レダック ピースボートに乗る 改訂版

2014-07-03 17:22:51 | 日記
⑧ スペイン モトリル(4/24 木)
 モンテネグロ コトルを出たピースボートは、南下してイタリア シチリア島の南側からほぼ西方に針路をとり、スペイン南部の太陽海岸(コスタ デル ソル)と呼ばれる地域に3日間かけてたどりついた。4月24日、その中のモトリルという港町から、内陸にバスで1時間半ほど北上すると、グラナダのアルハンブラ宮殿に行けるし、クロマニヨン人の住居遺跡や彼らが描いたとされる壁画のあるネルハという地へのOPもある。判断つかず申し込まなかったので自分らで散策することにした。どうもアルムニューカルと発音しにくい街まで行けばどちらの方面にも行けるようだ。30分ほどで着いたのだが、その道中がすごい。高速並みの気持ちいい道路の眼下に地中海―太陽海岸がひろがっている。 ここを歩くというOPもあったようだで、ピースボート軍団と思しき一行の姿も豆粒くらい遠くだが認められた。この街並みもなんとなくいい雰囲気だし、ネルハ行きバスが2時間待ちで行けても帰りが心配なので断念せざるをえず、この街を探索することとした。ブラブラ歩くうちに12時となり、カフェで食事も頼んだのだが、でも何となく勝手が悪い。客は私らだけなのに半時間近く待たされる。そうでした、昼食には早すぎるんですね。ラテンの時間感覚を忘れていた。料理のエビは新鮮でお得だったけれど、肝心のパエージャがべたついて少々期待外れ。時間感覚と言えば、続けて失敗することになる。食後、展望台から改めて太陽海岸のすばらしさを見た後、観光名所のお城にたどりつく。閉まっている??よく見れば小さな表示「14時~16時はシェスタ午睡の時間」。ホントに急峻な坂道をよたよた登ってきたというのに。思わず、大声で「殿、ご開門をー」と叫んだ。もちろん町全体が眠りこけているのか、まわりに人はいなかったけど・・嫁さんが、軽蔑の眼差しで見ている・・。ここを降りる道も、ミニ・ミコノス島みたい、入り組んで細い。観光地図頼りに降りていくと今度は植物園風(これも当然閉まってます)、Bonsaiとある、盆栽も世界語なんですネ。教会も外観を見るだけ、16時まで待てず15時のバスでモトリルに帰りました。
そこでタパスを食するためにBAR(バルと読む、バー 気軽な居酒屋のこと)に立ち寄りました。タパスとは、そこで出されるアテ、つまみの小皿のことで店ごとに自慢の品が出てくるという。ピルゼン(ピルスナー)ビールとともに、タパスを頼んだところ、生ハムとパンのお皿、オリーブのお皿の二つが出てきた。オリーブがおいしい、病み付きになりそう。そして、勘定を頼んだら、ビールと妻のコーヒーだけで、件クダンのタパスの分はついていません。サービスということらしい。感激! その店の他の席では、ピースボートのHさん(航路説明をするえらいさん)が船員と、さらにそのうち別の店の客(もと船員のようだ)と親交を深めていた。まっ赤な顔をしていたので、店を出るとき「帰船時間遅れないよう」と言い置いたら、最初キョトンとし、やがて豪快に笑っておられた。
 いい街だ。1日だけしかスペインには立ち寄らなかったが、逢坂剛の小説などから、ゆっくり来て見たいと思う国だ!可能性??

⑨ ジブラルタル(英領) (4/25 金)
アア、知らなんだ、知らなんだーー。ジブラルタルはただの海峡の名と思っていたのに港がありそれも英領、スペインの先っちょが英領?! おまけに反対側のアフリカ大陸はモロッコなのに、それも先っちょだけが今度はスペイン領でセウタという?!
この疑問も水先案内人と呼ばれるジャーナリストIさんによって事前講習を受けました。しかも、それを定めたのがユトレヒト条約とのこと。何世紀遡るのかな。いろいろ転変があり、またこの2、3年、英国とスペインの関係がこの地を巡って緊張気味だそうだが、まあいい、読者諸氏もいいかげん歴史の話に疲れたことでしょうから、早速、英領ジブラルタルの町に繰り出しましょう(狭いのでOPは申し込まず)。
軍事・交通の要衝でありますから南端に灯台があります。ヨーロッパ側の南端という意味でヨーロッパ・ポイントと言われます。そして△の岩山が特徴的で、海沿いに市街地が山にへばりついているように見えます。 変わっているのはスペインとの国境線に沿うように飛行機の滑走路が伸び、海上に少し突き出ています。辺野古もこんな風にやられるのでしょうか。離着陸は見れませんでしたがジェット雲が延びていくのを2回確認しました。その近くに船のターミナルがあるので、市の中心部までは20分ほど歩いて行かなければなりません。観光地としても人気があるようで欧米人が溢れかえり、昼時なんぞは肩の肌や胸元を露にし夏バカンスモードのおば(あ)さんたちが闊歩しています。ただ、ユーロも米ドルも使えますが、英領なので、この地独特のジブラルタル・ポンドが通貨として発行されており、郵便切手はこれでしか買えないために、両替をしたところ50€=40ポンドだから、1ポンド=170円といったところでしょうか。観光ポイントはケーブルカーで展望できるところに上がると地中海とジブラルタル湾が望めます。そして野生の猿が集い、観光客の人気を集めおり、時たま嬌声も聞こえます。「何が珍しいねん? 動物園でいつでも見られるやん。大阪では箕面に行けば・・」と内心毒づいていたのですが、そうです、ニホンザルではないのですネ。まあ、しかし、お天気にも恵まれ、地中海の海と空の美しさに昨日に続き感動ものです。でも、遅れて登ってきた同じピ-スボートの若者たちの「ワー すげえ」と何回も大声で繰り返しているのが聞こえてくると(このまわりくどい言い方は聞こうと思っているわけではないのに)「感嘆詞以外の言語感覚の乏しいやつらめ。しかも外国人いっぱいいる中で傍若無人に日本語わめき散らすな」と思ってしまいます。もうおじいさんなので、黙って離れるだけです。
デ、山をおりたところのカフェでお茶を兼ねてランチといたしましょう。サンドイッチのつもりが、サーディンが今日はおいしいというので、ついビールも・・。焼いた皮が香ばしくて、鰯を見直したわけです。ポンドではちょうどこのビール分くらいが不足するのでユーロ―を使い、土産物屋街をぶらぶらし、孫の土産をポンドで買いました。あと6ポンドと小銭が残りました。帰船リミットが近づいてきたので、最後に冷たいものを食べようとスムージーの店で「ハウ マッチ」とやると一つ3.5、二つだと7ポンドということです。6ポンド出し、小銭のポンドを全部見せ、これで1ポンドあるかと聞いたところ、3枚の硬貨を返してくれて、「Not 7、but our charity」ダッテ・・施しをうけたのです(昨日のタパスに続き連日のラッキー賞です)。残った3枚は2枚が2ペンス、1枚が1ペンス、あわせて5ペンス=8円くらいで、大道芸人にあげたらと言います。コーヒーとラズバリーのスムージーは入れたアイスクリームがいいのでしょう、とてもおいしく、冷たく、気分よく帰れました。でも、こんなに硬貨多いとはネ。日本で言えば1円、2円、5円、10円、20円、50円(ここまでペンス)に、やっと1ポンド(これも硬貨)、なんてややこしい。
この海峡を越えれば、そこはもう、大西洋!!

⑩ モロッコ カサブランカ・ラバト(4/26 土)
 もう大西洋に入ったのだから、ほんとは次の章に入れるべきだけれど、3連続の寄港で翌日からは長くクルージングが続くので、リズムで言えば地中海の最後となる。だから、映画でも有名なカサブランカに入港しても、なかなかアフリカという感覚をもちにくい。何といっても人口500万人の大都会、妻が数年前来た時には無かったというトラムも走っている。
 OPは、カサブランカと首都ラバト(バスで約1.5時間)の駆け足観光コース、だから多くの人が申し込んだようでバスは6台?仕立て。これでえらい目にあいます・・・。
カサブランカでは、何と言っても「ハッサンⅡ世モスク」、ミナレット(モスクに付随する尖塔)の高さ200m、礼拝者2万人以上を収容でき、世界第3位の大きさを誇るモスクという。大西洋の一部を埋め立て現代技術を駆使して建てたものだから、きれいで身を清めるシャワールームの設備や礼拝場などの空調なども完備とのこと。他に観光資源も少ないようなので、国家戦略としても、アフリカのメッカ的存在にしたいのかもしれない。ここで現地ガイドさんから、二本円柱のミナレットの地域もあるが、モロッコでは1本の四角柱であることを教えてもらった。もう1ケ所、歴代王の聖廟が美しい
その後、首都まで時間がかかるので、11時と超早めの昼食となり、ホテルのレストランに入ったのであるが、マ、あたしゃ呆れたね。次から次へとバス6台、250人くらいが詰めかけるのである。バイキングで、取れる料理の並ぶ場所は1ケ所・・、情報不足で、乗客を事前に仕切ることをしなかったため、右から左から群がる、紳士淑女もかくや・・・また、向かい合ったケースには同じ料理が入っているのだが1周ぐるりとまわり方向がぶつかり合う者が出てくる。お人よしが並んで待っているうちに一皿目を終えたものが隙間を狙って一品だけとっていく・・これがピースボートか?!それとも難民船か?!デ、おまえはどうしてたか?って。空いているデザートコーナーで5種類くらいのケーキをとってきて(一時にこんなにケーキ食べたの人生で初めて)、20分くらいたってやっと人の波がひいてから、やおら料理を取りに行きました。マ、何を偉そうに言っているのかとお叱りの声を受けそうであるが、修学旅行に連れて行く立場の教員出身だけに、こんな「想定内」の混乱は許せないのである。各バスに、旅行会社のスタッフが引率者、お手伝いでCC(通訳)が同行しているのだが、こういう「危機管理」には慣れていないようだ。
さらに首都ラバトについてからも、この混乱は続くことになる。自由時間をとった市場(スーク)見学(これは楽しかった、もっと時間がほしかった、皮のベルトを4ユーローで買う)の後、その向かい側の観光名所である砦の見学およびトイレ休憩があったのだが、これが長蛇の列、延々と待つこと、待つこと。およそ半時間以上のトイレ休憩、しびれが切れるころに、やっと移動したかと思ったら、門の外の民家見学の散歩は10分も無いなど要領の悪いことおびただしい。もちろん大勢の人間が溢れ、囲い込みをしておかないと大変という事情も分かるが、行くコースの順番を半数づつ逆にするとか、臨機応変の処置・工夫ができない。OPを企画・実行するジャパングレイスの問題ですナ
ト、モロッコのことがほとんど書けず、読者の皆さんには楽しくないレポートですみません。やっぱり仕事人間の癖はなかなか治らないんですね・・あと、写真は民家のところの少年。ちなみに、OPに行かなかったある夫婦は、カサブランカ市内観光で「寿司」を食べれて良かったとのこと。


レダック ピースボートに乗る 改訂版7

2014-07-03 00:31:45 | 日記
⑦ アドレア海2都市 クロアチア ドブロブニク  モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸バルカン半島のクロアチアはドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気が出始めたようで、外国旅行好きで訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名もピント来ません。私の場合だと、このあたりは第一次大戦の引き金となった火薬庫であり、戦後はナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアでなかったのか? 東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国だったはずで、いつユーゴはなくなったのか?などなど不確かな知識しかありません。今、写真を入れた改訂版を作っている最中(2014/7/2)なので、FIFAで湧いていますが、前日本監督のオシムさんがクロアチア人であることをご存知のサッカーファンもおられるかもしれない。以下は船内の企画で水先案内人として乗船されたCさんがオシムさんの通訳をやっておられたとかで、以下はCさんに講演で教示してもらったことである。
・ユーゴスラビアのユーゴは「南の」、スラビアは「スラブ人の住む国」という意味だそうで、かつては6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払い、今では7つの国になっている。
 クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前で「マケドニア」もその一つ。クロアチアもブーメランのような格好になっており、民族問題の複雑さがうかがえる
・このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違う。
・この時の教訓から学ぶことが多くある。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義がいったん台頭するとなかなかとどめることが難しい
(ついでながら、このCさんは、「旧ユーゴをめぐる紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られており、大変な時代に突入しているのではないか、ヘイトスピーチなどはその兆しだ、すでに紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ安倍さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの傾斜を警戒しなければならない」など強調されていました。そして今7/2 集団的自衛権の閣議決定という急旋回に戸惑っています)

4月19・20日の両日ともOPをとったところ、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OP案内ではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで5種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、乗船客の人で踊りだすのがアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。
 赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、ドブロブニクの旧市街は、遠望した街並みの赤い屋根とともに城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁は、総延長距離2Kmも築かれており、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差があり、道幅も色々です。広くなったところは銃眼や大砲の設置してある砦風の場所があるかと思うと、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので40分ほどがあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、フランシスコ会修道院という教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに(シツコイ?)帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・ということなので、特記事項はありません。ただこれは驚いた、イースターのデッカイ卵ということで教会の入口に