広島への旅、平和記念資料館編。
前記事で、書きたかったことを書いたつもりだったけれど・・・
もうひとつ、覚えておきたいエピソードを
思い出す。
それが、広島県知事・高野源進(1895~1969年) の書簡だ。
高野源進・元知事は、昭和20(1945)年6月に広島県知事に着任。
もともと官僚だったそうな。
(都道府県知事が選挙で選ばれるようになったのは
第二次世界大戦後のこと。それ以前は官選)
高野・元知事は、前任地・大阪での上司に書き綴っている。
「昨今当広島市のみはさしたる被害も蒙らず、
却って気味悪き様感ぜられ」
(<最近、各地の中小都市が被爆されているのに>ここ広島だけが
たいした被害も受けず、かえって薄気味が悪ように感じている)
この手紙の日付は7月21日。
この二週間余後、8月6日、広島は、原爆を投下される。
不安を抱えながらも、
元知事は、広島は木造建築の多い街だからと、
火災に備え、延焼を防ぐための建物疎開の指示を出していた。
(建物疎開といっても、実際は壊すだけのことがほとんどだけれど)
この建物疎開の作業にあたったのが、
『いしぶみ』(ポプラ社)で知られる、旧制広島県立広島第二中学校
(現・広島県立広島観音高等学校)1年生ら、
勤労動員されていた広島の生徒達である。
原爆投下時、元知事は、前夜から出張で福山にいたため
無事だった。
ところが、広島市長ら、県知事と共に対策を考えるべき
行政のトップは亡くなってしまった・・・
元知事は、原爆投下の広島市の指揮を一手に担うこととなる・・・
手紙に書かれた太い力強い筆文字は、
高野・元知事のお人柄だろう。
肝の据わった、冷静な人物とお見受けした。
一方で、不安を吐露する文面には
人間らしい弱さを見せ、正直な方であることも、うかがわせる。
調べてみたところ、元知事は、会津の出身とのこと。
会津は、維新以降、「逆賊」の汚名を着せられている。
その出身者が一高、東京帝大へと進み、
官僚の道を歩んでいくには、並々ならぬ努力と覚悟があったはずだ。
頭が下がる。
さて、元知事の手紙を読んだとき、
大きく頷いてしまった。
当時、広島に空襲がないことは庶民の間でも話題になっており、
よその土地から、わざわざ疎開して来る家庭も多かったと聞く。
おそらくは、元知事のように不安を抱く人も多かっただろうが、
一方で、「アメリカへ移民を多く出している土地だから空襲されない」
などと都合の良い解釈をしてしまう場合もあったのだ。
今に重ならないか?
世界情勢に不安を感じている・・・たぶん、誰しも。
日本は、これからも平和でいられるの?
・・・大丈夫だよね、きっと・・・うん。
また、今年は関東大震災100年、
南海トラフも、近いうちに高い確率で起こると言われている・・・
・・・・・・もろもろ、見ないふりをしていないか、わたし。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料とウィキペディアを参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあることかと存じます。
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。
参考
◆「原爆投下時の知事が書簡、広島で4通確認」日本経済新聞
◆広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社