⑦ アドレア海2都市 クロアチア ドブロブニク モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸バルカン半島のクロアチアはドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気が出始めたようで、外国旅行好きで訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名もピント来ません。私の場合だと、このあたりは第一次大戦の引き金となった火薬庫であり、戦後はナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアでなかったのか? 東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国だったはずで、いつユーゴはなくなったのか?などなど不確かな知識しかありません。今、写真を入れた改訂版を作っている最中(2014/7/2)なので、FIFAで湧いていますが、前日本監督のオシムさんがクロアチア人であることをご存知のサッカーファンもおられるかもしれない。以下は船内の企画で水先案内人として乗船されたCさんがオシムさんの通訳をやっておられたとかで、以下はCさんに講演で教示してもらったことである。
・ユーゴスラビアのユーゴは「南の」、スラビアは「スラブ人の住む国」という意味だそうで、かつては6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払い、今では7つの国になっている。
クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前で「マケドニア」もその一つ。クロアチアもブーメランのような格好になっており、民族問題の複雑さがうかがえる
・このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違う。
・この時の教訓から学ぶことが多くある。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義がいったん台頭するとなかなかとどめることが難しい
(ついでながら、このCさんは、「旧ユーゴをめぐる紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られており、大変な時代に突入しているのではないか、ヘイトスピーチなどはその兆しだ、すでに紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ安倍さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの傾斜を警戒しなければならない」など強調されていました。そして今7/2 集団的自衛権の閣議決定という急旋回に戸惑っています)
4月19・20日の両日ともOPをとったところ、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OP案内ではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで5種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、乗船客の人で踊りだすのがアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。
赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、ドブロブニクの旧市街は、遠望した街並みの赤い屋根とともに城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁は、総延長距離2Kmも築かれており、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差があり、道幅も色々です。広くなったところは銃眼や大砲の設置してある砦風の場所があるかと思うと、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので40分ほどがあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、フランシスコ会修道院という教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに(シツコイ?)帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・ということなので、特記事項はありません。ただこれは驚いた、イースターのデッカイ卵ということで教会の入口に
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸バルカン半島のクロアチアはドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気が出始めたようで、外国旅行好きで訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名もピント来ません。私の場合だと、このあたりは第一次大戦の引き金となった火薬庫であり、戦後はナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアでなかったのか? 東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国だったはずで、いつユーゴはなくなったのか?などなど不確かな知識しかありません。今、写真を入れた改訂版を作っている最中(2014/7/2)なので、FIFAで湧いていますが、前日本監督のオシムさんがクロアチア人であることをご存知のサッカーファンもおられるかもしれない。以下は船内の企画で水先案内人として乗船されたCさんがオシムさんの通訳をやっておられたとかで、以下はCさんに講演で教示してもらったことである。
・ユーゴスラビアのユーゴは「南の」、スラビアは「スラブ人の住む国」という意味だそうで、かつては6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払い、今では7つの国になっている。
クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前で「マケドニア」もその一つ。クロアチアもブーメランのような格好になっており、民族問題の複雑さがうかがえる
・このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違う。
・この時の教訓から学ぶことが多くある。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義がいったん台頭するとなかなかとどめることが難しい
(ついでながら、このCさんは、「旧ユーゴをめぐる紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られており、大変な時代に突入しているのではないか、ヘイトスピーチなどはその兆しだ、すでに紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ安倍さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの傾斜を警戒しなければならない」など強調されていました。そして今7/2 集団的自衛権の閣議決定という急旋回に戸惑っています)
4月19・20日の両日ともOPをとったところ、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OP案内ではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで5種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、乗船客の人で踊りだすのがアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。
赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、ドブロブニクの旧市街は、遠望した街並みの赤い屋根とともに城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁は、総延長距離2Kmも築かれており、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差があり、道幅も色々です。広くなったところは銃眼や大砲の設置してある砦風の場所があるかと思うと、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので40分ほどがあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、フランシスコ会修道院という教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに(シツコイ?)帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・ということなので、特記事項はありません。ただこれは驚いた、イースターのデッカイ卵ということで教会の入口に
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