亜里(22期生・武田薬品)が研修期間を終えて赴任したのは川越だった。俺は夏休みが終わったら必ず会いに行くと約束して別れた。しかし、あの年の夏季講習は過酷であり、疲弊したまま動けないでいた。
ずっと後悔していることは誰にでもある。喉に刺さった小骨をそのままにしていいるだけの度量は俺になく、毎年暮れになると塾を訪れる亜里の親父さんの顔を見るにつけ、刺さった小骨の痛みは増していく。
いつしか亜里は結婚、亭主は奈良テレビに就職していた。遠距離での結婚生活がしばらく続き、会社も事情を理解してくれて大阪に転勤した。奈良で二人で暮らし始め、いつしか子供ができた。「先生、あの亜里が母親になります」 いつになく真剣で俺に報告した親父さん、強張った表情が笑顔で緩んだ。
そんな亜里にやっと会えた。母親の亜里に会えた。
店には大きな車を転がして現れた。止めにくい駐車場にきわどく止めた。昔からは想像できない亜里がいた。「仕事柄、お医者さんちを回るのが多くって、埼玉って道が狭いですから、いつの間にか車を運転するのに慣れてました」
「奈良の人は地元が好きなんですね。大阪の会社に就職しても、実家が奈良にあるのに奈良にアパート借りて大阪へ通う、そんな人が多いですよ」「明日菜(第一工業)はこの春から奈良で一人暮らしや、先達の意見を拝聴したいよな。奈良って寒いか」「いえ、そんなことはないですよ。過ごしやすいところです、晴れてる日が多いし。奈良の人が地元が好きってわかりますよ」「亭主は元気でやってるか」 塾に挨拶に来たときに、マージャンができると聞いて一度お手合わせを言ってたがそれっきりだった亭主を思い出しながら尋ねる。「ええ、最近は営業に変わって夜は普通に帰ってきます。前は制作だったから朝も夜もなかったけど。でも奈良テレビっていい会社ですよ。私たちが結婚して、私が川越にいるのを知って、私と暮らせるようにと東京への転勤を打診してきたらしいんですよ」「嫁の職場に合わせて・・・」「そうなんですよ、ふつうの会社って嫁に配慮するなんてしますか、珍しいですよね。まあ、私が会社にねじ込んでこっちに来たから転勤しなくてよくなったんですけど」
明日菜が勤める会社はいわゆる中小企業だ。同志社大学卒が選択する会社としては違和感がある。それを知るのも今回の目的だった。
明日菜が慣れない就職活動でいくつかの企業にエントリー。WEBで面接をしてくれたのが就任したばかりの社長だった。「二代目で関西大学卒なんですよ。初めっから社長が出てきて、ちょっと面喰ったんですが」「俺の後輩か、で口車に乗っかったか」「話してて、どこか気があったんですよ。確かに小さな会社で、今までは中途採用の人ばっかりで、実は私が初めての新卒なんですよ」「そりゃあ、かわいがられるやろな」「社長の年齢はお父さんくらい、他の方も中途採用だからかなり年上、でも質問ばかりで手をわずらわせても親切に対応して頂いて・・本当によくしてもらってます」「仕事の内容は」「営業で入ったんですけど、なんでもさせられてます」「採用もさせられてるやろ」「ええ」「同志社のかわいい子が入ってるから安心してくださいってとこやな、明日菜は広告塔や」「とにかく仕事を覚えるばかりの毎日ですね。でも、周りの人に見守られながら楽しくやってます」
亜里の言うところの奈良テレビの社員に対する気配り。明日菜の就職活動・・・社長と波長が合ったことでその会社に飛び込み、充実した日々を送っているとのコメント。二人が話す会話のなかには、地場産業の利点が浮き出ているような気がした。
東京で転職について考えさせられた。今の時代が三重の田舎からでは想像できないほどのうねりを見せているのを感じた。そのうねり、ウチの塾生に伝えなければと思った。そして今日、地域で生きる二人の女性を見た。東京とは対極な空気がそこにはあった。二人に流れる緩やかな時間を感じた。この緩やかさもまた、生きていくうえには大切だと思った。
店を出た。名残惜しく、しばらく店の前で話した。明日菜が慣れない仕草で名刺をくれた・・・今かい。でも、明日菜が名刺、これもまた新鮮だった。「今度はオマエが場所を決めてくれよ。また、来る」
亜里が言った、「先生、ダルと会ったんですね」 ダル・・・名古屋れいめい会で幹事をやってくれた友希(22期生・村田機械)だ。「会社のなかで三重支店に居た人が二人いて、聞いたんですよ。『お勧めの鰻屋さんはどこですかって』 一人の人が『うなふじ』って言ったんですよ。ダルのお店ですよね、嬉しかったな」「三重に帰ったら、子どもを連れて両親と行けばいい」「行きたいんですけどね。でも、流行ってるから1時間くらいは待たないとダメでしょ、子どももいるし。最近は飽きるとよく大声出したりするんですよ」「どうやら友希の弟が継ぐらしい。これでしばらくは店は続くさ。息子が大きくなったら行けばいい」
地域で暮らす・・・それもありやな、そんなことを考えながら地道に走行車線を走る。いつもなら1時間で戻れるはず・・・退屈さに耐えながら、それでも俺はどこか気分よくハンドルを握っている。