広島、江田島の海軍兵学校跡(第一術科学校)・見学記。
本日は番外編、海軍兵学校跡から離れ、校外のゆかりの地へ足を延ばす。
向かった先は、「真道山・千本桜」。
この江田島市のHPによれば、
昭和の初めに兵学校が土地を購入、生徒の訓練場として
あるいは憩いの場として使われたそうだ。
なるほど、訓練場ね・・・
わかるよ、わかりますとも!
実際、途中までは車で来られたものの、
最後の最後は心臓破りなんてものじゃない。
↑はるか先へと階段を登らねばならず・・・
今でさえ、こうなのだから、
兵学校の頃は、どれほど過酷な道のりだったか・・・
これなら訓練になる!
山上には「同期の千本桜」記念碑がある。
建立は、平成4年3月、「海軍兵学校連合クラス会」と刻まれている。
碑文によると・・・
昭和14年11月、昭和天皇の兵学校行幸を記念し、
真道山一帯に、吉野の千本桜を植えた。
ところが、戦後の山火事で焼失。
それからは荒れるに任せていたが・・・
花と緑の万博の年(平成2年)
能美町、大柿町の協力や、「日本さくらの会」の支援により
同期の千本桜を植樹する。
「散華したる幾多の先輩期友を偲び、海軍兵学校の精神を
次の歌と共に後世に語り継がん・・・」と結ばれ、
「同期の桜」の歌詞が刻まれていた。
「貴様と俺とは同期の桜・・・」
昭和生まれなら、聞いたことのある軍歌だろう。
余談ながら「貴様」の呼びかけは海軍流なのだそうだ。
↑池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞社)で
知ったエピソード。
歌詞の内容は、さておき、
碑文にも刻まれた「散華(戦死)」した仲間を偲ぶ気持ちは、
心からのものだろう。
かつて若くして出征したものの無事復員した人たちは
多くが「なぜ、自分は生き残ったのか」と
終生、問い続けていた(いる)と、聞く。
お辛かろう・・・
もうひとつ、ここには「五省」の碑もあった。
徳川宗英氏によれば、発案者は三川軍一大佐(後・中将)。
(記念碑に、発案は「江田島出身」の軍人という名前が刻まれていたが
三川大佐かどうかは記憶にない。広島県出身だそうだが)
「五省」は1日の締めくくりとして、毎晩、生徒が暗誦したそうだ。
一.至誠に悖るなかりしか(不誠実な行動はなかったか)
一.言行に恥づるなかりしか(言動に恥ずべき点はなかったか)
一.気力に欠くなかりしか(気力にかけることはなかったか)
一.努力に憾みなかりしか(悔いを残さないよう、諦めずに努力したか)
一.不精に亘るなかりしか(不精をせず、最後まで物事に取り組んだか)
なるほど・・・
これを暗誦して、1日の反省をする・・・ふむふむ。
・・・と思いきや、徳川氏は
「かけ算九九のように次から次へと唱えるだけ」
だったそうだ。
このあと、すぐに就寝の巡検があり、気が急いていること、
身体がくたくたに疲れていることなどを挙げているが・・・
氏は、当時、今で言う高校一年生。
いくら、当時の子どもがおとなびていても、
内容も難しければ、成長期の眠くてたまらない時期。
下級生は、そんなものだったのかもしれない。
肝心の千本桜は、3月半ば、
せいぜい、ほころびかけた蕾を見つけるのが、やっと。
一週間もすれば、花がきれいに咲くのだろう・・・
真道山からは瀬戸内の海が眺められ、
海軍兵学校を見下ろすこともできる。
その地に仲間が植えた千本桜は、
若くして亡くなった魂を慰めてくれるだろうか・・・と
想いつつ、後にする。
・・・と、現実派の夫が苦笑した。
「桜の花見、混雑しないのかな。
どうすんだろうな、
車を駐車するスペースなんて全然ないじゃん」。
夫は、ここで、方向転換がやっとで、しかもズリズリすべる砂地に
苦労して駐車してくれた。
実感だろう。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
リンクしたHPや、現地の碑文と、以下の本を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。
◆参考・引用
徳川宗英『江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関』角川新書