今朝のNHK「おはよう日本」で
題された特集があった。
「登戸研究所」については、明治大学平和教育登戸研究所資料館で
当時の様子を知ることができる。
以前見学をしており、最近も、山田朗(明治大学文学部教授)館長の
お話を伺ったばかり。(→「今よみがえる・・・」)
さて・・・
この陸軍の「登戸研究所」とは、
現在の明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)内にあった、軍事施設だ。
ここは、1937(昭和12)年以来、
日本陸軍における<秘密戦>兵器の開発機関だった。
それが昭和20(1945)年春、長野県の伊那谷の寺へ移転している。
敗戦の後、軍事資料は全て焼却されたため、わずかな手がかりから
当時の様子を、住民を中心に探っている・・・
というのが番組内容だった。
海外からの物資が入ってこない、戦争末期、
使えるものは全て使って、本土決戦に備えよう、というのが
戦争指導者の考え方。
本土決戦・・・
沖縄戦を思い浮かべてみれば、わかる。
終戦の数ヶ月前、沖縄は戦場となり、十代の子ども達も戦争に駆り出され、
小さな子どもやお母さん、お年寄りは、着の身着のまま、
食べるものもない中、降り注ぐ砲弾の中を逃げ惑う・・・
あれを本土で行おうとしたのが本土決戦。
わたしの興味がある海軍サイドから言うと・・・
既に連合艦隊は壊滅状態、連合艦隊司令部は陸に上がり、
横浜市日吉から指揮を執った。
終戦の4月には、海軍総体を組織、海軍の全権限をまとめ、
日吉の連合艦隊司令部が、この司令部も兼任する。
「水上特攻」といわれる戦艦大和の出撃も
「神風特別攻撃隊」に代表される特攻作戦も
日吉から命令が出され、本土決戦を少しでも先送りするためにと
決行されている。
戦争指導者は、本気で本土決戦を考えており、
どうやら敵が九十九里あたりから上陸すると想定し、
準備を整えていたようだ。
我が神奈川県なんて、まさにその最前線。
太平洋に面した神奈川の海。
横須賀の海にも、お洒落な鎌倉の稲村ヶ崎にだって
本土決戦に備えた「伏龍」という名の特攻兵器の
関連施設ががあったのだ。
特攻兵器は、みな、信じられないような兵器なのだが、
とりわけ「伏龍」にいたっては、もう「本気ですか?」と、
失笑したくなるような代物。
まず、潜水服を着た特攻兵が、棒をもって、海の中に待機。
敵が上陸しようと近付いてきたら、
下から、その棒で「えいやっ!」と突く。
棒の先には機雷がついているのだ。
だから「伏龍」は「人間機雷」とも呼ばれる。
幸い、本土決戦はなかったので、
この「伏龍」が実戦で使われることはなかったものの
訓練中の事故が多々あり、犠牲者がでている。
物資不足の戦争末期のこと、お粗末な潜水服を着込んでいる上、
機雷は誘爆を起こしやすかったからだそうだ。
ちなみに作家の城山三郎も、この訓練を受けている。
先ほどの「登戸研究所」でも、
番組によれば、伊那谷の土を使って缶爆弾を作り、
国民に持たせようとしていたのではないかとうとしたと言うし・・・
アメリカとの圧倒的な物量の差が、わかっているからこその
無謀な策・・・
日本人の太平洋戦争による犠牲者は310万人、
うち最後の1年は200万人だという。
沖縄戦、広島・長崎への原爆、本土空襲などを考えれば
納得できる人数だ。
でも、もしも、1年早く戦争を止めていたら?
少なくとも、海軍連合艦隊が壊滅した、
昭和19(1944)年10月のレイテ沖海戦で大負けしたときに
真剣に終戦を考えていたら?
陸軍だって、海軍の大敗北で、補給路を断たれ、
戦場では戦って死ぬ兵士より、餓死者が増えるわけだから・・・
あのときに、戦争を止めていたら、
太平洋戦争の犠牲者は1/3で、済んだかもしれない。
(それだって、ものすごい人数だが)
この上、本土決戦なんてされなくて、本当に良かった・・・
(っていう問題だけではないことも重々承知)
そんなことになっていたら、
わたしは、今、ここにいなかったかもしれない。
そもそも、日本という国が存続しているかどうか・・・
戦争は始めたら止められない。
ウクライナの戦争を見ても、それは明らか。
そのことを絶対に忘れてはならない。
口で勇ましいことを言う人は信用できないのだ。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
思いつくまま綴ってしまい申し訳ないです。
この時期、いろいろなメディアで取り上げられる、
戦争のあれこれを見ていると、怒りやら悲しみやら・・・
もう感情が揺れるばかりで・・・
お許し下さいませ。