルグアイなどでは原住民はほぼ全滅し欧米人で占められていたことを知ったのだが、ここでも200人でインカを滅ぼすなど、大航海時代以降の欧、そして19~20世紀以降の米って、ラ米(だけではないが)にとって本当にエグイのネ。
  ペルービアン航空で、3千m以上降下し、かくて、マチュピチュ・クスコの旅は終わりましたが、カヤオを出ても私はなお揺れています。西南西にイースター島に向け針路をとるピースボートを、太平洋がボチボチ荒波で手荒く迎えてくれだしたようです。


レダック ピースボートに乗る 改訂版9

2014-07-06 14:42:02 | 日記
第3章 ラテンアメリカ
<解説1>ラテンアメリカの状況 ベネズエラ
 私のラテンアメリカに関する認識は完全に変わった。ポルトガル領ブラジル以西を支配したスペインがインカを滅ぼし、金銀を略奪していった歴史、ブラジルなどへの日系移民が多いこと、またその子孫や出稼ぎ者が現在の渡日者として多いこと、などは大方の理解としてあるだろうが、せいぜいそんなものである。
2002年妻がJICAシニアでウルグアイに派遣されたので、2度訪問したことがある。原住民がほとんど絶滅させられ残っておらず、征服者たるラテン系欧州人が人口の大多数をしめていることに驚きもし呆れもしたのだが、今回、ジャーナリストIさんの連続講座を聞いて、19~20世紀の歴史はストンと抜け落ちていたことに気付いた。すなわち、アメリカのフロンティア拡大とは、国内インディアンだけでなく、中南米諸国に対してもエゲツナイ謀略と力による収奪であったことに。
大雑把にいえば、1823年のモンロー主義宣言は、欧州による米大陸干渉の拒絶であった。自らはメキシコからのテキサス割譲を推し進め、大西洋と太平洋の「両洋」国家たることを実現した。それとともに、中南米諸国からスペインの勢力を弱めるべく工作していたが19世紀末の米西戦争で勝利することによって、スペインに代わる米帝国主義の支配権の地歩は固めるとともに、ついでにハワイ(+フィリピン)をも併合する。さらに、かねてより大西洋と太平洋をつなぐ運河の必要性が痛感されていたのだが、ニカラグア案も有力だったけれど、結局パナマで工事が開始される。パナマはコロンビアの一部だったが、アメリカは独立を支援するふりをして、独立後の運河権益を確保するばかりか属国化していった。工事そのものは、あのスエズ運河のレセップスが失敗した後アメリカが引きつぎ、1914開通した。
中南米諸国の政変にはアメリカが公然たる軍事介入やCIA工作など枚挙にいとまがないほどだ。それに対抗したのがカストロと彼の盟友チェ・ゲバラであった。彼らはシモン・ボリーバルの理想を引き継ぐ形で米支配からの独立をキューバで果たしたのだが、ゲバラはアフリカでも革命戦争を戦い倒れるが、キューバがカリブ海諸国の灯の役割を果たしている、現在も。
一方1998 ベネズエラ大統領選でチャベスが勝利した。彼はカストロとも親交を深めつつ、貧困対策に重点的に取り組み圧倒的支持を博すようになった。これに対しCIAの支援を受けた国内反革命勢力(従来の石油資本で財を成していた人々)によるクーデターで捕えるも、チャベス支持の民衆の反撃にあいクーデターは30時間で失敗に帰した。2013チャベス逝去後の現マドウーロ大統領もチャベス路線を踏襲している。今状況は米・カナダをいれ米中心の南北アメリカ秩序を維持しようとする米州機構(OAS)と、この両国を除外したカリブ海・南米機構(CELAC)に結集し米からの自立をめざすキューバやベネズエラを中心とする勢力との闘いが、今後の中南米諸国の動向を左右するとIさんは見る。
① ベネズエラ
(解説2)エル・システマ 英語なら「The System」、だから、体系、制度などの無味乾
燥な固有名詞なのでいささか説明を要す。1975年、音楽家で大学の先生だった人が、ベネ
ズエラのスラムの子どもたちに音楽の素晴らしさを通じて自信をつけさせようとして始め
た音楽教育の施設、およびその運動のことで、40万人の子どもたちが学ぶまでに拡大し、
今や政府の支援も受けるようになっている。ここで学び、一流の音楽家になっていった者
たちで構成する交響楽団は名声を博している。
 反核・環境・人権などの課題にNGOとしての活動するピースボートにとって、ベネズエラは、特別な思い入れのある国に見える。2008年から楽器を寄付するなど交流を始め、今年も日本で集めた楽器を贈呈するという任務とともに、今回はカサブランカから8名の「エル システマ」のメンバーを乗船させ、船内での演奏会を開くなどより一層の交流活動を深めている。このためか、寄港地ラグアイアに着いた5月7日の朝、港は吹奏楽で包まれるワ、PB総ディレクターTさんは和服で答礼の意を表すワ、夜には港から数分の近くの公園で歓迎パーティーは開かれるワ、そこにTさんを見習ってかオバ(ア)さんの数人は浴衣姿で現れるワ(エ、こんなんまで持ってきたの!)、地元の人も子や孫がでているからと大挙して押しかけるワ、マ、エライ騒ぎでした。
そして、これも原爆の語り部「折鶴」(第2部 船内生活参照)のメンバーが、現大統領との面会アピールできたのです。想像をこえている。「船内新聞5月10日号」の冒頭だけ紹介する。「ベネズエラに寄港していた8日、カラカス市内において第83回クルーズおりづるプロジェクトの被爆者6名がベネズエラのマドウーロ大統領に面会しました。・・・」

この日、私はOPとして「首都カラカス観光」(12000円)を選んだ。休日でもないのに盛り場は人にあふれかえっており、ガイドの旗を頼りにスペイン統治時代の建物のある旧市街を見てまわった。人々の顔は明るい。ピースボート観光隊御一行様のほうでプラスイメージをもっていたせいか、街の人々は陽気に声をかけてくるように感じられた。残念なことに、見どころのシモン・ボリーバルの生家・博物館、国会議事堂、教会すべて外観だけで中に入れず、不満が残った。何回か前のブログを見れば、内部見学できており、「どういうこと?」。バスを止めるスペース、昼食の場所、トイレ等々観光地としてのインフラ整備もまだまだの感がある。
 それよりも、私も含め多くの参加者(このコースもバス4台)の耳目を引きつけたものは、ある地点からパラパラ、気がつくとびっしりと山にへばりついて建てられている家々が続いている光景であった。そして、私も含めそれこそ多くの参加者は、この間のIさんの講義を思い出していたに違いない。市街地を挟んで、石油資源の利権構造で甘い汁を吸えた富裕層の住宅地一帯の反対側に、職を求めて勝手に住み着いた貧民層の住居群がどんどん拡大していったということだ。その貧民率(具体的にはどんな指標か?までは分からないが)が75%(4人に3人)であったものを20%までに改革していったのがチャベス前大統領であったのだが、クーデター(2002年)によって大統領官邸で身柄拘束→近くの島に拉致された際も、「大統領を辞任しない」姿勢を貫き、そのメッセージを側近の気転により国営放送で流すことができると、何千?何万?という家々から、わらわらと、そう、わらわらと、人が降りてきて大統領官邸を取り囲んだそうで、ためにクーデター政権は3日で倒れチャベスは復帰したのだ。そのドキュメント映画を見る企画もあり胸が熱くなった。
 そう、車窓からえんえん続くこの光景こそ、現代史の舞台なのだ。(神戸の街の山手が貧民の住居群、そして街がどんどん伸びていくというイメージ)何しろ、区画整理された道に沿って作られたものではないので、山の上方では降りてきて、また帰りに登っていくのは大変、だからびっくりするものがあった。ケーブルカーがついているのですよ。もちろんスペイン語だが英語にすればmetro cableとの表記があったので、思わず注視していると、そこはケーブル駅だったらしく、車窓から見上げると確かにゴンドラが往復していた。その後にガイドさんの説明があり、3路線あり、運賃は日本円で30円くらいだそうだ。
 翌5月8日、OPで「エル システマ」見学・交流を選んだ(7000円)。一つくらいピースボートの特徴的なプログラムも選ばなくっちゃ。市内の本部は、個人・グループ練習室が100室以上を数え、様々な講義・実習室・コンピューターを駆使して作曲できる部屋や、演奏会場も有し、近くの大学の音楽学部の学生が借用するなど想像を超えていた。
 ところが、昼食は、カラカスから、も一度ラグアイラへの道を引き返し、ピースボートを横目に見て通り過ぎ、港町のレストランにおいて焼き魚料理であった。レストランの通常メニューを見れば600円くらいで、結局バス代?と考えざるを得ないという不満はさておき、訪問先は、ラグアイラに属する地域の「エル システマ」の音楽練習所だった。元保養所?の施設を入手した「エル システマ」が、この地域の3つのグループ(小学校ごとのようだが、就学前とみられる子もいる)の会員の練習・発表会場としているものだ。小学校ごとの服の色が違うようだ。バスから降りるなり、パーカッションの凄いリズム、数人の子が、タイコ(皮が貼ってあるのは片側だけ)を手で、(なんというのだろうか)中空の木の柱を木の棒で叩いているのが最初の歓迎。2回ホールにあがると別の地域の子どもたちの演奏で、盛り上がる。答礼に訪問団のほうはバス中で練習した「大きな栗の木の下で」や「幸せなら手をたたこ」を身振り付きで発表する(こんなところではレダックは照れない)。そして、正当な国歌ではないが、国民に愛され第2国歌と言われる「ベネズエラ」をスペイン語で合同で歌う(参加者は船上で練習させられたのです)。私もかなり声をはりあげ歌ったのだが、横に来たオバ(ア)サンがまた凄い声、後の交流で分かったのだが、どうも声楽の指導者らしく、数人で彼女と交流している際、いろんなベネズエラの民謡?をゴスペルチックに教えてもらった。「オレーオライローー」とかなんとか(即興ではもう覚えていません)。フリータイムになると、子ども相手だからみんなはしゃぐこと。写真撮影、折り紙、ダンス、贈呈のためある程度まで作成した垂れ幕の共同仕上げ(子供の手やコブシに絵具を塗り、手形として押させる)、パーカッション演奏、名前はともかく電話番号を尋ねること(聞いてどうするの?)などなど・・・帰る時間になり、「もう終わりなので記念撮影しましょう」という趣旨を可愛いCCのAさんが呼びかけても子どもたちはもう熱中し聞いていないので、この時ばかりは、もどうしようもないとばかりに、やけくそでスペイン語をがなりたてておりました。
 やはり、子ども相手はいいものです。バスで連れまわされたという悪印象は、帰るころにはすっかり消えていました。

③ パナマ(5/11~5/12)
 ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、乗船許可が出るや否や、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、インターネットが使えるターミナルなので、やっと書き溜めたブログをまずは投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツが汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(アメリカはパナマ運河に対する権益確保のための属国化政策の名残は通貨にもあらわれており、バルボアと呼ばれるが、紙幣は米ドルでしかない。故に1バルボア=1$で、少額の硬貨だけがはパナマ国として発行されているが、これも米ドル硬貨のデザインだけがちがうもの)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、大西洋側のコロン駅と太平洋側のパナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。
この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインがボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は、二つの海の水面は26mもの高度差の解決だ。レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。第2次大戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の国の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
  翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに大きめのフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。ロック内で船が壁に当たると損傷しかねないので、小さなタグボートg大きな船の位置を突ついて調整する。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子 を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
 で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は東から西へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。