お彼岸に実家にて、義兄や姪達とアルバムを見ながら10数年前に亡くなった義父の話に花が咲きました。
私には嫁ぎ先なので、舅になります。
義父は軍人でした。明治35年生まれで、昭和4年の頃、「近衛歩兵第四連隊」に所属していて、「那須御用邸儀仗衛兵」として天皇や皇族などを護衛していたそうです。凛々しくて勲章に飾られた軍服姿は立派に写っておりました。
若かったのですね。お茶とお花をやったいて何処の令嬢かと思える方々と写っているセピア色になった写真、髭を生やしての中退幹部時代の頃とか、このような時代もおじいちゃんに有ったのだと感慨深く思いました。
義母は生前、雅子さまのパレードのような時、昔は馬車でしたから、天皇や皇族の護衛をしたものよ!と、それは誇らしげに、幸せそうに話しておりました。そして田舎に後継ぎが絶えるに当たり、義父が田舎に戻ったわけです。そのまま都会に居れば運命も行く道も違っていただろうに何が悲しくて田舎に入ったものかと、息子《私の夫)、義兄達は、愚痴っております。
晩年、80歳に近い頃の義父は、10分とかからぬ距離の所に居る、望まなかった嫁であったかも知れない私の所に軽トラックに乗ってお茶呑みに来たものでした。義父を誇りに思っていた義母も一年前に亡くなりました。
彼岸に実家にて、義父の生きて来た歴史を再認識した今年の春分の日でした。
私には嫁ぎ先なので、舅になります。
義父は軍人でした。明治35年生まれで、昭和4年の頃、「近衛歩兵第四連隊」に所属していて、「那須御用邸儀仗衛兵」として天皇や皇族などを護衛していたそうです。凛々しくて勲章に飾られた軍服姿は立派に写っておりました。
若かったのですね。お茶とお花をやったいて何処の令嬢かと思える方々と写っているセピア色になった写真、髭を生やしての中退幹部時代の頃とか、このような時代もおじいちゃんに有ったのだと感慨深く思いました。
義母は生前、雅子さまのパレードのような時、昔は馬車でしたから、天皇や皇族の護衛をしたものよ!と、それは誇らしげに、幸せそうに話しておりました。そして田舎に後継ぎが絶えるに当たり、義父が田舎に戻ったわけです。そのまま都会に居れば運命も行く道も違っていただろうに何が悲しくて田舎に入ったものかと、息子《私の夫)、義兄達は、愚痴っております。
晩年、80歳に近い頃の義父は、10分とかからぬ距離の所に居る、望まなかった嫁であったかも知れない私の所に軽トラックに乗ってお茶呑みに来たものでした。義父を誇りに思っていた義母も一年前に亡くなりました。
彼岸に実家にて、義父の生きて来た歴史を再認識した今年の春分の日でした。