高度成長期に生まれ、バブルに浮かれた世代なので、
子どもの頃は、駅前でうずくまる傷痍軍人を、よく見かけたものだ。.
もっとも、街育ちで口の悪い祖母は
「あれは、<おもらいさん>をして稼いで、御殿に住んでいるニセ者よ」と、
必ず吐き捨てたけれど。(根拠は不明w)
真偽はどうあれ、いずれにせよ、
子どもの私には不気味で直視できない存在だった。
父方の大叔父が戦場に行ったという話も聞いている。
(今思えば、言語道断な話なので、それについてはいずれまた)
このように、わたしたち1946年~1975年生まれは、
村上登司文によると、「家庭や地域社会で戦争体験の記憶が引き継がれた」
世代、戦争体験第2世代というそうだ。
ところが1976年以降に生まれた、第3、第4世代への
戦争体験の継承がうまくいっていない。
研究者のあいだでは勿論、言われてみれば、私のような素人でも
なるほどそうかも知れないと、わかる。
知人女性は言う。
「若い友達が言うんです。
キーウの映像を見ていたら、ハイヒールを履いている人がいる、
何なんだ、あれは、信じられないと・・・
わたしは、母から戦争中の話を聞いていたので、
『戦争中だって、ゴハンを食べていくために仕事に出るし、
買い物だって行く。ハイヒールだって不思議じゃないでしょう?』と
いくら言っても、わかってもらえなくて・・・
戦争の中に日常があるのに、
戦争というと、空襲の中で、ずっと逃げ惑っているイメージなんですよね」
と、戦争体験を継承する難しさを語った。
数年前、こうの史代『この世界の片隅に』がアニメ化され
それをきっかけにNHKが「わたしたちのすずさん」?とのタイトルで
「身近で聞く戦争中の普通の人や体験」を募集、2年に亘って放送した。
そのとき、戦争中も日常があったこと、に
多くの人が驚いていたことが印象に残っている。
戦争の中に日常がある?日常の中に戦争がある?
どちらにしても、いつの世も、人は必死に生きたことに感動する。
だからこそ、戦争は恐ろしいのだ。
でも、そこがやっぱり伝わっていかない、
伝えることは難しい。
吉田裕(ユタカ)先生はおっしゃる。
先生は一橋大学で長く教鞭をとられ、
現在、東京大空襲・戦災資料センターの館長も務めておいでだ。
「無残な死を遂げた戦没者を悼む・生き残った人々に寄り添う・
忘却のかなたに押し流されようとしている多くの人々の
戦争体験を研究者として記録に残す」という思いが
御年齢と共に、ますます強くなっていらっしゃるそうだ。
一方で空回りを感じるとも続けられたが。
先生の『兵士達の戦後史ー戦後日本社会を支えた人びと』(岩波現代文庫)に
わたしは、どれほど感銘を受けているか。
今、夢中の「虎に翼」が描く時代を証左する一冊だ。
本のおかげで、ストンと納得することも多い。
思えば、40代半ばで大病の告知を受けたのは辛かった。
思いがけずリンパ節転移がありステージも上がっている。
5年後も、この世にいられるのだろうかと、たくさん泣きもした。
そのときに、ふと観た映画が
こうの史代原作の「夕凪の街 桜の国 」だった。
あのときの憤りが、今のわたしの想いの原点かも知れない。
おかげさまで、20年近く経った今も、生きていられる。
リンパ転移によるリンパ郭清手術のため、
今年突如現われた、まさかのリンパ浮腫に悩まされてはいるが
命の危険は無く、元気だ。
この時間を大事にしたい。
今までだって、サバイバー生活に悔いはない。
いつのときも、毎日を慈しんで過ごしてきた。
明日は、突然、断ち切られてしまうかも知れないのだから・・・と。
災害や戦争のない、穏やかな世であっても、
大病の告知をされたら、明日は激変するのだ。
わたしも、いつのまにかシニアと呼ばれる年齢になり、
第3,第4も存在する中での、「戦争体験第2世代」となった。
幸い、80代の母が健在である。
終戦時は幼女であっても、戦後のことならば語ってくれる。
しっかりと聞いておきたい。
それを語り聞かせる子どもや孫がいるわけではない。
外に出て、そのことを語り、平和を叫ぶ体力も気力もない。
誰のためにもならないけれど、
戦争のこと、歴史を知りたい。
わたしが、ただひたすらに知りたいのだ。
先日、吉田裕先生の御講演を拝聴している。
研究者としての真摯なお姿、誠実な語りに背筋が伸びた。
本日は、わたしが、これから生きていく上での備忘録。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
個人の勝手な日記です。
もろもろ、どうぞお許し下さいませ。
★本日の引用は、吉田裕先生の御講演における
レジュメから引用しました。
★書影は出版社およびHonya Clubより
映画のポスターは映画.comよりお借りしました。