レダック ピースボートに乗る 改訂版10

2014-07-06 16:11:47 | 日記
③ ペルー リマと、クスコ・マチュピチュ
 5月13~15日、ペルー海流(フンボルト海流ともいう、寒流だし、南半球なので冬に向かうところで結構寒い)に逆らって太平洋に南下したピースボートが、首都リマの外港カヤオに着いて上陸許可が出たのは16日10時過ぎでした。あまりにも有名になった世界遺産マチュピチュへのOPが2日・3日・4日コースやナスカの地上絵も見るなど5種類ほど用意されており、違いまでよく分からないまま、私は3日間のKコースを選びました(代金がナ、ナント174、000円!でもこのために来たようなものダカラネ。)実際の観光体験・疲労度・高山病体験など満喫したのだと思います。
 入港日の16日は、ツアーを取りやめ、港からリマ繁華街へのチャーターバス代だけ申し込んだ。それでも3千円。
(段々状況が分かってくると、OPは団体行動だから、自由がきかないー博物館まで来て見学できないとか、買い物やお茶が決められた地域以外でできないーとか。さらに、上に書いたように代金が割高。そこでインターネットを駆使でき行動力に富む若者は、乗船中に調べて現地旅行社に申し込むとおよそ2/3程度でいける場合がある。そこまでの根性はまだないから、近場の場合だけ見習った)
是非じっくりとラファエル・ラルコ(人名)考古学博物館(外壁が花爛漫で美しいを見て回りたいからだ。ここは、人名が冠してあることから分かるように個人の収集を3年ほど前から公開するようになったものだ。まわりの2~3mの白壁に、多彩で可憐な花が打ちかけられた簾のようにして咲き誇っていた。民間だから入館料は必要なわけで、30ソレス(1ソル 複数はソレス=36円、ほぼ千円)を払ったら、目ざとく妻がシニアなら25ソレスと見つけてくれた。紀元前後からのアンデス文明を示す土・石の展示品は、是非一見の価値がある。素朴なものや、アニメにでも出てきそうなデフォルメした顔など、土器文様や祭祀用装飾品などに描かれた人間・動物の姿は、現代の商業デザインでも通用すると思わせる。別棟は「エロチック」な展示と表示してあり、それぞれの性器をデフォルメした土器や交合する人形が(女性上位が多い)の土人形が3室にわたり展示されていた。こちとらは、ニンマリしながら見て回ったが、前を歩く欧米系のカップルとすれ違う時あまりに真剣な眼差しであったこともおかしい。ギリシャ ミコノス島でも眼福と思ったが、ここの収蔵品は質量ともに遥かにしのぐ。
 1時間半ほど要したが、往路値段交渉をしたタクシードライバーが待っていてくれた。盛り場で客引き婆さん(なぜか客引きは婆さん)が50ソレスと言ったので「話にならん、20だ」と言って返したら、一人の運ちゃんが印刷した行先別値段表みたいなものをもって来て、協定?で30 と決まっていると説明した(多分?妻が全部仕切ってます)ので、その人に頼んだのだ。不安定な稼ぎよりも確実性を彼は選んだのだろう。地下の「ラルコ・マル」という大きなマートの中の海岸線に面したリゾート風レストランで夕食をとっていると、どこの国に旅行しているのか全く分からない。一方、繁華街に来るまでの家は、焼き煉瓦で屋根が葺いてあるとは限らず、古典的貧しさが目に付く。往復2千円ほどを確実に手にすることが彼にとっては必須であったのだろう。(マ、レダックの屁理屈はさておき)
 さて、いよいよマチュピチュへの出発日、17日は2時半集合(昼ではない。ピースボートは早朝と言ってるが深夜が正しい)。6時のチャーター便に間に合わすためにはやむを得ないのだそうだ。バスで空港―バス内で日本のから揚げ弁当配布―空港着手続き、と半ば寝ぼけながらともかくクスコ空港に到着しました、7時半です。海抜3400m、思ったほど寒くはない。人口40万人の一大都市ということだが、驚いたことに果実や肉を売る道端の店が多く開かれているだけでなく、小学生らしき姿(教育改革で公立校は制服着用とのことですが、アンデスの服装や大人の華美とはいえない姿と比べるとよそいきの立派なものに見えます)も動き回っている。そうです。「アンデスの朝は早い」。また、地中海寄港中は野良猫を至る所で見かけましたが(それを「アラ、かわいい」とか言って写真を撮りまくる、触りまくるピ-スボート乗客の能天気さ・・)、野良犬を多く見かける。昼間は例外なく1匹で怠惰に寝そべってるのを見てきたが、朝の内は食糧確保のためか数頭の集団が動き回ってる。
 この地のガイドは日本人Tさん、3日間お世話になったが、まず案内してくれたところはenden、最初何を言っているのかよく分からなかったが、やっぱり塩田。3千数百mのアンデス山脈で連れてこられた所が、白い田んぼ、びっしりと何区画にも及ぶ。田が4千枚(田の単位は枚でよかったのでしょうか)にも及ぶそうな。かつての海底が隆起したためとのことだが、理解を超えている。湧き出る水が塩辛いことに注目したアンデスの民が、水を順番にひき、天日で乾燥させて残った塩分を土とともにこそぎとり、精製したものをもって生業にしているということだ。「流れくる水をなめてみなさい」とガイドに言われて掬い取ったが、ぬるいその水は海水よりはもっと濃くてえづきそうになるほどだった(馬鹿な私は「舐めろ」と言われたのに、ゴクっといってしまったのです)。土産物屋のNo1商品は、断然そこでできた塩。妻も嬉しそうに買っていた。「帰り重くなるヤロ。しおがないなあ」とは・・、言ってません。
続いては、段々畑。日本でも棚田で有名な観光地もいくつか聞くが、スケールが違う。きれいな円形の最深部から、同心円上に上の方に段々畑が続き、上部の直径100m以上?もあろうか? 上部と底とでは温度差があるので、インカの農場研究所でもあったという説がある。縦に線が下まで続いているように見えるのは水路あと。インカは(我田)引水も得意であったのだ(まともに読むな)。昼食は、多人数が入れるのはここしかないというレストランで、庭にはアルパカとリャマも観光客用に飼われていた。 
 昼食後、「ペルー・レール」鉄道のオリャンタイタンポというわけのわからぬ名の駅に向かう。車両は、超豪華で高級レストランのようなハイラム・ビンガム(マチュピチュを発見した人の名)号、観光用ビスタドーム車、通常の列車の3種類ある。我々は松竹梅の竹に当たる観光用車で、屋根の一部が透明のドーム型になっているため、見上げると、そそりたつ山肌がすぐ上に迫っているように見える。進行方向に向かって左側を流れるのがウルバンバ川。なんか言いにくい固有名詞が続くのは、古代アンデスからのケチア語からとったため。ちなみにマチュは古い、ピチュは山、古山ってわけ。ウルは忘れた、バンバはパンパと同じで平原。立派なテーブルを前にした座席で、山を見上げるのに忙しく、ために首が凝る。「後ろのあの山は5千○○級のベロニカ山」とか、ガイドTさんが説明するが、「富士山がどうした」といわれているようで想像さえできない。ある橋の所からは「インカ道は徒歩ではこの道以外はいまだに無い」という説明も衝撃的。クスコに比べ約1400mも低いマチュピチュ駅(当然終点)に着くと、イメージは一変。ここが秘境の入口? 人口3千人ほどの町の人々は、ホテル・土産物屋・遺跡入場口までのバス運転手などに従事しており観光一色。細い何本かの通路は土産物屋が連なり、そこを抜けると、もうまるっきり日本の温泉街?! 「加賀屋」とかなんとかが出てきそう。
 ホテルで窓のない部屋が割り当てられたのは許せるとしても、夕食の5$のビールは許せない。キャップは回して開けよ、ということだが、泡は立たず気抜け状態。他の注文者も一緒に抗議して替えてもらった、でもまた同じ。結局返金で、休肝日となりました。
  翌18日、7時半にホテルを出ると土産物屋はオープンしており、細い道を何台もの空バスが到着しては、次々に出発していく。九十九折とはこの道のことかというくらい、鋭角的に10数回?曲がり、早くもスリルを味わわせてくれる。対向車はすべて空バス。どこかにバスの駐車場から出発して、マチュピチュ駅まで客を迎えに行く。「アンデスの朝は早い」のだ。何でも遺跡保護のために一日バス60台?分、2千数百人しか入山させないそうだ。そこにピースボートから500人ほど参加しているという、ゲゲ!。ちなみに入場料を計算すると5500円くらい。他国の観光客も同じように旗を立ててグループ行動しているから、急峻な角度の狭い足場で、頻繁に混雑し、すれ違うのに一苦労する。
そもそも、一体何のためにこのような高地(標高2400mくらい)に大変な建造物群を作ったのか?、さらに鉄器を持たなかったとされるインカが、どうして岩石(花崗岩)を切り出し、石を組み合すことができたのか? 謎とされている。はじめの疑問に関しては、都クスコに代々の王の館があるが、神殿はじめ残されている石の組み合わせから見て何代目かの王の時代(9代目?)に別荘兼祭祀用に造られたという見方が有力だそうだ。そのためにここに住居を構える家屋(といっても屋根のない石の間取りから推測すると)500軒?くらい、だから神官や、王の世話をする者たちなどの定住者は2千人?と推測される。インカの宗教は太陽神崇拝で、世界は天界・この世・地下世界で構成されており、それぞれの世界を象徴する動物がコンドル・ピューマ・蛇なのだそうだ。そうすると、名曲「コンドルが飛んでいる」は滅びたインカへのオマージュでもあるのだと思えてくる。征服者ピサロは、クスコを膝下に置き、その後のスペイン人の流入とともにキリスト教を持ち込んだ結果、ペルー全体では今は85%がクリスチャンということだが、アンデスの住民だけをとってみればどうなんだろうと思う。だが、征服者たちはマチュピチュにはたどり着くことはなかったがために、20世紀に「発見」されるまで、遺跡として保たれたのだろう。
二つ目の疑問は、磨いた石で切断したのではないか?としか答えようがないらしい。石斧みたいなものか?しかし、石積みを見ていると信じられない。
  話を遺跡に戻そう。特別の都であるから、先ほど書いた「インカ道」を通り、1ケ所だけの門にたどり着く(3泊4日かかるそうだ)。この門から都に入る者をチェックするために「見張り小屋」がある。ここからの眺望は遺跡全体を捉えることができ、宣伝用写真はここからものが多い。(私も写真を撮ってもらったのだが、足がすくみおよび腰。どうも歩いていると揺れっぱなしのような感覚が続いているのだが、これって高山病?)
着いた時点では霧のせいで遠望しても分かりにくかった遺跡が、晴れるにしたがって姿をあらわす。古い山に対し、後背には「ワイナ=新しい、ピチュ=山」がそびえており、とんがりコーンのような山肌に人が蠢いているように見えるのも凄い! あと、天界の象徴たるコンドルを意味する岩石群、ピラミッドパワーに対抗してマチュピチュパワーの気を発するという1枚の岩石、地震にも耐えれるよう窓は台形の構造、生活するうえで欠かせない水路、その水路の水を貯めれる沐浴場、そしてその湯あみ眺めることのできる王の玉座(ウラヤマシイ)、そしてそれらの岩石を組み合わせて積み上げられた建造物、等々、たっぷり3時間半見て回りました。
降りてきたのが昼食時のため、入口に一軒しかないレストランに入るのに25分待ち、帰る人と午後からの客とでバス発着所も満員、マチュピチュ駅も周辺の土産物屋もまたまた人が溢れている。人気ある秘境はツカレルーー。昨日のペルーレイルで、オリャンなんちゃら駅へ帰ることになる。ところが、である。例のビスタドーム車両の隣のボックスにガイドさんがいたが、発車して間もなく入った電話は、隣のバスの組の添乗員からのもので、「2人が戻れず私も待っている」というものだった。幸い30分後の次の便(秘境なのによく走っているなあ)で追いつくそうだ。ために、隣の組は、オリャンなんちゃら駅で半時間ほど待ったそうな。列車でよかった、船ならどうするの・・
我がバスはスイスイとホテル到着、夕食はまた昨日の昼と同じところダッテ。でも、この日のビールは立派に泡立つビールだったし、ケーナなど生演奏とダンス付きだった。何より多くの人が感動したのは、夜空の星の素晴らしさだった。ついに南十字星を認識できたのです。ホテルへのバスの中も灯りを消して、夜空を見上げていました(多分運転手以外は)。
  19日、バスでクスコに戻る。サンドミンゴ教会に入ったのだが、これが珍しい。征服者は、インカの神殿、王の住居を破壊し、そこに教会を建てたのだが、破壊せずに残した石積みなどが共存しているのだ。神仏習合よりすごーい。特に太陽の神殿の間と言われる空間の石積みは、間に接着材的なものを一切挟まず、一分の隙もない。剃刀の刃1枚通さないという。ガイドさんが米1$紙幣を取り出し、「隙間が無いので入りません」と実験した後で、「しかし、ここには入ります」と自分の胸元のポケットにしまいこんだのは笑えた。街のあちこちにも、破壊されず残った石積みを利用した建物が多く見て取れる。
  さらにバス移動してサクサイワマン遺跡にも行く。入口から出口まで1Km近くはありそうな草原の真ん中に、またまた石積みが小高い丘の様になっている。ピサロに降伏した後も抵抗したインカの砦だったという。ガイドさんの説明ではなんか凄い名前がついていた。「満足した鷲?鷹?コンドル」。スペイン人に抵抗し虐殺されたインカの肢体をついばむ鳥が満足するほどであったという由来だというからスゴイ。マーしかし、前にウルグアイに行ったとき、各国の人種を調べたら、ウルグアイなどでは原住民はほぼ全滅し欧米人で占められていたことを知ったのだが、ここでも200人でインカを滅ぼすなど、大航海時代以降の欧、そして19~20世紀以降の米って、ラ米(だけではないが)にとって本当にエグイのネ。
  ペルービアン航空で、3千m以上降下し、かくて、マチュピチュ・クスコの旅は終わりましたが、カヤオを出ても私はなお揺れています。西南西にイースター島に向け針路をとるピースボートを、太平洋がボチボチ荒波で手荒く迎えてくれだしたようです。


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