5月19日。
稲敷市内にはいくつかの城跡がありますが、
茨城県指定史跡になっている神宮寺城跡も
その一つです。
時は南北朝の騒乱の時代、
伊勢の大湊を出港した南朝方の重臣である
北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)らが、途中
暴風雨に遭難して流されて
現在の稲敷市四箇、阿波、甘田、阿波崎といった
地区が取り囲む入り江の辺りに漂着し、
最初に入城したのが神宮寺城でした。
その際に地元の人々は親房らに協力して働きました。
けれども親房ら南朝方の立てこもる神宮寺城は攻め落とされ、
親房らは続いて阿波崎城へと移って戦いますが、
ここも程なく落城し、親房らは現在のつくば市にある
小田城へと落ちのびていきました。
親房らが去った後、北朝方が神宮寺や阿波崎など
この地域一帯を制圧すると南朝方に協力したということで
地元の人々が処罰されることになると、
各村々の代表者である13人の名主等が責任を問われる
ことになりました。
その時に命を絶たれた13人がかわいそうだということで
後の世に地元の人々により建立されたのが
稲敷市指定史跡である十三塚です。
現在は神宮寺城跡も十三塚も神宮寺城跡保存会の有志によって
定期的に清掃などの管理が行われています。
19日にも晴天の下、両史跡の清掃が行われました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/d5/28c7f8fa2e24ff6e164a19399c8a71ad_s.jpg)
両史跡とも郷土の大切な文化財です。
今後とも、地元の人たちの手によって
末永く大切にされていけば良いなと思います。
稲敷市内にはいくつかの城跡がありますが、
茨城県指定史跡になっている神宮寺城跡も
その一つです。
時は南北朝の騒乱の時代、
伊勢の大湊を出港した南朝方の重臣である
北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)らが、途中
暴風雨に遭難して流されて
現在の稲敷市四箇、阿波、甘田、阿波崎といった
地区が取り囲む入り江の辺りに漂着し、
最初に入城したのが神宮寺城でした。
その際に地元の人々は親房らに協力して働きました。
けれども親房ら南朝方の立てこもる神宮寺城は攻め落とされ、
親房らは続いて阿波崎城へと移って戦いますが、
ここも程なく落城し、親房らは現在のつくば市にある
小田城へと落ちのびていきました。
親房らが去った後、北朝方が神宮寺や阿波崎など
この地域一帯を制圧すると南朝方に協力したということで
地元の人々が処罰されることになると、
各村々の代表者である13人の名主等が責任を問われる
ことになりました。
その時に命を絶たれた13人がかわいそうだということで
後の世に地元の人々により建立されたのが
稲敷市指定史跡である十三塚です。
現在は神宮寺城跡も十三塚も神宮寺城跡保存会の有志によって
定期的に清掃などの管理が行われています。
19日にも晴天の下、両史跡の清掃が行われました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/61/2a805bb9e661f7fe2987c76b903ee0f7_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/d5/28c7f8fa2e24ff6e164a19399c8a71ad_s.jpg)
両史跡とも郷土の大切な文化財です。
今後とも、地元の人たちの手によって
末永く大切にされていけば良いなと思います。