歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

平和記念資料館にて~広島の旅

2023-03-18 06:47:40 | 広島県
初めて、じっくりと旅する広島。
もちろん、広島平和記念資料館へ行く。

実は30年前にも、訪ねている。
ところが、これが、なんと年末の休館日だった!

すごすごと、後にしてから・・・
次に訪ねたのは、今回・・・
実に30年もかかってしまった・・・




館内では、被爆の悲惨さを伝える展示の前で、
見学者の、すすり泣きが聞こえていた。


休館日で、見学を、あきらめた30年前から、
今に至るまで・・・
旅先では、できるだけ戦争遺跡を訪ね、
ふだんからも戦争関連の情報に触れているつもりだ。

なので、被爆のむごい展示は
語弊を恐れずに言うなら、想定内。
むしろ、ずいぶん、抑えているな、という印象だった。




だが、やはり涙が出て、止まらなくなる。
「2-2-9混乱の中の救援・救護活動」と題された展示を見ていたときだ。

 
原爆投下後、広島市では、指揮をとる市長を喪い、
交通・通信網も寸断され、すべてが大混乱に陥った。

そんななか、多くの人が、立ち上がっていた。

顔に包帯を巻いたまま、罹災証明書を書く人、
幼い女の子に食事を与える兵士・・・
銀行は原爆投下の3日後、8日から営業していたとの展示もあった。

・・・そういった姿に、わたしも涙が止まらなくなる。


極限状況の中、人は人に手を差し伸べることができる・・・

今まさに戦争中のウクライナ、大震災に見舞われたトルコ・シリアでも、
人と人が支え合っている。

一方で、もしも、そのとき、あるいは、これから先
わたしが居合わせていたら、どうするだろう、できるのか?
と危ぶんでもしまう。不安。





このとき、いち早く駆けつけたのは、
「暁部隊(あかつきぶたい)」こと「陸軍船舶司令部所属部隊 」だった。
広島の軍港・宇品に置かれた、戦場に兵や物資を送る部隊だ。


それから、大久野島のひとたち。

広島に「新型爆弾投下」という情報を知ると、
救援のため、すぐに広島へ船を出したという。

大久野島は、わたしも昨年秋に訪ねている。
今やウサギの島として知られる人気の観光地だが、
戦前・戦中は、毒ガスを作っていた島でもある。

戦後、そこで働いていた人たちは、毒ガスの後遺症に悩まされた。
その中には、広島へ救援に出かけ、
二次被爆に苦しめられた人もあったと聞く。

そうなのだ。
このとき市外から駆けつけた人びとは、二次被爆によって苦しめられ、
時には命を落とすことになった。

それを知っているから、いっそう辛くなる。




ブログのお仲間から、
瀬戸内海側にある小学校は、ほとんど修学旅行で広島へ行くことを
教えていただいた。

わたしの知る限り、
横浜や東京の公立では、高校の修学旅行で、どうにか・・・
というところだろう。 
つまり、広島を訪れる高校生は、限られている。

この日の平和記念資料館は、外国人見学者が圧倒的に多かった。
また、5月には、広島で、サミットも開かれるという。
それは素晴らしいことだ。
各国のリーダーの心にしっかりと響いて欲しいと思う。

だからこそ、私達日本人も知らなければ・・・

初めて、じっくりと旅した広島市は、
想像以上に魅力的だった。
でも、ここに至るまでに、どれほどの傷を負い、
ここまでの街をつくりあげてきたのだろう・・・
それを思えば、この街に、いっそう心打たれるはず・・・
(と、わたしも、アラカンの今、ようやく訪ねたのだけれど)




以下、余談だが・・・

堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ 』(講談社)は
広島出身の著者によるノンフィクションだ。

「なぜ、広島に原爆が投下されたのか?」の疑問から
「暁部隊」を丹念に追い、分析を重ねる・・・
そして、宇品の存在が、ひとつの理由と考えるに至る・・・。

この本の影響で、宇品もぜひ訪ねたかったのだが
時間の関係でかなわなかった。
今、当時の面影を遺すのは小さな石碑だけだという。
それでも、宇品へ行けなかったことは、心残りでならない。

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とりとめのない記事に、
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

以下を参考に、記事をまとめましたが、
間違いや勘違いも、あるかと存じます。
素人のことと、どうぞ、お許し下さいませ。

参考:
南々社編集部(編・著)『広島、1945』 南々社
 記事中の古写真は、ここから撮っています。

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