最近、朝ドラ「虎に翼」の影響か
戦後すぐの混乱期にも惹かれるようになった。
(吉田裕先生の御講演の影響も大きい)
以下も、その一環。
戦後すぐの混乱期にも惹かれるようになった。
(吉田裕先生の御講演の影響も大きい)
以下も、その一環。
浜田哲二 浜田律子『ずっと、ずっと帰りを待っていました
―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―』(新潮社)。
タイトルの「指揮官」とは、伊東孝一・元大尉。
アジア太平洋戦争の沖縄戦で、米軍を苦しめることのできた、
日本軍の数少ない指揮官である。
大尉は、24歳の若さで、第24師団歩兵第三二連隊、第一大隊長として
1000人近い部下を率い、沖縄戦を戦い、生きて帰国している。
以後、伊東元大尉を本書にならい、「伊東大隊長」と呼ぶ。
伊東大隊長は、戦後、およそ600の戦死した部下の遺族へ
謝罪の手紙を書いている。
遺族からは356通の返事が届き、ずっと大切に保管なさっていた。
著者・浜田夫妻は、伊東大隊長から託され、
著者・浜田夫妻は、伊東大隊長から託され、
NPO法人をたちあげ、この356通を遺族に返す活動を続けている。
2024年2月の時点で、手紙のほぼ4分の1を返還することができたという。
晩年の伊東大隊長は、私の住む横浜市内、金沢区に、
妻と暮らし、戦争の歌を詠む、穏やかな日を送る。
2020年2月、ひっそりと自宅で逝去、享年99歳。
朝日新聞他メディアで伊東大隊長の保管した手紙は
取り上げられており、ご存知の方も多いことだろう。
本書は、いわば、その活動記録であるが、それだけではない。
本書は、いわば、その活動記録であるが、それだけではない。
各章ともに、まず伊東大隊長の目線で沖縄戦を記し、
次に遺族からの返事を載せ、最後に手紙を返還す、いきさつという
三つの構成からなる。
次に遺族からの返事を載せ、最後に手紙を返還す、いきさつという
三つの構成からなる。
つまり沖縄戦の記録でもあると同時に、
それぞれの章(エピソード)から、遺族が、戦後をどんな想いで迎え、
生き抜いてきたかがわかる。まことに胸に迫る。
本書は期限がきて、一度は図書館へ返却したのだが、
きちんと内容を遺しておきたくて、再び借りている。
生き抜いてきたかがわかる。まことに胸に迫る。
本書は期限がきて、一度は図書館へ返却したのだが、
きちんと内容を遺しておきたくて、再び借りている。
以下、印象に残った、エピソードをまとめたい。
戦後、復員兵への風当たりが強かったことは、よく知られている。
たとえば、映画「ゴジラ-1.0」では、
神木隆之介演ずる主人公の復員兵が帰還すると、
近所の主婦(安藤サクラ)に小突かれ、責められる。
「あんたたち兵隊がしっかりしないから負けたんだ。
家族がみな死んだんだ。あんたたちのせいだ」と。
本書でも、戦死した小早川秀雄伍長の父・啓二郎さんからの手紙
(1946.7.7)に以下のようにある。
「礎とは肩書きだけ。犬猫より劣る有り様」「村長も二言目には犬死にだと
しか申されません」「非難の声、同志一様です(=非難轟々の意)」と
述べた。戦後、兵士の死が軽んじられていることに対する憤りだ。
ここで注目すべきは、父が「戦没者への補償や処遇」にたいし
あからさまに遺憾だと訴えている「数少ない書簡」ということだ。
70年後の現在、手紙は秀雄伍長の義理の姪に返還された。
姪御さんによれば、義祖父は、大切な息子が戦死したのに、
遺族年金は雀の涙、と嘆き続け、
その年金も途中で受け取りを拒否したという。
「家族の死は金に換えられないが、国による戦没者への償いが、
こんなにも心もこもらないものなのか」と憤っていたのが気の毒だった、
と姪御さんは目を伏せたそうだ。(引用は108、109頁)
アジア太平洋戦争中、兵の命を軽んじた国の後処理らしいといえば、
その通りだが・・・
父上の怒りが、あまりに切ない。
一方、戦時下の圧倒的な物流の差にありながら
些末なことには、こだわる例に愕然とした。
激戦地である沖縄・棚原での戦闘中、伊東大隊長は
連隊本部に連絡しようとナマ文(暗号化していない文章)で
「我が大隊は」と、日付と位置のみを打電させた。
すると数時間後の返電には
「暗号書の紛失理由を知らせよ 進出はしばらく待て」とあった。
暗号手は、前夜、戦死している、というのに。
「敵陣深くまで突入し占領しているのは我が大隊だけのはずなのに、
細部を責められ、叱られているかのようだ」ったと、
伊東大隊長は語ったそうだ。
すべきことが違うだろう!?と叫びたくなるエピソードだが
この空気は、現代まで引き継がれていないだろうか?
戦後、周囲の勧めるままに、諸事情から、
夫を亡くした未亡人が、やむなく夫の兄弟と再婚と言う話も、
よく聞く。
情報の錯綜する当時のこと、死んだと思った夫が
再婚後、ひょっこり戻ってきた悲劇も多々あったという。
沖縄・棚原で四面楚歌状態の戦闘で、
戦死した倉田貫一中尉の妻・琴さんも、そんな未亡人だった。
琴さんは、戦後、復員してきた夫の弟と再婚している。
琴さんの長男は、沖縄で戦死した父を誇りに
思っていただけに、
父を忘れたかのように振るまう、母の冷たい態度に、
わだかまりが募ったという。
父は、激戦で全身が四散して戦没した。
伊東大隊長への返信に、妻である母・琴さんは、
「肉一切れも残さず飛び散ってしまったのですか」と
夫の最期を確かめようと、詳しく尋ね、気丈さを見せる。
しかも、伊東大隊長に出した返事は、
なんとハガキも含め、3通にも上った。
これを受け取った長男は目を真っ赤に腫らす。
新しい夫と家への配慮のため、亡き夫を忘れようとしていた
母の想いと葛藤を初めて知ったからだ。
「母がこんなにも父を想い、愛していたとは思いもしませんでした。
この手紙がなければ、私は死ぬまで誤解したままだった」138頁
さらに、伊東大隊長との手紙のやりとりの後、
母・琴さんが再婚相手である父の弟と一緒に
大隊長を訪ねていたことも知る。
長男は、ずっと好きになれなかった義父(叔父)だった。
その人が、かつての兄嫁と亡き兄の上官を訪ねたという、
若かった叔父の葛藤も、いかばかりだったか・・・
既に母も、叔父も亡き人である。
一方で、行方知れずとなった妻もいる。
野勢勝蔵上等兵の妻ミサヲさんも、そのひとりだ。
当番兵(将校の身の回りの世話係)だった野勢上等兵は
沖縄での敵中突破に先立ち、白米を初めて炊く心遣いを示すような、
心優しき男だった。
この翌日、弾の直撃を受け、即死する。
伊東大隊長は、戦後、妻ミサヲさん訪ねた日を振り返り、嘆く。
「ミサヲさんは、野勢のことが好きで好きでたまらなかったようだ。
本当に気の毒なことをしてしまった」と。
夫の出征後、ミサヲさんは出産、待望の男の子だったものの
赤子は夭折。
このときもまだ打ちひしがれていたという。
そんな妻・ミサヲさんからの返信(1946.6)も残されている。
昭和16(1941)年7月出征以来、一度も夫と会うことは叶わず、
陰膳を差し上げて無事を祈り、嫁として農家で働き、
つらいときは「必ず明るい社会の一歩手前にたどり着いている」と
「一人心をムチウチ誓い」過ごしてきたのに・・・
「その甲斐なく今は寂しく一人残され、自親もなく子供もなければ
金もなく・・・」と嘆きつつも
「神の試練と諦めて、世の嵐の中に強く正しく生きます」と
けなげに結んでいる。
この手紙は勝蔵さんの妹に手渡され、喜ばれたが・・・
ミサヲさん自身は、その後、野勢家と疎遠になり、
行方を誰も知らないのだそうだ・・・
例を挙げればきりが無いが、
おしなべて夫や父を亡くした家族は、経済的基盤を失い
苦労している。
敗戦直後の混乱期とはいえ、
国が十分な補償を為てこなかったことが大きいのだろう。
さて、著者夫妻が立ち上げたNPO法人を大学生が手伝っている。
手紙の返還は、毎度、手紙の担当者(大学生)が著者夫妻に同行し、
現地で聞き込みなど、遺族を探すことから始まる。
田中幸八上等兵の妻・田中輝子さんを追って、
帯広まで出向いたものの、探し始めてほぼ2年にして、
現地で打つ手がなくなってしまったときのことだ。
ボランティアの学生、後藤麻莉亜は涙目で訴える。
「諦めるにしても、最後に輝子さんが住んでいた場所に行ってみたい」と。
55頁。
ついに、そこへ降り立つや否や、「ここに暮らしていらしたのね」と
感触を確かめるかのように、トントンと足踏みをする。
その様子を見ていた地元の人に声をかえられ、
なんと、輝子さんの身内へと道がひらけたのだった。
現代に生きる大学生のひたむきな想いに、
故人との不思議なご縁がつながったかのようだ。
また、黒川勝雄一等兵の遺族への返還でも不思議なことがあった。
亡き父がしたためた手紙を、故人の妹たちに、無事渡すと、
妹たちからは、兄のお気に入りだった、上野動物園で撮った写真を
見せられている。
後に、妹たちと著者らと、兄が亡くなった、沖縄の激戦地に建てられた
慰霊塔「西原の塔」に、お参りをしたときのことだ。
手を合わせ、ふと慰霊塔を見ると小さな卒塔婆が置かれてる。
なんと「黒川勝雄」と墨書されているではないか。
写真を撮り、関係者にみてもらうも、誰一人心当たりはないという。
実は、出征を前に、兄は復員したら結婚したいと、
母親に女性を引き合わせていたという。
上野動物園も、その女性と出かけたのかもしれない。
もしかしたら、卒塔婆を供えたのも、
何十年も、彼を想い続けた婚約者だったのではないか・・・
帰りの車中、学生メンバーの高木乃梨子は、さめざめと泣き、
静かにつぶやいた。
「動物園の写真と卒塔婆のギャップがつらすぎて・・・
私の愛する人には絶対に戦争へ行ってほしくない」と146頁
彼女と同じように想う人たちが、
今、ウクライナに、ロシアにいる。
📷書影は新潮社からお借りし、
冒頭画像は2021年1月沖縄で撮影しました。
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備忘録に長々と、おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
素人の記事ゆえ、不備はあるかと存じますが、
どうぞお許し下さいませ。