レダック ピースボートに乗る 改訂版9

2014-07-06 14:42:02 | 日記
第3章 ラテンアメリカ
<解説1>ラテンアメリカの状況 ベネズエラ
 私のラテンアメリカに関する認識は完全に変わった。ポルトガル領ブラジル以西を支配したスペインがインカを滅ぼし、金銀を略奪していった歴史、ブラジルなどへの日系移民が多いこと、またその子孫や出稼ぎ者が現在の渡日者として多いこと、などは大方の理解としてあるだろうが、せいぜいそんなものである。
2002年妻がJICAシニアでウルグアイに派遣されたので、2度訪問したことがある。原住民がほとんど絶滅させられ残っておらず、征服者たるラテン系欧州人が人口の大多数をしめていることに驚きもし呆れもしたのだが、今回、ジャーナリストIさんの連続講座を聞いて、19~20世紀の歴史はストンと抜け落ちていたことに気付いた。すなわち、アメリカのフロンティア拡大とは、国内インディアンだけでなく、中南米諸国に対してもエゲツナイ謀略と力による収奪であったことに。
大雑把にいえば、1823年のモンロー主義宣言は、欧州による米大陸干渉の拒絶であった。自らはメキシコからのテキサス割譲を推し進め、大西洋と太平洋の「両洋」国家たることを実現した。それとともに、中南米諸国からスペインの勢力を弱めるべく工作していたが19世紀末の米西戦争で勝利することによって、スペインに代わる米帝国主義の支配権の地歩は固めるとともに、ついでにハワイ(+フィリピン)をも併合する。さらに、かねてより大西洋と太平洋をつなぐ運河の必要性が痛感されていたのだが、ニカラグア案も有力だったけれど、結局パナマで工事が開始される。パナマはコロンビアの一部だったが、アメリカは独立を支援するふりをして、独立後の運河権益を確保するばかりか属国化していった。工事そのものは、あのスエズ運河のレセップスが失敗した後アメリカが引きつぎ、1914開通した。
中南米諸国の政変にはアメリカが公然たる軍事介入やCIA工作など枚挙にいとまがないほどだ。それに対抗したのがカストロと彼の盟友チェ・ゲバラであった。彼らはシモン・ボリーバルの理想を引き継ぐ形で米支配からの独立をキューバで果たしたのだが、ゲバラはアフリカでも革命戦争を戦い倒れるが、キューバがカリブ海諸国の灯の役割を果たしている、現在も。
一方1998 ベネズエラ大統領選でチャベスが勝利した。彼はカストロとも親交を深めつつ、貧困対策に重点的に取り組み圧倒的支持を博すようになった。これに対しCIAの支援を受けた国内反革命勢力(従来の石油資本で財を成していた人々)によるクーデターで捕えるも、チャベス支持の民衆の反撃にあいクーデターは30時間で失敗に帰した。2013チャベス逝去後の現マドウーロ大統領もチャベス路線を踏襲している。今状況は米・カナダをいれ米中心の南北アメリカ秩序を維持しようとする米州機構(OAS)と、この両国を除外したカリブ海・南米機構(CELAC)に結集し米からの自立をめざすキューバやベネズエラを中心とする勢力との闘いが、今後の中南米諸国の動向を左右するとIさんは見る。
① ベネズエラ
(解説2)エル・システマ 英語なら「The System」、だから、体系、制度などの無味乾
燥な固有名詞なのでいささか説明を要す。1975年、音楽家で大学の先生だった人が、ベネ
ズエラのスラムの子どもたちに音楽の素晴らしさを通じて自信をつけさせようとして始め
た音楽教育の施設、およびその運動のことで、40万人の子どもたちが学ぶまでに拡大し、
今や政府の支援も受けるようになっている。ここで学び、一流の音楽家になっていった者
たちで構成する交響楽団は名声を博している。
 反核・環境・人権などの課題にNGOとしての活動するピースボートにとって、ベネズエラは、特別な思い入れのある国に見える。2008年から楽器を寄付するなど交流を始め、今年も日本で集めた楽器を贈呈するという任務とともに、今回はカサブランカから8名の「エル システマ」のメンバーを乗船させ、船内での演奏会を開くなどより一層の交流活動を深めている。このためか、寄港地ラグアイアに着いた5月7日の朝、港は吹奏楽で包まれるワ、PB総ディレクターTさんは和服で答礼の意を表すワ、夜には港から数分の近くの公園で歓迎パーティーは開かれるワ、そこにTさんを見習ってかオバ(ア)さんの数人は浴衣姿で現れるワ(エ、こんなんまで持ってきたの!)、地元の人も子や孫がでているからと大挙して押しかけるワ、マ、エライ騒ぎでした。
そして、これも原爆の語り部「折鶴」(第2部 船内生活参照)のメンバーが、現大統領との面会アピールできたのです。想像をこえている。「船内新聞5月10日号」の冒頭だけ紹介する。「ベネズエラに寄港していた8日、カラカス市内において第83回クルーズおりづるプロジェクトの被爆者6名がベネズエラのマドウーロ大統領に面会しました。・・・」

この日、私はOPとして「首都カラカス観光」(12000円)を選んだ。休日でもないのに盛り場は人にあふれかえっており、ガイドの旗を頼りにスペイン統治時代の建物のある旧市街を見てまわった。人々の顔は明るい。ピースボート観光隊御一行様のほうでプラスイメージをもっていたせいか、街の人々は陽気に声をかけてくるように感じられた。残念なことに、見どころのシモン・ボリーバルの生家・博物館、国会議事堂、教会すべて外観だけで中に入れず、不満が残った。何回か前のブログを見れば、内部見学できており、「どういうこと?」。バスを止めるスペース、昼食の場所、トイレ等々観光地としてのインフラ整備もまだまだの感がある。
 それよりも、私も含め多くの参加者(このコースもバス4台)の耳目を引きつけたものは、ある地点からパラパラ、気がつくとびっしりと山にへばりついて建てられている家々が続いている光景であった。そして、私も含めそれこそ多くの参加者は、この間のIさんの講義を思い出していたに違いない。市街地を挟んで、石油資源の利権構造で甘い汁を吸えた富裕層の住宅地一帯の反対側に、職を求めて勝手に住み着いた貧民層の住居群がどんどん拡大していったということだ。その貧民率(具体的にはどんな指標か?までは分からないが)が75%(4人に3人)であったものを20%までに改革していったのがチャベス前大統領であったのだが、クーデター(2002年)によって大統領官邸で身柄拘束→近くの島に拉致された際も、「大統領を辞任しない」姿勢を貫き、そのメッセージを側近の気転により国営放送で流すことができると、何千?何万?という家々から、わらわらと、そう、わらわらと、人が降りてきて大統領官邸を取り囲んだそうで、ためにクーデター政権は3日で倒れチャベスは復帰したのだ。そのドキュメント映画を見る企画もあり胸が熱くなった。
 そう、車窓からえんえん続くこの光景こそ、現代史の舞台なのだ。(神戸の街の山手が貧民の住居群、そして街がどんどん伸びていくというイメージ)何しろ、区画整理された道に沿って作られたものではないので、山の上方では降りてきて、また帰りに登っていくのは大変、だからびっくりするものがあった。ケーブルカーがついているのですよ。もちろんスペイン語だが英語にすればmetro cableとの表記があったので、思わず注視していると、そこはケーブル駅だったらしく、車窓から見上げると確かにゴンドラが往復していた。その後にガイドさんの説明があり、3路線あり、運賃は日本円で30円くらいだそうだ。
 翌5月8日、OPで「エル システマ」見学・交流を選んだ(7000円)。一つくらいピースボートの特徴的なプログラムも選ばなくっちゃ。市内の本部は、個人・グループ練習室が100室以上を数え、様々な講義・実習室・コンピューターを駆使して作曲できる部屋や、演奏会場も有し、近くの大学の音楽学部の学生が借用するなど想像を超えていた。
 ところが、昼食は、カラカスから、も一度ラグアイラへの道を引き返し、ピースボートを横目に見て通り過ぎ、港町のレストランにおいて焼き魚料理であった。レストランの通常メニューを見れば600円くらいで、結局バス代?と考えざるを得ないという不満はさておき、訪問先は、ラグアイラに属する地域の「エル システマ」の音楽練習所だった。元保養所?の施設を入手した「エル システマ」が、この地域の3つのグループ(小学校ごとのようだが、就学前とみられる子もいる)の会員の練習・発表会場としているものだ。小学校ごとの服の色が違うようだ。バスから降りるなり、パーカッションの凄いリズム、数人の子が、タイコ(皮が貼ってあるのは片側だけ)を手で、(なんというのだろうか)中空の木の柱を木の棒で叩いているのが最初の歓迎。2回ホールにあがると別の地域の子どもたちの演奏で、盛り上がる。答礼に訪問団のほうはバス中で練習した「大きな栗の木の下で」や「幸せなら手をたたこ」を身振り付きで発表する(こんなところではレダックは照れない)。そして、正当な国歌ではないが、国民に愛され第2国歌と言われる「ベネズエラ」をスペイン語で合同で歌う(参加者は船上で練習させられたのです)。私もかなり声をはりあげ歌ったのだが、横に来たオバ(ア)サンがまた凄い声、後の交流で分かったのだが、どうも声楽の指導者らしく、数人で彼女と交流している際、いろんなベネズエラの民謡?をゴスペルチックに教えてもらった。「オレーオライローー」とかなんとか(即興ではもう覚えていません)。フリータイムになると、子ども相手だからみんなはしゃぐこと。写真撮影、折り紙、ダンス、贈呈のためある程度まで作成した垂れ幕の共同仕上げ(子供の手やコブシに絵具を塗り、手形として押させる)、パーカッション演奏、名前はともかく電話番号を尋ねること(聞いてどうするの?)などなど・・・帰る時間になり、「もう終わりなので記念撮影しましょう」という趣旨を可愛いCCのAさんが呼びかけても子どもたちはもう熱中し聞いていないので、この時ばかりは、もどうしようもないとばかりに、やけくそでスペイン語をがなりたてておりました。
 やはり、子ども相手はいいものです。バスで連れまわされたという悪印象は、帰るころにはすっかり消えていました。

③ パナマ(5/11~5/12)
 ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、乗船許可が出るや否や、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、インターネットが使えるターミナルなので、やっと書き溜めたブログをまずは投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツが汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(アメリカはパナマ運河に対する権益確保のための属国化政策の名残は通貨にもあらわれており、バルボアと呼ばれるが、紙幣は米ドルでしかない。故に1バルボア=1$で、少額の硬貨だけがはパナマ国として発行されているが、これも米ドル硬貨のデザインだけがちがうもの)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、大西洋側のコロン駅と太平洋側のパナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。
この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインがボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は、二つの海の水面は26mもの高度差の解決だ。レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。第2次大戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の国の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
  翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに大きめのフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。ロック内で船が壁に当たると損傷しかねないので、小さなタグボートg大きな船の位置を突ついて調整する。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子 を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
 で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は東から西へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。

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