お知らせ
メール(reimei.nakayama@gmail.com)またはお電話(059-255-1123)で、れいめい塾まで『内申の件で』とご連絡ください。
今日は中1だったがあまり来ない。ゆえに一人ひとりゆっくり教えられる。
今日は昼のランチから奥さんと銀行まわりに兵站といろいろあって、そのまま夜に突入する。なんや夏とあんまし変わらんねんな。
夜に中3に昔話・・・27期生の一人ひとりの今について話す。昨日と今日実施の模試は27期生の全国模試だ。
27期生以降、全ての学年がこの時期・・・夏休み明けの試験の後にさせてきたが、過去4年間のトップは洋佑(津商業2年)の460点、以下明日菜(津2年)の456点、雅樹(津1年)の445点、紗良(高田1年)の432点、彩花(津3年)の430点と続く。
洋佑と勝負できるのは星翔だが、400点を越える可能性があるのは結菜、和真、柚輝といったところ。明日の最期の社会でどうなるか・・・。
淳嵩(27期生・三重大学工学部1年)の授業。
大西君、有紀が小論文のことで連絡したいけど繋がらないって言ってたけど。また、SMSで連絡してあげてさ。
それと今日、桃子に京都と慶応送っておいたから、普通郵便なんで明日には届く。
昨夜の1枚・・・ふいに英語の点数が上がった海(津東3年)。
塾に密航してきたのが高3からとあり、こと英語に関しては一番不安な生徒だった。ところが今夜解説分の模試が141点。マグレか・・・しかし、マグレも実力がついてきた証左だと思っている。
そして今日は朝から英単語の確認・・・京都大学、慶応大学と早々たるラインナップ。まあ、いい内容でなるべく読みやすい英文を選んでいるわけだが。
「昨日の物理の出来はどやった?」 「物理は・・・まあ、できました」 「じゃあ数学は」 「・・・ダメですね」
昼には尾崎先生とランチだ。
午前5時に出発の予定が俺が起きたのが5時半という失態もあり、親父を乗せて久居インターに入ったのは午前6時20分。ルートは見晴らしがいいだろうと東名。途中、浜名湖のSAで朝食。親父が鰻丼を食べたのには呆れたが、一挙に海老名まで走ったのがいけなかった。親父の腹がゆるんでいたのか、トイレに入って小1時間出てこない。えらく汗をかいて出てきたのはいいが、車を運転して気づく便の匂い。
窓を開けながら走る首都高。結局は目的地の施設の近くのライフに立ち寄り総替え・・・下着はもとより、靴下に靴、ズボンまで買うことになる。紙パンツを履けがいいかもしれないが・・・やはり抵抗があるんじゃないか、そこは強く言えないなと一人ごちる。そんなこんなで施設に到着したのは午後2時過ぎ・・・入るなり再びトイレを借りる親父。
親父がここ最近会いたい会いたいとくり返した親父の姉さんは親父の2歳上・・・91歳だ。最近は認知症も進み、かなり危うい親父の2歳上だからとの俺の思い込み、見事に崩れる。1本芯が通った毅然とした女性。圭亮(7期生・大学職員)のお母さん以来、久しぶりに圧倒される女性と対峙した。質問に対して的確にボールを返し、話題が一方的にならないように測ったようなパスを挙げた。91歳にしてこの聡明さ、怜悧さ・・・思わずこんな姑さんだと苦労したやろなと、長男さんのお嫁さんに同情する。
そして、何度も同じことを繰り返す親父の昔話に根気よく付き合ってもらった・・・息子としたら少々気がひけた展開だったが、そこはすぐ下の弟に対する愛情もあったのだろう、ある時は律儀に、簡潔に、そして時に姉らしく弟をたしなめ、親父の思いの丈を根気よく的確に打ちかえしてもらった。
そろそろ引き上げようかとの俺の気配に気づいたのか、「今日はよく来てくれました・・・でも、もう会えないかも」 ・・・切なかった。
いっぽうの親父は何度も何度も同じ話の繰り返し・・・親父の両親が上の子ども3人を白山に残し、下の4人の子どもを連れて紀伊長島の小学校へ赴任した話に終始する。
親父の姉さんは「北牟婁郡」と言っていたが、今は紀伊長島の海野。松阪工業の生徒だった親父、高校生の夏休みを利用して両親に会いたい一心でJRを乗り継ぎ、紀伊長島に向かった。駅から海野の教員住宅を目指し、妹の手を引いて薄暗くてじめじめした長い長いトンネルを歩いていく。そしてトンネルを抜けたところには一面の海、眼下には漁村、そこには両親と弟たちが暮らす教員住宅がある。
事あるごとに海野の話が出るのに閉口した俺、2年ほど前に親父をプリウスに載せて海野を訪れた・・・その話はこのブログでも書いた、ここだ。
しかし・・・久しぶりに会った姉と話す話もまた海野に終始した。そして昨夜泊まった旅館でもまた酒を飲むとその話になった。いい加減にしてほしいと、適当に相槌を打ち無視していたが海野の堂々巡り、白山で不安のなかを3人でいかに耐えたかが呪詛のように続く。
たぶん、親父は両親から見捨てられたように感じたのだ。
姉さんは「あの頃は私が役場で働きながら、あんたと春子(親父の妹)のお弁当を毎日作ってたのよ」と当時を思い出しては懐かしそうに話していたが、そこには過去の思い出の一つ・・・そんな軽さがあった。いっぽう認知症が進んでいる親父にとっては、あの頃の思いが数日前の出来事のように生身の言葉でほとばしる。
70年以上昔の出来事を何度も何度も堂々巡り・・・姉さんに、俺からすれば叔母さんに申し訳なかった。聞き分けのない子が駄々をこねる、遠く三重県から駄々をこねるためにやって来た・・・俺はそんな気分になった。
しかし、老いてもなおこだわる・・・俺もまたそんな日が来るのだろうか、プリウスを運転しながらそんなことを考えては、親父に富士山を見せてやりたいと裾野に予約した宿を目指した。
少なくとも俺は親父のようにはならない。俺が、俺の親父やお袋について感情的に語ることはない。こだわりとなるようなわだかまりが親父やお袋に持ち合わせていないからだ。裏を返せば放蕩息子だったこの俺が、親父とお袋から三行半を突きつけられることなく本当によくしてもらった、我慢強く付き合ってくれた。・・・その意味では、やはり息子として親父とお袋に感謝すべきなのだろう。
富士宮の浅間大社で・・・親父は何を願ったのだろうか。
叔母さんさえ良ければ、来年の春休みが終わった頃に再び千葉を訪れようと考えている。
塾OBやOGへ。
俺がしつこく、毎朝実家でデイサービスの車に乗り込む親父の写真を撮っては「まずは一つ」と書いたり、こんな旅行の話を書いたりするのは「俺でもやってるけど、あと少しでオマエたちが俺の立場に立つんやで」と、あてつけがましく伝えたいからだ。誰もが老いる・・・ことに古い塾で過ごした連中、掃除に来てくれていた俺の親父をよく知ってる向きにはちょっと厳しい話だったかもしれないが、これが現実だ。同時に40歳あたりを過ぎたOBやOGにとれば、あと10年かそこいらで現実となる。親の看護をするというのは美談ではない、きれいごとではないのだ。ゆえにあるがままに書く、俺のためにじゃない。性格の悪さは重々承知のはず、そう・・・君たちのためにだ。